百合の剣(四)
ここ〈学院〉は、古の文化を継承する叡智の府。学芸は言うに及ばず、土木建築の技術もまた確かに継受されている。壮麗な大理の建造物群をはじめ、水道橋や貯水機構、そして域内に数カ所存在する温浴施設もまた古の時代に育まれた技術の結晶と言えた。
当地をはじめラヴァルダン伯領やメクサントゥー公領といったシフィア湖東方地域は、こうした古代の遺産を受け継いでおり温浴の風習が息づいている。一方、湖岸地域を除くシフィア王領の大半やエメリア伯領といった、湖西方の気候穏やかで乾燥した地域では頻繁な入浴の習慣は薄い。そこでは身体を清めるにあたって、乾布での清拭や川や泉での水浴で済ませることが多い。
メルシーナの故郷である北方の島々には火山島も多く、温泉が至る所に湧出し、入浴は娯楽であり社交も兼ねた習慣であった。この亡命地に入浴施設が備わっているのは、彼女にとっては少なからず心の慰めともなっていた。
汗を流したいと二人の騎士に連れられてきたのは、市域内に数か所が設けられた大浴場の一つで、高身分者向けのものだった。当然、警備も厳しく、女性側の入り口にはアニェス達の同僚の女性騎士が詰めていた。軽くあいさつを交わしたアニェスは、「ここの浴場は揉め事がほぼ無くて楽なのに、報酬がいいんですよ」と小声でメルシーナに教えてくれた。こうした公共施設の警備も騎士たちが担っており、「仕事が終わったらそのまま入浴できるから、ここの警備は人気があるんですよ」とエミリアも補足した。
採光用の天窓があるとはいえ、場内はやや暗く、薄く漂う湯気も視界を曇らせる。互いの顔がしっかりと確認できるように距離を詰めて、四人は大浴場の一角で湯に浸かった。オフィリアは湯の只中に座り込み、他の三人は浴槽の
そうして三人の身体つきの女性らしさを目の当たりにすると、まだ大人になりきれていない自分自身の、中途半端で貧相な様を嫌でも思い知り、メルシーナは少しだけ寂しくなった。だからこそ、周囲の大人たちがどうして死を厭わぬ覚悟を自分に寄せてくれるのだろうかと、改めて疑問に思った。
やがて、他人の身体を窺うなんて行儀が良くないわよねとメルシーナが人知れず反省していたその時、目を閉じて湯を堪能していたエミリアがおもむろに口を開いた。
「歳の離れた弟がいるんです」
唐突な家族語りにキョトンとしたメルシーナであったが、命を賭けて他人を守ろうとする覚悟の所以を問うた自分への回答なのだと気づいた。
「私も父の高年での子ですが、弟はもっと。弟が成年を迎えて所領を継げるようになる時、父はこの世にいないかもしれません」
言葉を紡ぎ出すたびに水が揺らぎ波となってその豊かな胸を打ちつけ、ほんのりと色づいた突端が湯面に現れては沈んでゆく。手を伸ばしたエミリアは掬い取った湯を上方から溢れ落とす。落とされた湯は水面に打ち付けられて跳ねあがると、彼女の体を無秩序に打ちつけた。
「だから、私にはつなぎの領主となることが課せられています」
淡々とエミリアは身の上を語る。
「つなぎの領主になって、私は所領を守らないといけません」
ここでおずおずとメルシーナが口を挟んだ。エミリアの語りに水を差して申し訳ないとその目が伝えるが、素朴な疑問だった。
「その、なぜ騎士になろうと思ったの? 普通に女領主ではいけないの?」
北方民のメルシーナにとって、女領主は珍しいものではない。それが軍事指導者を兼ねることもあるが、必ずしもと言うわけではなかった。
クスリと笑ってエミリアはその疑問に答えた。
「私しか子がなくて、夫になる人に所領を任せるのであればそれでいいのかもしれませんが」
メルシーナは俯くように湯に視線を落とした。つなぎの女領主の結婚や出産は、相続争いの火種を生む。弟という確実な相続人がいる以上、エミリアは一般的な女性の生き方を奪われているのだ。だがそれは、騎士である必要性の答えではない。
「夫を持ち得ないのであれば、私が封主への軍役を担わなければなりません」
感情を押し殺すかのようにエミリアはポツリと言葉を吐き、さらに続けた。
「独身の女領主が軍役要請に代理を派遣した結果、封主の介入や強制的な結婚の
力なくエミリアは笑う。疑問への答えは出された。だがメルシーナはどう言葉を返していいのかわからなかった。
「とはいえ、女が騎士として認めてもらえるのは〈学院〉だけですし」
その言葉に、思わずメルシーナが声をあげた。
「ちょっと待って、もしもお父上が弟さんが成人に達するまでご健在だったら?」
エミリアの話は、弟の成人前に父親が亡くなるという前提だ。もしその前提が崩れるならば、エミリアはただ家の犠牲になるだけではないか。
「父が長生きしてくれるのはいいことです」
少なからず怒りの色を含んだメルシーナの言葉を、さらりとエミリアは受け流した。そんな彼女たちのやりとりを聞きながら、ぼんやりとアニェスは思った。本来のエミリアは、部屋の中で静かに刺繍をしたり糸を紡いだり、そんな暮らしが性に合っている。それを捨てて意に沿わぬ生き方を強制されるのはどれほど辛いことだろうか。
「あと十年くらいですかね。その時には、普通の女の在りようで生きていくにはもう遅いでしょうね。だから、せめて騎士として立派でありたい」
エミリアの表情は、溢れんばかりの誇りをたたえて美しい。意思に満ちた女性はこんなにも美しいのか、と気圧される思いでメルシーナはエミリアを見つめた。
エミリアもまたメルシーナを見つめ返した。
「私は家の事情で思うにならない生き方をしているから、騎士の力を手にした時、同じように思うにならない生き方を強いられている人を助けたいと思いました」
湯面へと顔を落とし、髪から滑り落ちた滴が作る波紋をしばし目で追った後、顔をあげてエミリアはメルシーナを、そしてオフィリアをその瞳に映した。
「そしたら幸運にも、あなた方に会えました。この異郷の地で、必死で生きようとしているあなた方を助けることを、今は使命だと思っています」
はにかみながらも力強い言葉であった。そしてエミリアは、その照れを隠すようにおどけた。
「国を
冗談をまぶしているが、これからも一緒にいたいわ、とエミリアは伝えている。ちっぽけな小娘でしかない自分に向けられた、エミリアのその気持ちが嬉しくて、メルシーナは湯面に半分だけ顔を沈めた。
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