誓いの雪起花(六)
メリザンドが手に取ったその短剣は、極めて武骨なものだった。エルドレッドほどの地位にあれば、もっと豪奢なものを所持していてもおかしくない。だがそれは鞘と柄に真鍮細工のアザミの紋が施されただけの短剣で、個人の実直な性格が偲ばれた。
掴み取った短剣を持ち替えて、左の手に鞘を、右の手で柄を握った娘は、右腕を動かしてその剣身を少しだけ顕わにさせた。油皿に灯された炎が映り反射し、その剣身は橙色に染まっている。その色の中に、まるで鏡のように自分の姿が映りこんでいる。それは朧気で、自分がどのような表情であるのかリュシアンは読み取れなかった。
剣身の反対側には、メリザンド自身が映っているのだろう。彼女は剣に映る自身の表情を読み取れているのだろうか。それを知ることは詩人には出来ないが、リュシアンが自分の目でとらえたメリザンドは、悲しみと懐かしさが綯い交ぜになった、まるで幼い少女のような表情をしていた。
「お父様……」
呟いたメリザンドは、しばらくその刃を見つめていた。彼女は全てを抜き放つことなく、そっと剣身を鞘に収めた。柄と鞘がかちあい、小さくトンっと音を立てた。力を込めて握りしめたそれを、娘は卓上にそっと置いた。
そんな娘の様子を見届けると、リュシアンはもう一つの預り物を取り出した。
「それから……」
そう言って詩人はエルドレッドからもらった革袋を卓上に置いた。ドンッと重量感のある音が鳴り、袋の中ではチャリンと金属がぶつかり合う音が聞こえた。
メリザンドが怪訝な表情を浮かべ、革袋と詩人とを交互に見遣る。
「この
リュシアンのその申し出に、娘は即座に首を振った。そして、
「受けとれません」
と短くきっぱりと告げた。
「ですが……」
躊躇する詩人に対して、力のこもらない笑みを浮かべた娘は優しい口調で話しかけた。
「詩人さま。あなたは父の願いを聞いて下さった。そして遠路はるばる、わたしを訪ねてくださいました。感謝しております。決して多すぎるということはありません」
「多すぎますよ! それに、今後を考えると資金は多い方がよろしいのではないですか?」
語気を強めた詩人も頑固だったが、娘もまた頑なだった。今後の生活費を心配する詩人に対し、あなたには関係ない事ですと口には出さず表情でそれを示した。だが娘の口調は穏やかで優しかった。
「お気になさらず。この役目のために、あなたは損をなされておいででしょう。 もう冬を迎えるというのに何処の宮廷にも立ち寄れず、お困りでしょう?」
メリザンドの指摘は正しかった。
平年であればこの時期には、冬の間に厄介になる何処ぞの宮廷や城に取り入っている時期だった。だからリュシアンは、今年の冬を路上で過ごす覚悟はできていた。もしもその金を全て手にしたならば、今後数年は、飢えと凍えの憂いなくどこかの街の宿で冬を過ごすこともできるだろう。だが、
「この役目は僕にとって大事だった、それだけですよ」
と詩人はやせ我慢をしてしまう。
庇護者である父を亡くした娘の方も、今後の生活に不安を抱えることになり、金はいくらあっても困ることはないはずだが、こちらも強情だった。
「父も全額をあなたにお渡しするつもりだったと思います。父からは十分な額を預かっていますから、お金は全て持って行ってください。わたしは、この剣と首飾りを届けていただいただけで嬉しいのです」
その答えに、思わず詩人は笑みを零した。
「なにがおかしいのです?」
怪訝な表情を浮かべて問いただすメリザンドに、リュシアンは答えた。
「いえ、失礼しました。エルドレッド様と同じことをおっしゃるものですから」
「同じこと……ですか?」
「ええ。お父上は『あれには十分な額を渡してある。全部持って行っても構わん。ただ、剣と首飾りだけはあれに届けてくれ』とおっしゃられました」
少しだけ口調をまねたリュシアンだったが、状況をわきまえず不謹慎であったかと自らを恥じた。だが、娘はそのことを責めるようなことはなかった。代わりに俯いて肩を震わせた。
堪えようとしているのに娘の肩は小刻みに揺れていた。焦り、どうしたものかと戸惑う詩人だったが、それが怒りでないことはすぐにわかった。無言の、でも何処となく和んだかのような柔らかい空気が室内に満ち溢れ、油皿に灯された炎の橙色は、温かく感じられた。
やおら顔を上げた娘の両眼からこぼれ落ち続ける涙を、詩人はその目に映した。
「同じ……なんですね……お父様と同じこと、言ったんですね……わたし……」
涙声になりながら、メリザンドは笑っていた。顔をくしゃくしゃに歪めながら、娘は笑っていた。とめどなく娘からあふれ出る涙は、炎を映して黄金に輝く。彼女が涙越しに見る世界は今、暖かくまばゆい光に満ちているに違いないと詩人は思った。
そして目の前の彼女の表情こそが、自分が見る生涯忘れ得ぬ美しい表情の一つになるのだろうと、リュシアンは感じていた。
娘はそれまで必死に耐えていたのだろう。
零れる涙は留まるところを知らず、メリザンドはいよいよしゃくりあげ、やがて声をあげて泣き出した。卓に伏して泣き続けるメリザンドを、横の老婆が自身も涙を浮かべながらあやし、その老いた夫は明後日の方向を向いて涙をこらえているようだった。涙の中にありながら、詩人が居心地の悪さを感じることはなかった。
メリザンドの嗚咽が、静かな屋敷の夜に響いた。
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