百合の剣(六)

 浴槽のへりに腰掛け膝下を浸しながら、上半身を惜しげも無く曝け出したその娘は、少しながら「ごきげんよう」と小さく手を振った。浴場を包み込む薄暗さと湯気は、その年齢には似つかわしくないあでやかな陰影を彼女にもたらし、そのあまりの妖艶な様にメルシーナは思わず息を呑んだ。

「アンジェリカ、どうしてここに?」

 メルシーナの疑問を無視して、アンジェリカはオフィリアに微笑みかけると、

「その小娘はともかく、エミリア様もアニェス様も愚兄には過ぎたお方ですから、ラヴァルダンとしては大歓迎ですわ」と二人の騎士に向かって丁寧な口調で話しかけた。

 無視された上に二、三歳しか年齢としの違わないアンジェリカに小娘扱いされて、メルシーナは少しだけムッとしたが、咄嗟とっさに何も言い返せなかった。

 アンジェリカの言葉を受けた騎士たちは、特にアニェスは慌てて上体を起こして座り直し、

「無礼な放言の数々、お許しください」とかしこまった。

 メルシーナは憮然とした表情を浮かべながらも、慌てて取り繕うアニェスの様子をおかしく思った。

「許す? 何を? ラヴァルダンはそこそこ古い家系だけど、もともとは力でのし上がった家だから、あまり相手の家柄や家格なんかにこだわりはないわ。それに、力のある方に望まれるのは名誉なことよ」

 アンジェリカの流麗な発音は耳に心地よく、その声は浴場にこだまして残響を皆に楽しませた。そして立ち上がったアンジェリカはゆっくりと湯をかき分けて、四人のもとに近づいてきた。一歩、また一歩と進むたびに形の良いツンと張りのある膨らみがやや重たそうに揺れる。纏わりつくような水滴に全身を湿らせ、つややかに濡れたアンジェリカは同性から見ても美しく、メルシーナは思いもよらず見惚れてしまった。

 やって来たアンジェリカは、ゆっくりと座り込みその身体を湯に浸した。

 思いがけないアンジェリカの登場に騎士たちは緊張していたが、「お行儀の悪い盗み聞きをしていたようなものだから、そんなにかしこまらないで」と、おっとりとした口調でアンジェリカは気遣った。そんな友人の立ち居振る舞いを見て、鷹揚で優雅だなとメルシーナは感心する。その傍らで、アンジェリカの姿にいち早く気づき、そのけしかけるような眼差しを受けて冗談のきっかけを作ったオフィリアは戸惑っていた。一糸まとわぬラヴァルダン伯姫はくきと同じ場にいるのは身分的に憚られた。

「メルシーナ様、私は向こうに控えていますね」とオフィリアは下がろうとした。だが、

「構いませんわ、オフィリア様」とアンジェリカがそれを制した。

「と言われましても……」

「オフィリア様は典礼局の楽匠マギストラではありませんか。この中ではあなたが一番お偉いのですから」

 身分や学位、官職が入り乱れる。学位は身分に勝るを旨とするここ〈学院〉においては、世俗の身分は建前上は意味をなさない。アンジェリカは伯の娘であるが、学位としては学士リケンティアに過ぎず、上には修士マギステル導師レクトルといった階梯がある。

 アンジェリカは、そのような立場や身分のずれを上手く利用して人間関係を築いている節がある。だがこれは、周囲からするとたまったものではない。

 実態は辺境の土豪の娘とはいえ、王女の号を保持するメルシーナはまだしも、その家臣身分に過ぎないオフィリアは、アンジェリカの言動に戸惑いを隠すことができない。

 ラヴァルダンはシフィア王と忠誠誓約を結ぶ諸侯の中でも格が高く、その経済的繁栄や文化水準においては王領を凌ぐ。ラヴァルダン人にとっては、シフ人の王など古代国家との血縁的繋がりがあるだけの田舎貴族という認識らしい。その古い血に敬意を表して、ラヴァルダン伯が王を僭称することはないが、実質は王号を名乗ってもよいだけの勢力を保持している。

 メルシーナにとってアンジェリカは親しい友人だが、他の者にとっては畏れ多い存在だ。いくら本人が緊張するなと言っても、それは無理だろう。それでも、

「よもやラヴァルダンの姫君に、ここでお会いするとは思いませんでした」と話の糸口を探るべく、エミリアが先陣を切って話しかけた。

「まぁ、ここにはよく来るからね」

 この浴場は官職保持者や高身分者、富裕層といったあたりを客層としている。いくら〈学院〉が学位を身分よりも重視していても、実際は高身分者専用の施設も数多く、身分による住み分けは確かに存在する。だから、アンジェリカがここにいてもおかしくない。

「今日はたまたま、あなたたちを見かけて、ついてきただけなんだけどね」

 悪戯っぽくアンジェリカは笑いかけた。そうして、両の手で一掬いしたお湯に顔に浸した。その手の隙間から零れ落ちる雫たちが、アンジェリカの胸元を滑り落ちて湯の中に消えていった。閉じた瞳から溢れるまつ毛に小さな水滴が光り、くすぐったそうにアンジェリカはそれを拭うとそっと目を開いた。

「気持ちのいい湯加減ね」

 話しかけるたびに、可憐な笑顔を添えるアンジェリカに、皆の緊張もすっかり解けていた。こうしていると、アンジェリカも普通の娘でしかなくて、皆の目の前で無防備な姿を晒す彼女がラヴァルダン伯の娘であることなど忘れてしまいそうだった。

 アンジェリカはいくつもの顔を使い分ける。ラヴァルダンの伯姫としての顔、友人にしか見せない顔、その他にもいろいろな顔を使い分けるのだろう。この人もまた、いろいろなものを背負って生きているのだろうなとメルシーナは思う。

 そのアンジェリカは、二人の騎士を相手に馬鹿話を繰り広げている。

「騎士様たちにはうちの愚兄をあげるからさ、あなたたちにはいい感じの兄弟や従兄弟殿はいないの? 私も浮いた話の一つや二つしてみたいのよね」

 流石の騎士たちもアンジェリカ言いたい放題に困惑しているようだったので、友人である自分がたしなめるべきだろうとメルシーナが割って入った。

「ラヴァルダンの姫君がそんな冗談を言って他人ひとを困らせないでよ。こんな冗談、お付きの方々が聞いたら卒倒するわよ」

「それはまずいわね。彼女たちにも束の間の休息を与えてるつもりだから卒倒されては困るわね」

 それほど反省の色も見せず、クイっと顎を逸らして広い浴槽の向こう側を示すアンジェリカの視線の先には、ラヴァルダン屋敷でアンジェリカの世話をしている侍女たちが、湯に浸かりながら談笑している姿があった。

「本当は、私がいない場所で羽を伸ばせられればいいんだけどね」と寂しそうにアンジェリカが言った。

 誰かがその真意を尋ねる前にアンジェリカは、

「お役目とはいえ、私に付いてラヴァルダンを離れることになって申し訳ないわ」とつぶやいた。

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