誓いの雪起花(十)
思いもかけず宿を得た詩人は
リュシアンが得られた営業許可は祝祭日以降という条件であったため、屋敷に閉じこもる数日を過ごしていた。営業申請も遅かった上に、この辺りを縄張りにしておらず
そしてこの日は祝祭で、遠くの方で奏でられている音曲や、通りを往来する人の群れが作る騒がしさは屋敷の中にまで聞こえてきた。屋内にいても落ち着かず、詩人はメリザンドを祝祭見物に誘ったのだった。
娘は「喪に服している今はそんな気分にはなれない」と言ったものの、詩人は半ば強引に説き伏せた。閉じこもってばかりでは体に悪いという詩人の主張を老夫婦も支持し、むしろリュシアンよりも強い勢いでメリザンドを祝祭見物に送り出した。
この日のリュシアンはいつも背に負い、腕に抱える楽器たちを屋敷に置いてきている。詩人は今、細身の剣だけを腰に下げ、頭ひとつぶん背の低いメリザンドの半歩後ろを歩いていた。メリザンドの臙脂色のトゥニカは、晩秋から初冬にかけての凜とした空気に鮮やかな色を添えている。
やがて娘は歩調を落とし詩人の横に並ぶと、小さくつぶやいた。
「しばらく閉じこもっていたからわからなかったけれど、今はこんなに空気が冷たいのね」
声とともに彼女の唇からは薄く白い呼気が立ち上った。寒くないですかと尋ねながらリュシアンはメリザンドの表情を窺った。普段の詩人は、一目で放浪芸人とわかるように若干派手目の多色染の衣服を身に纏っている。だがこの日は、
服喪中を訴えたこともあり、最初は固かったメリザンドだったが、祝祭の雰囲気に染められてその表情はしだいに柔らかくなっていった。それどころかやがて詩人の手を引いて練り歩き、はしゃぎはじめた。声は弾み、娘が本来持ち得ている生き生きとした笑顔が浮かぶようになった。
ふたりして弾むように広場に足を踏み入れようとしたその時、あらっと声を出してメリザンドが歩みを止めて数歩ほど下がり、おもむろにしゃがみ込んだ。
「どうなされましたか、メリザンドさま」
「あのね、もうすぐ咲きそうなつぼみが」
初冬の世界に彩は少ない。それでも咲く花はある。緑白色の花のつぼみが、その時を待ち望むかのように寒の空に耐えていた。その花の名は、詩人も知る。
「ヘレボルス、
詩人の言葉にうなずきながら、娘は一帯を見渡した。街路と広場の境界にあまり生気のない重々しい緑が連なる。その鈍重な雰囲気を切り裂くように、
「初雪が降る頃に、この花は咲くというわ」
「なら、雪も近いのかもしれませんね」
「ねぇ。咲いた頃にもう一度、わたしを連れ出してくれる?」
「喜んでお供しますよ」
やがて娘が立ち上がると、そのまま祝い歌の奉献を見物する人たちであふれる広場の中心を目指した。
群衆にぶつからないようにそろそろと歩きながら、娘は驚きの声を上げる。
「こんなに人がいたんですね」
「祝祭ですから、近郊からも人が集まってくるのでしょう」
「そもそも講義の時間以外、わたしはずっと家にこもってばかりだから……」
「それは勿体無い。こんな賑やかな街にお住まいなんですから、もっと世間を見たほうがいいですよ」
「そうね。ここで生きていくしかないわけだから、今度からそうするわ」
その言葉にリュシアンが返事をしようとしたその時、一人の男がメリザンドにぶつかった。きゃっと小さな悲鳴を上げてメリザンドはよろめき、慌てて詩人は娘を受け止めた。大丈夫ですかと詩人が言うよりも早く、メリザンドはリュシアンが想像だにしなかった言葉を低い声で吐いた。
『忌々しい! 天罰が降ってしまえ!』
それはべオルニス語の呟きだった。周囲に合わせて、シフィア語で会話をしていた中で突然現れた故郷の言葉に、リュシアンは驚く。
「どうなさいました⁉」
何事かを問うリュシアンに、怒った表情の彼女は被害を訴える。
『今の男、ぶつかったどさくさで、腕をわたしの胸に押し付けてきたんですよ!』
悪態をつくときは咄嗟に故郷の言葉が出てしまうようだ。そして市井の女ならば「おっ
『笑いごとではありません! それよりもリュシアン殿、あなた、変な想像してませんよね』
おかしさに漏れた笑みと視線の動きを勘違いしたのか、メリザンドはリュシアンに抗議の声を上げた。下衆な想像を働かせていたと思われるのが癪で、男を追うよりも先にリュシアンは慌ててそうではないと声を上げた。
『滅相もない!』
抗議を受け入れた娘だったが、こちらも取り乱しているのか妙なことを口走る。
『女の美しさを言葉に紡ぐ詩人である人からの否定は、それはそれでなんか釈然としないわ。わたしの胸は想像を働かせるほどのものではないと言われてるみたいだわ』
面倒だとリュシアンは思いあきれた。だが目で追っていた男が群衆の中に消えゆくのを確認し、今更追いかけていくよりも娘の応対をするのが正解なのだろうと彼女の言葉に応じた。
『誤解なさらず。メリザンドさまのお姿は、創作意欲を抑えるのが大変ですよ』
『本当かしら。とってつけたようなことをおっしゃるのね』
『いずれ、あなたのことを謳わせてください。先ほど笑ってしまったのは、メリザンド様のお言葉が急にベオルニア語になったのがおかしかっただけです』
『悪い言葉を周りに聴かれたくないからです。そんなことよりも、あなたはわたしのために怒ってくださらないの?』
コロコロと変わる話題にやはり面倒だと詩人は思った。そもそもこのどうでもいいやり取りのせいで男を追う機会を逸しているのにとの思いは抑えて、詩人は答えた。
「腹立たしいですよ。さっきの男、見つけたら八つ裂きにしてやりたいくらいですよ」
娘の真似をして、単語の一つをベオルニア語に直してリュシアンは答えた。
本当は腹立たしさだけではなく、彼女の胸に触れたということに対する嫉妬やら羨望やら何か整理のつかない不思議な感情が渦巻いていた。八つ裂きは大袈裟だとしても、捕まえてとっちめるくらいはしたかった。だが、男の姿は群衆の中に消えていて、二人はなすすべなく人の群れを眺めるだけだった。
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