百合の剣(五)

 その時、冷めた声でアニェスが話に入ってきた。

「まぁ、相続とかが面倒なことにならないようにってのもわかるけど、あなた自分を犠牲にしすぎだと思うけどなぁ」

 湯船に顔を半分だけ埋めたメルシーナは、そのまま目を大きく見開いた。話に加わらず聞くばかりだったオフィリアも、内心でアニェスに喝采を送っていた。自己犠牲は美しいのかもしれないが、エミリアのそれはあんまりではないかと、彼女の家のやり方には腹立たしさを覚えていた。無論、人にはいろいろな事情があることはわかるから、滅多なことは言わない。だからこそ、アニェスの無邪気な言動には胸のすく思いがしていた。

「私が口出しすることじゃないけど、普通の女の在りようとやらに戻る日のことを考えて、準備してても罰は当たらないと思うけど」

「準備?」

 思わず声を出したのはオフィリアだった。ふふと笑みを漏らしたアニェスは、あっけらかんと答えた。

「ええ。玉の輿狙い! 幸い〈学院ここ〉には色々いるしね」

 ははと笑ったエミリアはお湯を掬うと、アニェスに投げつけて、

「色々いるにしても、そこに辿り着くまでが大変でしょ!」とぶっきらぼうな口調で言い放った。

 かざした手でお湯の直撃を阻むと、アニェスは盛大にやり返した。実際、任務が多忙で男を見定めることはおろか、騎士団ギルド員以外に出会いがないことなど、アニェス自身もわかっている。だからアニェスは無責任に言い放つ。

「例えばよ、メルシーナ様のお友達にラヴァルダン伯家のお姫様がいるわよね。その兄君は独身だそうよ。ラヴァルダンほどの大貴族なら、あなたの所領を乗っ取ろうなんて考えないでしょ」

 あからさまに呆れた表情を浮かべたエミリアだったが、思いつきを放言しただけのアニェスの表情は得意げだ。ラヴァルダンの名前はあまりにも突飛すぎて冗談にしかならないから、

「そんなことができれば苦労はしないけどね」

 とエミリアは苦笑して流した。実は大真面目に聞いていて、エミリアなら狙えるんじゃないかなどと考えたメルシーナは、何も言わなくてよかったと相変わらずお湯に顔半分を沈めたまま思っていた。

 上唇から下をお湯に埋めていると、目線は低くなる。水面に近い位置でメルシーナは横目で騎士たちの胸元を見比べ、冗談の区別すらつかないわたしは、やっぱりまだまだ子供なのかなぁなどと改めて思う。その時、大きく動いたアニェスが起こした水流がメルシーナの顔を襲い、「ん!」と声なき声を上げてメルシーナはお湯から顔を引き上げた。

 ふぅと一息ついて体勢を変え、身体を反転させたアニェスは、浴槽のへりに両腕をつけてうつ伏せにもたれかかった。一連の動作でかき乱された水の流れが、アニェスの露になった背中にぶつかって波紋を描く。肩にかかった湯が、その背中をゆらりと舐めるように流れ落ちた。揺れる水面は、アニェスの胸のあたりをくすぐりながらやがて落ち着いていく。

 くすぐったそうな表情を一瞬だけ浮かべたアニェスが口を開いた。

「私は商家の娘で、玉の輿狙いで〈学院〉に入れられた。でも、父親が死んで実家も落ちぶれて、帰る場所もなかったから、ここで働かざるを得なかった」

 今度はアニェスが自分語りを始めた。背を向けたのは、表情を見られたくなかったのだろうかとメルシーナは思った。

「本当は教師あたりが良かったんだけど、それを目指して学びたくても先立つものはないし、困り果てた時に思いついたのが傭兵これだった。女の衛士は人手不足、ここで生きていくにはこれしかないって。まぁ、詩学とかやってたから騎士に対する憧れはずっとあったわけだけど」

 小さく笑ったアニェスだったが、その笑いは翳りを含んでいた。アニェスは言わなかったが、実家の破産に直面した彼女が、今後の生活の糧として真っ先に思いついたのは、娼館に身を寄せることだった。文無しの女が一人で生きていくには、世界はあまりにも優しくない。だが、今まで生活をしていたこの場所での娼婦稼業は無理だと思った。せめて別の街でと家財を売り払い路銀を得た。だが、もう少しで学位を得られるからと、その金は学費に消えた。それは全くの無駄遣いだった。

 学位があれば、男ならば書記なり法曹なり引く手数多だろう。だが女は違う。学位は女に恩恵を与えてはくれない。

 それは当然で、ここ〈学院〉に生きる女は、身分上昇の機会を窺う富裕商人の娘や、高騰する嫁資かしに困り結婚を遅らせるために送り込まれた貴族娘がほとんどで、そもそも働く必要すらないのだ。結局、世間知らずな娘だったアニェスは、春をひさ生業なりわいが怖くて、もっともらしい理由でそれを避けたのだった。

「私は学ぶことは好きだったんですよ。止めざるを得なかったけれど」

 うつ伏せ気味に湯に浸かるアニェスが今、どんな表情なのかメルシーナには判らなかった。そして穏やかに鎮まる湯面からは、アニェスの感情を伺い知ることもできなかった。

「だから騎士として、〈学院ここ〉で学びに生きる人を守りたい。メルシーナ様は今、学びに生きてる最中だから、あなたを守れることが今の私の誇りです」

 照れもあるのだろうか。小さな声だったが、力はこもっていた。

「そうやって頑張っていたら、いずれまた学べる日が来るかもしれないし、玉の輿もあるかもしれない。メルシーナ様を守って死ねたら、きっと後々まで残る詩に残してくれるだろうし……私、欲張りなんですよ」とアニェスは冗談で話を閉めた。

 騎士たちは二人とも、望んで剣を手にしたわけではない。それでも自らの生に覚悟と誇りを見出して、自分なんかの力になってくれている。それに値するだけの存在でいなくてはとメルシーナは心の中で思った。すると突然、

「玉の輿って、やっぱりラヴァルダンあたりを狙ってるんですか?」と、オフィリアが悪戯っぽくアニェスに尋ねた。

「いやぁ、さすがにそれはないわ。でもラヴァルダンかぁ、一生安泰よね」

 うつ伏せに寝そべったまま、軽い口調でアニェスは返す。

「私も狙ってみようかしら。シフィア王家よりは何とかなるかも?」

 エミリアまで乗ってきたので、メルシーナも加わってみることにした。

「ええと、わたしは何をすればいい? アンジェリカに話してみようか?」

「メルシーナ様、そんなこと親切っぽいこと言って、抜け駆けとか考えてないですか?」

 自分の軽口に端を発する冗談の応酬を余裕の表情で見ていたオフィリアであったが、その馬鹿話が盛り上がっていくにつれ狼狽うろたえていった。これ以上はヤバいでしょと思いながらも、オフィリアはこの後のことには責任は持てないから、もうどうにでもなれと腹を括っていた。


「さて。どなたを義姉様おねえさまとお呼びすればよろしいのでしょうか」


 唐突な声に、オフィリアを除く三人はビクッとして、賑やかだった一団は水を打ったような静けさに包まれた。浴槽のへりに寄りかかっていた三人は気づかなかったのであろうが、オフィリアからはずっと見えていて、彼女はその女性と目くばせをしながら悪戯を仕掛けたのだった。

 恐る恐る声の聞こえた方を向いた三人の視線の先に、彼女達もよく知る女性の姿があった。

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