幻惑の糸葉水仙(三)

 その日、ぼやけた春の陽射しが降り注ぐ中、リュシアンはフェルンの街をぼんやりと歩いていた。

 ベオルニアへ渡る船が入港するまでの間、遊んでいるわけにはいかないと仕事の手筈を整えたところだった。この港街に楽師の組合はない。人が集まる市場で営業するためにその長を訪ね、多少の上納と引き換えに彼は営業許可を取り付けた。営業は翌日からの契約なので今は何もできず、市中を彷徨うろついて街の様子を観察するだけだった。

 詩人の目に映るフェルンの街は、かつてに比べて活気が無い。本来の主人である女伯マリセタがいないことで、街全体が沈み込んでいるような印象を受けていた。

「こんなところで仕事をするのか?」と詩人の口から愚痴が漏れた。

 実のところ、リュシアンは無理をして路銀を稼ぐ必要はなかった。昨夏、メリザンドの父エルドレッドの依頼を引き受けたことで、金銭的には余裕があった。とはいえ営業をしないと楽器の腕も錆びついてしまうだろう。明日からは気持ちを入れ替えて労働にいそしもうと、心の中で決意したその時、

「リュシアン様ですか?」と自分の名を呼ぶ声に、彼は足を止め振り返った。

 そこにいたのは詩人の見知らぬ男だった。詩人よりもやや年長であろう男が、リュシアンの様子を伺っていた。怪訝な表情を浮かべた詩人は、男の顔をじっと見た。かつては見知っていたのかもしれないが、数年の月日は人に経験やら苦悩やらの跡を刻み、その雰囲気をも変えていく。そうしたことを考慮してなお、リュシアンにはその男のことが判らなかった。

「数年ほど前、城にいたリシャールと言います」とその男は言った。

 覚えていると嘘をつく気にもなれずリュシアンは申し訳なさそうに返した。

「申し訳ないが覚えていない。なにしろこの数年、ここには来ていないから」

「無理もありません。当時の自分は見習いの下っ端だったので、あなた様と言葉を交わしたことはないのですから」

 リュシアンは苦笑した。一方的に知られているだけ、つまり無関係な間柄だ。この場合、「お初にお目にかかる」なのか「変わりはないか」なのか、どう声をかけるべきか詩人が迷っていると、相手が勝手に話を進めた。

「うちの妹がかつて伯姫はくき様のところで宮女をしておりまして、リュシアン様にはよくしていただいたと言っておりました」

「妹殿が?」

「はい。アンヌと言います。リュシアン様は下女の自分達も等しく扱ってくれると言っておりました」

 再び詩人は苦笑した。

 リュシアンにはアンヌという名にまつわる記憶はなかった。だが目の前にいる男の妹に、昔日、言い寄ったのだろう。言い寄ってうまくいったのかそうで無かったのかは不明だが、うまくいかなかったのだろうと推察した。フェルンを冬の逗留地にしていた頃は、伯姫の嫉妬による干渉で、城の女たちを口説く試みはあらかた失敗に終わっていた。失敗ばかりだったが、女に対して強引なことをしたり、酷い扱いをしたことはない。下女に対しても貴族の女に対するかのように接したはずだ。群れた女は厄介で、集団内の一人の女に嫌われると、あっという間に全員から嫌悪の目を向けられる。だからリュシアンは身分を問わず女には優しく接してきた。果たしてそれが徳行だったのかは知らないが、こうして年月を経ても声をかけてくれる者がいるのはありがたい事だと、詩人は思う。

「妹殿はお元気か?」

「はい。伯姫様が嫁がれていった際にお城勤めを辞め、今じゃちゃんと母親をやっておりますよ」

「そうか。伯姫様がここを離れ、多くの者がいとまを出された事だろうな」

「そうなんですよ。あの頃はフェルンも賑やかで羽振りも良かったのですが、アルジャンタンと同盟してからは、どうも……」

 この街に活気の無さを感じるのは、どうやら自分が久しぶりに訪れた他所者だからというわけではなさそうだった。住人ですらそう感じているようだ。

 決して賑わっていないわけではない。だが往時の活況を知る者からすると、この街はどことなくおとなしい。「そうか」と応じ、少しばりの昔語りを交わしたあと、男と妹のこれからの幸運を願う旨を伝えて、リュシアンは男と別れて再び歩き出した。かつて口説こうと試みた女たちも、その多くが結婚し子をもうけているのだろう。七年というそのわずかな年月の間に、あらゆるものは変化している。人は昔のままならず、そして街も昔の姿ではなかった。

 フェルンは思い出の街だったが、もう二度とこの街に足を踏み入れることはないだろうと、リュシアンは感じていた。なればこそ、ここにいる間は少し昔の思い出に浸りながら過ごしてみるのもよいだろう。そんなふうに考えると、カツカツと石畳を鳴らす靴音は、どことなく調子に聞こえる。家々のちょっとした汚れや破損も、この色褪せた街の象徴であるかのように詩人の目に映る。

 かつて城への逗留は冬の間だったから,この街では枯れ木ばかりを目にしていた。花は僅かに待雪草ガランサスがあるばかりだった。今、芽吹きの季節にあって、花も木々も緑が目に眩しい。街に活気はなくとも、緑は生き生きとして鮮やかだった。

 そうして歩いているうちに、詩人は街の中心にある城へと辿り着いた。緻密に組み上げられた城壁が街区を睥睨し、その壁の奥にはかつてフェルン伯家の生活の場が存在していた。そしてこの城こそが伯政の中枢だった。今は城代が管理し、アルジャンタンの指示の下で動いている。

 寂しげに「主人あるじ無き城、か」と呟いて城壁を見上げたリュシアンの目が、胸壁クレノー狭間アンブラシュールに立つ女の姿を捉えた。

 ハッとした詩人は、脳裏に伯姫はくきマリセタの姿を思い浮かべながら、その女をよく見ようと目を凝らした。だがすぐに別人だと分かった。月日は流れており、マリセタももう二十代の後半だ。城壁上の娘は明らかに幼く、十代後半あたりの少女だった。城代の娘だったりするのだろう。

 興味を失ってリュシアンは視線を城壁から外した。

 再び城壁を見上げた時、その娘の姿は壁体メルロンに隠れて見えなくなっていた。ふうっとリュシアンはため息を付いた。

 詩人が思い浮かべた伯姫──今や伯妃はくひだが──が、今ここにいるわけもない。最後に会った日から七年ほどの月日が流れている。今更、会いたいとも思っていない。

 伯姫との交流、あれは若かりし日の夢だ。

 そして夢だったからこそ美しい。

 それを掘り起こすのは無粋というものだ、と詩人は自分に言い聞かせ、城の方から離れていった。

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