誓いの雪起花(七)

 夜半、なかなか寝付くことが出来ず、リュシアンは喉の渇きを覚えた。

 忙しい一日であった。

 ──この旅の終着地で、一人の女に父親の死を伝え、形見を手渡した。

 事実としてはそれだけ。一文で済む。だが、その短文の中にどれほどの感情が内在していることか。伝達者である自分の感情、そして女の感情。様々な感情の波に襲われた一日だったが、穏やかに終えることができた。

 娘の方は、少しでも落ち着いて今日を終えることができただろうか。

 そんなことを考えていると喉の渇きは抑え難いものとなり、リュシアンは与えられた部屋を出た。灯りの消えた慣れない屋敷には、夜の冷気が満ち満ちていた。手にした燭台の灯りを頼りに、慎重に詩人は階段を下った。

 シンとした屋敷に小さな足音が響く。階下に降りて居間に入ると、そこには小さな灯が未だ揺れていた。

 卓上に置かれた油皿の小さな灯りは、ぼんやりと部屋の中心部を照らし、腰掛けて炎を見つめる女の姿を浮かび上がらせた。炎の揺らぎに従って女の姿は明滅し、そしてその影の濃度と大きさは絶えず変化していた。

 藍色の夜着を身にまとったメリザンドが両肘を机について、両の手で自分の顔を受け止め、ぼうっと虚空を見つめ続けていた。

 詩人は声をかけようとして、やめた。話しかけることがはばかられる、そんな雰囲気を女は醸し出していた。

 邪魔をしないようにそっと水瓶の置かれた竈場をめざす。だが、彼女はそもそも周囲の状況など何一つ見えていないかのようだった。彼女の前には、形見の短剣が置かれている。冷たく硬い鉄の塊に、彼女は父親の残した何かを感じているのだろう。左手を頰から離すと、そっとその鞘を撫でた。

 娘にとっては父の死を知った辛い一日だった。この日、どれほどの涙を流したのだろうか。その心情を慮って詩人の心は痛む。数刻ほど前、話を終えて部屋に戻る直前に見た彼女は、落ち着きを取り戻したように見えた。だが、感情というものはそう簡単に鎮まるものではない。こうしてひとり、ものを想う時間も必要なのだろう。

 喉を潤し居間に戻った詩人の目に、再びメリザンドの姿が飛び込んでくる。泣きはらした目は赤く疲れていた。美しい面立ちはこの一日の間にやつれ、その悲しみが痛いほどに伝わってくる。

 撫でさすっていた短剣を彼女は持ち上げ、今まさに鞘から抜いてその剣身を眺めた。左手に持った鞘を卓上に置き、彼女は両手で短剣を握り締め、不格好に構えた。そのまま彼女は、剣身に映る灯りと自分自身の顔を眺めていたが、角度を変えて切先を自分に向けて、柄を握る両手にギュッと力を込めた。

「メリザンドさま!」

 たまらずリュシアンは声をかけた。

 ハッとして振り返ったメリザンドは、そこに詩人の姿を認めると薄く笑みを浮かべた。

「リュシアン殿」

 近づきながらリュシアンは彼女に声をかけた。

「早まらないでください、メリザンドさま」

 キョトンとしたメリザンドはこの状況に思いを巡らすと、詩人を安心させるかのように切先を虚空に逸らして穏やかな表情を浮かべて言った。

「誤解、させてしまいましたね」

 少しだけばつの悪そうな表情になった彼女は続けた。

「死ぬなんてこと、しません。死にたくはないし、死ぬのは怖いし。それにお父様はわたしに生きてほしかったのでしょう? なら、死にません」

 安堵しながらも警戒を緩めることなく、詩人は謝罪の言葉を口にした。

「申し訳ありません。勘違いだったようですね」

 薄く微笑んだメリザンドは「誤解されても仕方のない行動でしたから」と呟くと、詩人に椅子を勧めた。

「ねぇ。眠くなるまでの間、少しだけ付き合って下さらない。今はひとりになるのが怖くて淋しいわ」

 椅子に座り向かい合うことで、詩人は了承の意を伝えた。小さく「ありがとう」と言ったメリザンドは、独り言であるかのように詩人の顔を見ず、短剣に視線を落として話し始めた。

「この剣は、婚礼に際してお母様がお父様のためにおつくりになられたものと聞いてるの」

 これはメリザンドと家族の思い出語り、言葉を挟んだりする必要はない。好きなように語らせよう、そう決めた詩人は小さくうなずいて、話の続きを待った。

 娘は灯火を浴びて小さく光る胸元の首飾りを手に掴んで、

「これはね、お父様からお母様への贈り物なんだって。ばあやに聞いたわ」

としみじみと口にした。少し前まで、世話役の老夫婦と詩人の前で凛と振舞おうとしていた娘はそこに存在せず、少女のような口調になっているのは在りし日々を思い出しているのだろうか。

「お二人に触れられるもの、これだけになっちゃった……」

 そうして彼女は、項垂れて胸元の首飾りをぎゅっと握りしめた。

 頼りない灯火が二人を照らし、合わない二つの呼吸音が大きく感じられた。

 きっと幸福な少女時代を送ったに違いない。リュシアンはそう感じ、今この不幸に襲われたメリザンドに痛ましさを禁じ得ない。そんな彼女を目の前に、決戦前夜の戦場で彼女の父エルドレッドと交わした会話の断片を、詩人は思い出していた。

 ──俺には娘がいる。貴殿も幼き日に一度くらい目にしたことがあるかもしれんが……

 エルドレッドはそう言っていた。だが、リュシアンにはそんな記憶がない。幼いころ、二三歳ほど年下と思しきメリザンドという名前の少女と出会った記憶は無かった。エルドレッドの思い違いだろう、リュシアンはそう結論付けてメリザンドを見た。

 思えばその言葉から続く形見分けの依頼は、エルドレッドが詩人に見せた父親としての姿だった。

「僕は、首長エアルルとしてのエルドレッド様しか知りません」

 自然とそんな言葉が、詩人の口を突いて出た。顔を上げて少しだけ首を傾けた娘は、ふふと微笑んで言う。

「わたしにとっては、娘に甘い父親でしたよ。そもそも、娘の身を案じてこんなに遠くへと避難させるだなんて、相当な親馬鹿でしょ?」

 言葉には少しだけ明るさが加わっていた。やおら娘は立ち上がり炉辺に向かうと、そこに置かれた何かを手に取った。

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