第六章 幻惑の糸葉水仙

幻惑の糸葉水仙(一)

 その城の灯火はゆらゆらと揺らめいて、春の宵闇を焦がしていた。

 遠くからも見ることのできるその炎は、城下をほんのりと照らしているだけではなく、対岸のベオルニアからやってくる船のための道標にもなっている。

 まだ少し肌寒さも残るが、身体にまとわりつく空気は柔らかな春だった。

 見上げ眺める城のは、黒い世界を引き裂いて目に温かさを届け、そして夜に充満する黄水仙の甘い香りが鼻腔を刺激する。

 穏やかだった。そして世界は弛緩していた。


 城の壁を見上げた詩人は、この地を訪れたのは何年ぶりだろうかと感慨に耽り、そしてこの街が色褪せてしまったかのように感じていた。

 目にする景色の何もかもが懐かしい、だが一方で、まるで見知らぬ街に迷い込んだかのような感覚に詩人は陥っていた。この街はもう、詩人が知るフェルンの街ではなかった。街並みは変わらない。だが、賑やかなりし伯領首座都市の雰囲気を、詩人は感じることができなかった。

 かつて、この城壁の火は今よりももっと熱く燃えていた。この港町は交易路の結節点として、多くの人と物に溢れていた。だが夜を知らぬと称された日々は今や遠く、この街は船と人の通過点の一つに過ぎなくなった、そのように詩人には映った。

 原因は明らかだった。

 本来いるべき女性ひとがいないのだ。そのたった一人の不在が、詩人にとってこの街を知らない何かに変えているような気がしていた。

 ふと「あれから数年か」と詩人の口から呟きが漏れた。

 この街と城の主人であるフェルン女伯マリセタは、ここにはいない。婚礼とともにアルジャンタンの伯領に移り住み、もう数年が過ぎている。主人なきフェルンの城は、城代が管理している。

 女伯がいないからこそ、詩人にはこの街が往時の賑わいを失っているかのように見える。だがそれは、彼の感傷がそう思わせているだけだろう。実際のフェルンは、ベオルニア廻りの物資の集積港の一つとして、移動商人達が集う今も賑やかな街である。詩人が感じた寂寥せきりょうは、主に文化的情緒にあった。主人のいない城には、旅回りの詩人や遍歴の騎士たちは寄り付かない。かつての華やかさを欠く原因は、自分のような放浪詩人の姿が見えないことにあると、今このフェルンに到着したばかりの詩人の目にはそう映った。


 この詩人リュシアンもまた、かつてフェルンの文化的栄華に引き寄せられたひとりだった。楽師としても駆け出しの二十歳前後の頃、フェルンをよく訪れていた。

 当時は怖いもの知らずで、でも行動力だけはあり、若すぎる伯姫はくきマリセタの関心を買うことに躍起になっていた。その甲斐あって伯姫に気に入られ、側にあって竪琴リラを捧げては、彼女からの賞賛を勝ち得た。そうしていつしか、フェルンは若き日のリュシアンにとって冬の逗留地となっていた。

 冬の間は城に滞在し、伯姫達のために音楽を捧げた。楽師も伯姫も若く向こうみずで、今ならば遠慮し恐縮するような距離感でお互いに接した。あれから七年ほどの時を経た今、世間の目や身分秩序、慎みといった慣習や制度に馴化し盲従している自分には、あの当時のような距離感で高位貴族に接することは無理だろう、そう詩人は痛感する。

 そして、見誤った距離感は、許されざる秘密の共有へと帰結した。

 伯姫が女伯へとその称号を変えようとする頃、詩人と伯姫は一度だけ、ただの男女として向かい合った。

 そのあとふたりに残されたものは、金銀さんざめく秘密の庭に仕舞い込まれた甘美な時の記憶なのか、それとも抜けることなく時に心を苛ます棘なのか。詩人には未だ判別がつかない。

 その次の冬、伯姫と交わした約束を確かめるために詩人が再びこの城下を訪れたとき、彼女は既にこの地を去っていた。降りしきる雪の中、果たされることはないと知りながら詩人は女を待ち続けた。

 今はもう出来そうもない。それも若すぎたがゆえのまっすぐな行動だったのだろうかと、昔を懐かしんで詩人は空を見上げた。


 星が光の線となって地上に降り注ぐ。それは地上に届く直前で、城の灯火に打ち消されて夜に溶けた。灰の雲が流れ、さらに光の邪魔をする。それは夜風に流されるまま悠然と舞う蛾の行手を惑わせた。

 大きな白い羽をひらひらと不器用に動かして、蛾は宙に在る。まるで星であるかのように、蛾の青白く闇に浮かぶ様は美しかった。手を伸ばせば届きそうで、リュシアンは無性にそれを手にしてみたくなって虚空に手を差し伸ばした。

 むろん届かない。伸ばした勢いで背に負うフィドルがずれ落ちて、詩人の腕に食い込んだ。不快な様子でフィドルを背負いなおすと、詩人は呟く。

「どこに向かって飛んでいる?」

 語りかける言葉は闇に混ざりゆく。

 そして詩人は思う、自分はこの街に何をしに来たのだろう。

 急に昔を懐かしみたくなったのだろうか、と詩人は自問する。とはいえ、過去を懐かしむほど詩人は年齢を重ねたわけではない。

 未だ詩人は若く、だからこそ伯姫との間に起きたことを整理しきれていない。だがそれは遠い日のこと。決して戻ることのない時間ときあやまたなかった未来の果てに何があったのか、今は知る術もない。


 詩人の鼻腔を黄水仙の甘い香りがくすぐる。

 息苦しいほどの濃厚な香に満ち満ちた春の夜。

 命が復活する喜びの季節にあってなお、フェルンは静かだった。主人なき城は悲しげで、冬に取り残されてしまったかのような寂寥に包まれている。煌々と夜を照らす城の灯火もどこか生気を欠いているように詩人には映る。

 伯姫マリセタが嫁いだアルジャンタン伯は、シフィア湖岸の大貴族ラヴァルダン伯の傍系。その領地はフェルンからほど近いとはいえ、リュシアンにとっては行く理由もない未到の地。

 主人あるじなきフェルンでは、ただ粛々と時が流れている。詩人はそう感じていた。

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