百合の剣(九)

 水滴を拭い、メルシーナはオフィリアの手を借りて衣服を身に纏う。場の雰囲気を重苦しくしたことを気に病んでか、彼女は一心不乱に主の世話に没頭している。

 あの後メルシーナは、「あなた、オフィリア様に気安く触れてるんじゃ無いわよ」などと理不尽な理由でアンジェリカから再び湯を顔に浴びせかけられた。当然、盛大にやり返し、またしても子どもじみた湯のかけ合いになって、場は賑やかさを取り戻した。

 その結果、結い上げていたにも関わらず、びしょ濡れになってしまった髪は乾ききらず重い。同じく侍女たちの手を借りて衣服を身にまとっていくアンジェリカもまた、髪を気にしているようだ。

「どこぞの小娘に水をかけられて、災難だったわ」などと侍女たちにうそぶいているアンジェリカに、先に手を出したのはそっちだよねとメルシーナはいらついて、

「権力者って、すぐに暴力に訴えるものなのかしら」などと嫌味を言った。

 しかし「仲がよろしいんですね」とにこやかに応対する侍女たちの言葉に、毒気を抜かれてしまった。

「アンジェリカ様がご迷惑をおかけいたしますね」

 侍女の一人に追い打ちをかけられ、さすがにこれ以上の悪口を言うわけにもいかずメルシーナは「そんなことないですよ」などと苦笑いして返した。

 だが、しばらくぶりに口を開いたオフィリアの言葉は、

「そもそもうちの小娘が、アンジェリカ様に散々ご無礼いたしておりますので」とメルシーナを卑下するものだったので、それはメルシーナの癇に障った。

 それでもメルシーナはグッと堪えた。なんだかんだでオフィリアがメルシーナを立てようとしていることは理解している。

 アンジェリカが三人の侍女に世話されているのに対し、メルシーナの手伝いはオフィリアが一人で行う。その動作が、いつにも増して機敏で力が入っているように感じられ、向こうの侍女たちに対抗心を燃やしているのだろうな、と少し可笑しく感じられた。

 騎士たちはすでに身支度を整え、オフィリアを手伝おうかとうろうろしていたが、彼女の動きに隙はなく、邪魔になりそうだと手持ち無沙汰にしていた。

 ようやくアンジェリカが身なりを整えたところで、侍女の一人が「姫様、これを」と短剣を差し出した。

 差し出されたそれを受け取ったアンジェリカは、自らの手で腰に下げようとしたところでメルシーナから声をかけられた。

「わぁ、すごい豪華な剣ね」

 メルシーナの言う通り、その鞘に宝飾さんざめく瀟洒なつくりの短剣だった。

「まぁね、実用のものではないけれど」

 アンジェリカは剣を腰から離してメルシーナに見せた。数々の宝石は、中央にあしらわれたラヴァルダンのユリの紋章を取り囲むように配置されていた。これはラヴァルダン伯の権威を示すもので、それを帯びることは伯権の代行者であることを示す。だが、鞘のもう一方の面には本来はユリの紋章があるべき位置に、アザミの花の紋章が嵌められていた。

「アザミ?」

 当然の疑問だった。そのアザミの紋はところどころ傷ついて古めかしく、煌びやかなその剣には似つかわしくなかった。

「献上品だか分捕り品だか、それとも嫁入りの持参品だか判らないけれど、そうしたものよ。前の所有者に敬意を表して、敢えてその紋章は外していないんだと思うわ」

 メルシーナもまた年頃の娘らしくキラキラと輝く宝石の類には興味があり、その鞘をまじまじと見続けた。これが武器だなんて思えないと、彼女は率直な感想を述べた。

「綺麗だけど、戦闘には向かないよね」

「さっきも言ったけれど、実用の剣では無いわ」

「切れないの?」

 メルシーナの問いかけにアンジェリカは面白そうに笑った。

「切れるかもしれないけど、これは誰かを傷つけるための剣じゃないわ」

「権威の象徴ってこと?」

「それもあるけど……そうね、騎士様たちの剣は、戦いで撃ち合って敵を倒し誰かを守るための剣よね」

 騎士たちの瞳を覗き込みながらのアンジェリカの言葉を受け、アニェスは自分の剣を握りしめ、自信たっぷりにはっきりと答えた。

「ええ。守るべきもののために、いくらでも、百合ひゃくごうでもこの剣で撃ち合って見せますわ」

 エミリアも頷いてみせた。その大袈裟な表現に笑みを溢しながら、アンジェリカは少しだけ鞘から剣を抜き出した。わずかばかり顔を見せた剣身に、鏡のようにメルシーナの姿が少し歪んで映っていた。ストンと再び鞘に収めると、アンジェリカは言った。

「この剣は敵と戦うための剣じゃ無い。そうね、この剣が誰かの血を吸うとしたら……」

 少しだけアンジェリカが悲しげな表情を見せた。

「この剣はね、百合ユリの紋章の誇りにかけて、何かの時に、アンジェリカ・ド・ラヴァルダン一人を殺すことができればいいだけの剣なのよ」

 その横顔の厳しさと寂しさに気圧されて、メルシーナは思わず目を丸くした。そんな彼女を見やって、アンジェリカは微笑んだ。

「まぁ、そうならないようにしないとね」

 おどけて見せたアンジェリカだったが、メルシーナは笑わなかった。アンジェリカが一瞬見せた厳しい表情に、胸を打たれていた。幼い頃の自分が、知らず侍女に押し付けていた覚悟をアンジェリカは自らに課していた。

 その短剣を腰に括り付けると、アンジェリカは上衣を羽織って外から見えないようにした。

 そしてメルシーナにはぞんざいに、その他の者には丁重な挨拶をして、ひと足先に立ち去った。侍女たちは丁寧な礼をメルシーナたちに捧げると、アンジェリカの後に続いた。ラヴァルダンの娘たちの優雅で毅然とした後ろ姿を眺め、メルシーナが小さく呟いた。

「本物のお姫様よね」

 皆、無言で頷いた。


 アンジェリカの姿が見えなくなってなお、メルシーナは彼女が消えていった方を見つめ続けていた。

 そしてメルシーナは思う。

 ──様々な覚悟に触れることのできた一日だった。彼女たちが口にしたような覚悟を、自分はまだ持ち合わせていない。

 メルシーナは振り返り、二人の騎士と侍女に向かい合った。

 ──でもいつかは持たねばならないのだろう。それは怖くもあり、でも彼女達と同じ地平に立てる期待感もある。

 瞳がとらえるオフィリアの表情に騎士達の眼差し、メルシーナはそれを美しいと感じた。

 ──その美しさは、うちに秘めた覚悟や意志が輝いているからなのだろうか。

 そろそろ出ようかと皆に告げてメルシーナは前を見据えた。

 ──いつかわたしも、そんな美しさを身につけたい。

 心の中で強く自分に言い聞かせ、メルシーナは歩み出した。


 (1195年 夏)

 (百合:花言葉「威厳」・「純粋」)

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