誓いの雪起花(十二)
未だ息は弾み身体は火照っていたが、先刻までの舞踏の熱情は冷めようとしていた。両手を膝の上に置き、詩人の表情を覗き込むようにメリザンドは笑いかけた。
「ありがとう。踊っている間、このところの辛いことを忘れることができたわ」
「それはよかった。無理にでも連れ出した甲斐もありましたよ」
リュシアンもまた笑顔で答えたが、メリザンドは淋し気な表情を浮かべ俯いた。
「でもね、踊り終えて、今は怖いわ」
「怖い?」
「ええ。忘れることが出来た、そのことが怖いわ」
メリザンドの言葉の意図がわからず、詩人は彼女の瞳をのぞき込んだ。愁いを秘めて穏やかな深い青に、吸い込まれそうになる。その色は秋の空に似ていた。
「辛いことも楽しいこともいつかは終わり、そして忘れてしまう時が来る。今日この時の楽しさも、いつか記憶から消えていってしまうと思うと、今は忘却が怖いわ」
「なら、また次の祝祭を楽しめば良いでしょう。僕がと言えないのは残念ですが、次はきっとメリザンドさまを幸せにしてくださる方と楽しむことができますよ」
「そうね。でも、今日の出来事は一度きりよ」
「……」
「この次、わたしを連れ出してくれるのが誰かは知らない。もしも次の機会にわたしを連れ出すのがあなたではないのなら……いえ、あなたは旅人だから、あなたと踊る次の機会はもうないかもね。わたしは今日の記憶を重ねることはできない」
詩人は叩こうとしていた軽口を飲み込んだ。次の祝祭日、自分はここにはいないだろうと漠然と思う。自分たちの間にあるのは愛や恋ではなく、大切に思う共通の人の死を介した絆だった。でもだからこそ、今日という日の記憶は重い。
黙り込む詩人をよそに、娘は一気に思うことを口にし続ける。
「次の機会がないものばかりが増えていく。わたしはもう、父母の記憶を重ねていくことはできない。父のことを知るあなたも冬が終われば去っていく」
「……」
「だからわたしは、忘却が怖いわ」
──忘却。そう、忘却だ。
数日前、リュシアンもまた忘却を恐れたことを思い起こした。
あれほど鮮烈だった夏の戦場をこの地の人は誰も知らない。そして当事者たるべオルニス人でさえ、いつかは戦場の記憶を失っていくだろう。そしてあの戦を目の当たりにした自分自身でさえも。自身の中で十年後、いや一年後でさえ、あの戦場の記憶は今と同じだけ鮮明に残っているのだろうか。
自らに注がれる娘の眼差しの真剣さに気づき、リュシアンは思わず目を逸らした。娘の憂いを少しでも取り除けないか、自分に何ができるのかと考えて、そして咄嗟に口走る。
「ならば詩でもって、この日をあなたに捧げましょう」
それは冗談に取られてもいい、本気に受け止めてもらってもいい、どっちつかずで卑怯な物言いだった。だが、ハッとしたような表情を浮かべたメリザンドは、合わせた両手を唇の前に破顔した。
「すてきだわ。あなたは記憶を永遠にしてしまう魔法のような技を持っているのね。うらやましい」
素直すぎるその賛辞はこそばゆかった。娘の無邪気な言葉がまぶしすぎて、リュシアンは気の利いた返しが出来ずにいた。それでも何か言葉を捻り出そうと考えたその時、リュシアンの脳裏に何かが閃いた。
秋空を包み込む弱々しい太陽の光に突然、真夏の鋭利な輝きが宿ったような気がした。暴力的なその光は、リュシアンの思考のありとあらゆるものを灼き尽くした。ただ一つの思いつきを除いて。
それは、荒唐無稽で無謀な考えだった。
だが、一度思い浮かんだその発想は魅力的で、リュシアンはしばらくの間、身動を忘れ自身の中でその考えを幾度となく反芻し検討した。いつまでも口を閉ざし続ける詩人の様子に、娘は心配そうな表情を浮かべてじっと彼を見つめ続けた。
その時間は長かったのか、それとも短かったのか。やおら詩人は、ポツリと漏らした。
「詩を、書きます」
「ん? それは今聞いたわ」
「そうではなくて……」
詩人の答えは要領を得ず、娘は戸惑っていた。そんな娘をじっと見つめて、詩人は自らの考えを整理するかのように、まるで独り言であるかのように、ひとつひとつの言葉に力を込めた。
「あの戦いの記憶が失われることにも、エルドレッド様のことが知られないことにも、僕は耐えられそうにない」
「……」
「だから詩を書き残したい。壮大で何百年と残るような、魂を揺さぶるような詩を。いや、
大きく目を見開き、じっと詩人の顔を見つめていたメリザンドだったが、やがて穏やかに、そして莞爾とした表情を浮かべた。そんな娘を一瞥することなく、どこか空の遠くを凝視しながら詩人は続けた。
「この冬、あるいはもっと何年もかかるかもしれないけれど、僕の記憶が鮮明なうちに」
溢れんばかりの興奮を湛える詩人は、静かにその熱情の炎を燃やしていた。そんな詩人をあやし宥めるかのように、握りしめた詩人の拳にメリザンドが自らの掌を重ね包み込んだ。
荒ぶる波がおさまり、夜の海が静けさを取り戻すかのようにリュシアンの心もまた鎮められていく。その海を照らす月のように、くっきりとした瞳が詩人に輝きを降り注ぐ。
「ねぇ。わたしにも手伝えること、ありますか」
メリザンドの眼差しを受け止めて、しばし考えうなずいた詩人は遠慮がちに応えた。
「話すことは出来ても、僕はシフィア語の修辞にはそれほど詳しくない。だから僕の書いたものを、美文シフィア語の修辞法で確認をしていただけたらありがたいです」
「シフィア語? べオルニス人の物語なのに、ベオルニス語ではいけないの?」
「僕たちの言葉ではだめなんです」
「なぜ?」
メリザンドの掌に包み込まれた拳をさらに握りしめて、詩人は娘の疑問に答えた。
「ベオルニアなんて、ここでは誰も知らないような国の言葉ではだめなんです。僕は、エルドレッド様たちベオルニス人の戦士がいかに勇敢に戦い、その誇りを示したのかを世に知らしめたい。だから、広く使われているシフィア語でないとだめなんです」
それは途方もない考えだった。若く未熟な詩人には野心的すぎる試みなのかもしれない。
だけどリュシアンへの信頼を込めて、メリザンドは語り掛けた。
「ねぇ、お父様の詩はわかったけど、わたしに捧げる詩もちゃんと書いてくれるのよね」
詩人は力強くうなずいた。誓いの言葉はいらなかった。やがて詩人は,二つの物語をことばに紡いでいくだろう。
メリザンドが晩秋の凛とした空を見上げ、詩人もそれに倣った。夏の日の苛烈さを失ってなお、太陽は静かに厳然と燃えていた。
陽光よりも眩しく、湧きあがる高揚感が彼らの世界を包み込む。だから、
傍らに生える
(1032年 晩秋)
(
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