誓いの雪起花(十一)

 ともに喧噪の中、ふたりだけ取り残されてしまったかのように感じていた。急に醒めたかのように、ふたりは言葉もシフィア語に戻した。

「もうやめましょう。あの者に相応の報いがあらんことを」

「ええ……」

 お互いにこれまでの楽しい時間を、一人の無作法者に壊されたくはないと感じていた。

「行きましょう、メリザンドさま」

「ええ。でも、その前に……」

 突然メリザンドは詩人の左腕を両手でつかむと引き寄せて、ぎゅっと抱き着いた。

「え?」と言葉を失った詩人の戸惑いをよそに、娘は詩人の腕に体を密着させた。メリザンドの身体の、胸の柔らかな感触に詩人の腕が包み込まれた。

「浄化です。あなたはな方だから」

 突然のことにその感触を楽しめず、その突飛な行動を理解できず、リュシアンは身動きをやめて彼女の好きにさせた。気が済んだところでメリザンドは詩人の腕を解放し「もう平気。行きましょう」と詩人の顔を見ずに語りかけた。

 ふたりは再び歩き出し、リュシアンは彼女が不快な思いをしないよう、周囲に気を配った。

 人流が停滞したところで二人が立ち止まると、荘厳な音を背景に一人の少女が歌を披露していた。いつの間にか喧噪は消え、周囲の者たちは静かにその歌を聴いている。神々に対する詠歌奉献の儀式が行われていた。

 不意にメリザンドが詩人の耳元に顔を近づけたので、彼は少しだけ身を低くした。その耳に手を当てた娘は、周囲に気を配ったひそひそ声で語り掛けた。

「このお祭りの中心儀式なんです。聴くことが出来てよかったわ」

 声に出すわけにもいかず、詩人は微笑みうなずくことで返事をした。そしてしばらく、ふたりはその詠歌に静かに耳を傾けた。

 やがて詠唱が終わると、周囲からも小さな声が聞こえだした。それを合図のように、メリザンドもまた周囲の人の群れを見渡して、素朴なことを口にした。

「この群衆の中に、べオルニス人がどれくらいいるんでしょうね」

「さあ、どうでしょう」

「もしかして、わたしたち二人だけかも?」

「探せばもっといるかもしれませんよ」

「どうかしら。そもそも、ここにいる人たちのどれくらいがベオルニアなんて知っていることかしら」

 何気ないメリザンドの言葉に、詩人は少しだけ気持ちが沈む。

 詩人の脳裏には、娘の父親エルドレッドの姿が浮かんでいた。

 自分たちの故国ベオルニアは、辺境の島国に過ぎない。この地に住む人々にとっては、メリザンドの言う通り関心の埒外にあるだろう。そんな蛮土で起こった出来事など、いったい誰が気にかけようか。その国を守るために命と誇りを懸けて戦った者がいたことなど、いったい誰が知ろうか。


 その時、不意に大きな喇叭の音が響いた。

 詠歌の奉納を終えた奉献者の少女が、本庁の城内に消えていった合図のようだ。ここからは城の内と外は隔絶され、城の外は騒がしくなっていく。市井に住まう学生たちも、この時ばかりは多少の乱痴気騒ぎも大目に見られ、大きな歓声が飛び交う。集まった商人や浮かれたちも、掻き入れ時だと客を呼ぶために叫ぶ。周囲は瞬く間に喧噪に包まれた。

 メリザンドにとって、祝祭の騒乱の真っただ中にいるのは初めてのことだった。この地に住むようになって三年が経っていたが、これまで祝祭は遠目に眺めるか、もしくは老夫婦とともにいちに出向いて商人たちを冷やかすくらいしかしたことがなかった。バグパイプが吹かれフィドルが搔き鳴らされ、やおら周囲で始まった群衆の踊りのただ中に、自分が立っているなど初めてのことだった。

 祝祭の騒乱に戸惑いながらも、メリザンドの表情はやわらぎ楽しそうだった。その娘の表情を見て、リュシアンは多少強引でも連れ出して良かったと思っていた。

 声を弾ませながら「楽しそうな音ね」とメリザンドは言う。その言葉にリュシアンはふと軽い嫉妬や対抗心を覚えた。自分の方がもっといい演奏を聞かせてあげられる、そう思ったが口には出さなかった。その代わりに詩人は、

「いや、下手くそな演奏ですよ」

とぶっきらぼうに言葉を吐いた。とはいえ、貶すだけだと狭量に思われそうで、それは避けたいと思い咄嗟に付け加えた。

「まぁでも陽気に弾いてて悪くない」

 彼らの周囲を包む音は貴族を楽しませる上品なものである必要は無く、多少ひどくても人々を陽気に踊らせる事を目的としている。

 ──ならば自分たちも楽しめばいい。

 そして詩人は手を差し出した。娘の方はその行為の意味を理解していないようだったので、リュシアンは声に出して伝えた。

「踊りませんか、メリザンドさま」

 差し出された手を凝視していた娘は、やがてはにかみつつ「ええ」と手を重ねた。

 触れあう手のひらは、緊張に震えていた。お互いに少年少女のように、気恥ずかしさがあった。箱入りのメリザンドはともかく、時として女どもに上辺ばかりの情愛を囁いている自分がなぜだろう、とリュシアンは戸惑う。自分から提案していながら、リュシアンは焦りを感じていた。

 そして詩人は気が付いた。今この時、自分は音を奏でていないと。

 舞踏の際は必ず肩に担いでいるフィドルを今は弾いていない。誰かと踊る時、自分は楽器を奏でていて、相手の手に触れたことがほとんどない。

 純粋に女性の手を取り踊る久しぶりの状況に、詩人の挙動は自信無さげなものとなっていた。

 それでも足を踏み出した。

 そしてメリザンドの動きは詩人以上にぎこちなかった。

 それでも単調な振りを重ねるごとに、動きは滑らかなものになっていった。

 音に合わせてつま先を揃え、緩急をつけて足を動かした。そして時に踵を上げて軽やかに跳んだ。繋いだ手を惜しむかのように離し、旋回の末に再び手が触れ合った。

 初めは恐る恐る、でも次第に男を信頼し、女は身を委ねて躍動した。そんな娘の相手を務めながら、リュシアンもまた楽しさを感じていた。なにより彼女の楽しげにほころぶ表情が嬉しかった。

 ふと、メリザンドの足がもつれ躓いた。咄嗟に抱きかかえたリュシアンは、腕の中の彼女が漏らす呼吸の荒さを感じた。そして自らも息を切らせ、鼓動が高鳴っていることに気づく。

「少し疲れちゃったかも」

「急に激しく動きましたから、仕方ないですよ。少し休みましょうか」

「ええ。ありがとう。楽しかったわ」

 リュシアンはメリザンドの手を引いて人の群れを抜けだした。娘を抱えるように守り、自分の身を幾度か人にぶつけながら、詩人は広場の片隅に娘を導いた。

 傍らに雪起花ヘレボルスのつぼみたちが芽吹くその場所で、人の群れを遠くに眺めながら、ふたりは地面に座り込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る