幻惑の糸葉水仙(二)

 感傷に浸りながらぼんやりと眺める懐かしい街並みは翳りを帯び、夜がそれをいっそう際立たせている。

「あの街とは大違いだな」と呟いて詩人リュシアンが思い出したのは、冬の間を過ごした〈学院〉領の賑わいであった。学問所を中心に膨張し続ける〈学院〉領、つい先ごろまで詩人はそこにいた。そして二月ふたつきほど前、冬の寒さもようやく緩みはじめようとするその頃、リュシアンは冬の間に逗留していた屋敷にいとまを告げて〈学院〉領を出たところであった。

 その屋敷には若い娘が老いた使用人夫婦とともに住んでいた。娘の名はメリザンドという。リュシアンがかつて世話になったことのある、西の島国ベオルニア王国タイン地方の首長エアルルエルドレッドの娘だった。昨夏、リュシアン自身も帯同した大きな戦で斃れたエルドレッドの遺言を伝えるために、彼は数ヶ月をかけて東方の〈学院〉に住まうメリザンドを訪ねた。そのため冬の稼ぎの口を失ってしまったのだが、彼女の好意により冬の間の宿を提供された。

 屋敷での暮らしは居心地が良く、これ以上留まっていては放浪詩人としての暮らしに支障が出てしまうようにリュシアンには思えた。だから春を前に再び路上に出て、放浪の生活に戻ることを彼はメリザンドに伝えた。

 もう少し暖かくなってからでも良いのではと引きとどめようとするメリザンドに対して、謝意は示しつつもリュシアンはそれ以上の厚遇を拒絶した。メリザンドは美しく気立の良い娘で、これ以上同じ場所で生活をするとなると、好意以上のものを抱いてしまいそうに思えた。怪しげな放浪の世界に生き、品行方正とは言い難い詩人は、自らに劣情が芽生え抑えがたくなっていくことを恐れた。恩人であり尊敬するエルドレッドの娘に不埒なことを働いてしまうのではないかと危惧した詩人は、一刻も早く屋敷から出て行きたかった。

 接し方を、その距離を見誤ってはならない。

 そう言い聞かせ、危うい色恋を謳う詩人でありながら、リュシアンは自身の好意が広がっていくことだけは押さえつけた。恩人の娘に抱くのは劣情ではなく誠実だと自らを律した。同年代の若く美しい娘との同居は、誠実であろうとすればやがて苦行になっていく。本来の旅暮らしに戻れば、このような苦しさから解き放たれるだろう。そう考えたリュシアンは、一日も早くエルドレッドの墓前に報告したいと尤もらしい理由をこしらえて、春を目前に立ち去ることを決めた。当然、ここ〈学院〉とメリザンドの元にはもう二度と戻らないつもりであった。

 だが「次の冬にはまた戻ってこられますか?」などと寂しげな目で訴えかけられると、リュシアンの決意はぐらつき、曖昧な返事をするしかなかった。


 そもそもメリザンドは積極的な理由で〈学院〉で暮らしているわけではなかった。敵襲が激しさを増す故郷タインを離れ、避難所アジールとしての〈学院〉で暮らしているに過ぎない。〈学院〉はいと高き学問の座とはいえ女学生は圧倒的に少なく、彼女には使用人夫婦の外に話し相手が少ない。だから冬の日々を一つ屋根の下で過ごした同郷の詩人は、メリザンドにとって久しぶりに心許せる歳の近い話し相手であった。

 恩人の娘とあって、邪なことを考えないようにとリュシアンが節制を課していたにもかかわらず、メリザンドは無邪気に詩人に心を開き、心を通わせようとした。

 リュシアンは自分に言い聞かせた。肉親の死で心を弱らせていた時に優しく接した自分に、勘違いの好意を寄せることもあるだろうと。メリザンドは首長エアルルの娘なのだから、いずれふさわしい相手を見つけねばならないのだと。

 やんわりとメリザンドの好意を避け続け、この出立をもってメリザンドとは永遠の別れとするつもりであった。

 だが、メリザンドのすがるような眼差しには心動かされた。それでも、この地の城門を出た後には、そんな心の動揺もいつか消えていくはずだった。

 だが追い打ちをかけるかのように、家政を執り仕切る使用人の老エドガーが、詩人に秘密の依頼を持ちかけた。一冬の恩義ゆえに詩人は断ることができなかった。その報告のために冬には再び〈学院〉の地に戻らざるを得ない。実のところ、戻ってきても良い理由を得たような気もして詩人の気持ちは高鳴った。

 詩人が不埒なことをしないように、老人はずっと目を光らせていたものだが、それでも彼は女主人の気持ちもある程度理解していて、詩人が戻ってきても良い理由を敢えて作り出したかのように思えた。「手は出すな、でも気持ちは汲んでさしあげろ」などと勝手な事を要求しやがると詩人は思うが、腹立たしくは感じない。

 再びこの地に足を踏み入れる時、願わくはメリザンドにふさわしき縁談が持ち込まれていればと思い、詩人はエルドレッドの墓参りと密命を果たすためにベオルニアを目指す道の途上だった。

 ベオルニアに渡るためには通常であれば海峡の街ルゥに立ち寄るところであったが、なぜか今回は少しだけ遠いフェルンからの出航を考えた。昔日の思い出をよすがに、今を忘れたいと願ったのかそれはわからない。だが急ぐ旅路でもなく、寄り道も悪くないと詩人は考えた。

 だから詩人はフェルンにいた。

 その詩人の耳に、下町の騒ぎ声がかすかに聞こえてきた。どのようなところでも、人の集まるところ喧騒は発生する。だが、やはりかつてほどの賑わいは無いと詩人は思ってしまう。

 まだまだ宵の口だが、この様子では宿も店もすぐに閉まるのではないか。そんな心配が詩人を現実に引き戻す。遠くの炬火を名残惜しそうに眺めながら、詩人は当夜の宿を探すためにふらふらとに闇に消えていった。

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