百合の剣(七)
アンジェリカの表情に浮かぶ心苦しさ。
ふと、メルシーナは考えた。ラヴァルダン屋敷の中で、外からは見えないところで、アンジェリカとその侍女たちはどのように暮らし、どのような会話をしているのだろうか。わからないから、自分とオフィリアの日常を思い浮かべた。
オフィリアとの付き合いの長さは、自分の年齢と同じだけの
「主様なんて目の届くところにいないと心配で、なかなか羽は伸ばせないものなんですよ」
メルシーナを横目で見ながらアニェスが言う。そして
「仕える方の側が私たちの居場所なんですよ。だから主様の近くが一番ゆったりとできるものなんですよね」
「それに、仕える側にも意思はありますから、あの方達もまた、アンジェリカ様だからこそ、納得して付いて来られているはずです」
アニェスが重ねた言葉に、そうだといいけれど、と呟きながらはっきりと力を込めてアンジェリカは言う。
「でも、私の世話なんかで、彼女たちの若き時を浪費させているのは確かなのよ。ラヴァルダンにいれば、縁談の一つや二つ必ずあるわけだから。それを遠ざけてまで彼女たちは私について来た。だから私は、彼女たちのそうした覚悟にふさわしい主にならないといけない」
そんなラヴァルダンの
だからオフィリアの姿を横目にメルシーナは俯いた。騎士達もアンジェリカも、それぞれの言葉でそれぞれの覚悟を表明できるのとは対照的に、メルシーナはまだまだ言葉に出せるほどのものは持ち合わせていなかった。先ほど、今しがたのアンジェリカの言葉と似たようなことを思ったにもかかわらず、口には出さなかった。いや、出せなかった。そこにいたたまれない気持ちが湧いてくるし、アンジェリカとの差を、二つほどの歳の差以上に大きく感じてしまう。でもいつか、覚悟を言葉で表明できるようになりたいとメルシーナは思った。
「でもですね、アンジェリカ様」
それまでずっと聞き役に徹していたオフィリアが、突然口を挟んだ。にっこりとアンジェリカに笑顔を向けると、はっきりとした口調で、
「私たちは、上の方が思っていらっしゃるほど、何かを犠牲にしてお仕えしているとは思っていません。なんならこちらで仕えるに値する存在に仕立て上げている意識すらあるんですよ」などと言い出した。その言葉にアンジェリカも何か感じるものがあったようだ。
「そうよね。彼女達にも意志はあるし当然よね。私も彼女たちに、ラヴァルダンの娘として恥ずかしくないように導かれているのよね」
「きっとそうだと思います」
「では、そこの小娘が人間らしく振舞えているのも、オフィリア様のご尽力あってのものなのですね」
突然話題にされた、いやむしろからかいの対象にされたメルシーナはムッとした表情を浮かべて、
「あー、やだやだ。歳はとりたくないものね。年寄りはそうやって、いつも若さに嫉妬して嫌味ばかり言う」と返した。
アンジェリカは何も言わずにメルシーナを睨みつけると、両手で掬ったお湯をメルシーナにぶつけた。顔全面にお湯を浴びせられたメルシーナもまた、アンジェリカにお湯を投げ返す。そのまま二人は互いに湯をぶつけ合った。
キャッキャとした娘達の悲鳴が浴場に響き渡る。
「おやめください、姫様! それにアンジェリカ様も!」
オフィリアはしっかりと主を叱ることの出来る娘で、ついアンジェリカにも強い口調をしてしまい、しまったという表情を浮かべた。たが、当のアンジェリカは楽しげだった。
「騎士のお二人もそうですけど、オフィリア様も、本当に愚兄に紹介したいものだわ」
「またそんなこと言う」とメルシーナは呆れたが、アンジェリカは、
「ラヴァルダンの栄光が続くためにも、兄はいずれ伯政改革をしないといけないわ。だから兄というよりラヴァルダンが欲しいのは、綺麗なだけの女じゃないし、身分だけが取り柄の女でもない。時に兄の代理として改革批判の矢面にも立てる強さと覚悟のある女なのよ」と言い、さらに「皆様、見た目も綺麗だからラヴァルダンの
評価された嬉しさに笑顔を浮かべながら、
「ありがとうございます、アンジェリカ様。でも私如き、故郷の女たちに比べれば覚悟の薄い人間ですわ」とオフィリアは謙遜した。
そんな彼女の言葉はアンジェリカの別の興味を引いたようだった。
「北の女性は、覚悟ある女性が多いのですか?」
アンジェリカの問いかけに、満面の笑みを浮かべながらオフィリアが答えた。
「北の女は、常に覚悟と隣り合わせの日々です」
そうしてオフィリアは目を閉じた。
故郷の様子を思い浮かべているのだろうか。他の者たちはそんなオフィリアをみつめる。控えめで楚々とした、透き通るような雰囲気を漂わせている。ゆっくりとオフィリアは伏目がちに言葉を発した。
「北の男たち。私たちの父や兄弟、あるいは夫らは交易のために海に出ます。当然、無事に帰ってこないこともあります。だから、私たち北の女は覚悟とともに彼らを見送ります」
オフィリアの声が、メルシーナの古い記憶を呼び起こしていた。
春先から夏にかけて、交易に赴く船と乗り込む男たちを送り出した。港から送り出すのは、近親者が海に出ていく女たち。そうでない女たちは、湾を見下ろす崖の上から船出を見送った。当然、幼いメルシーナは常に崖の上だった。
白き帆がだんだんと小さくなって水平線の向こうに消えてゆくまで、女たちは見送りと称したおしゃべりを楽しんだ。こうしている間は、農事からも家事からも抜け出すことができた。やがて船の姿が見えなくなり、船団が作った航跡波が風と波に消されると、神々に船団の安全を祈り、歌を歌いやがて散っていく。
メルシーナにとっては楽しい故郷の日々の思い出だ。十二歳で故郷を離れたメルシーナの記憶は、単純で明るい。
だがオフィリアはメルシーナより五歳ほど年長で、その年月分の知識と経験、そして深く情緒あふれる北の女たちの感情のあやを体得していた。
オフィリアは静かに北の光景を紡ぎ出し始めた。
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