誓いの雪起花(四)

 湯はリュシアンの肌や髪にまとわりついた汚れを洗い流し、鬱々とした気持ちを少しだけ晴れやかなものへと変えた。清潔な替えの衣に着替えた詩人は、旅の間に着ていた衣服を洗濯屋に預けると、そのまま街区を彷徨い歩いた。

 歩いていると、再び悩ましい問題に苛まされる。

 ──父親の死の顛末を、どのようにその娘に伝えればよいのだろうか。

 あの夏の日に戦場に斃れたエルドレッドの形見を、その娘に手渡さねばならないという一念で、数か月に及ぶ旅を続けてきたはずだった。その悲劇とその勇壮さを美しく物語ろうと、日々言葉を考え続けて今日の日を迎えたはずだった。

 だがそれは、娘の姿を目にしてしまったことでくじかれた。肉親に対する素朴な情愛と悲しみの前には、どんな美辞も麗句も空虚なものとなる。詩人はそれを理解していたからこそ、言葉を飾って誤魔化すかのように伝えようと考えていた。だがそれは、浅はかにもほどがあった。

 結局、涙を流し言葉を失った娘の気持ちを慮り、彼女が落ち着きを取り戻すための時間を与えてしまったことで、リュシアンは娘に伝える言葉を考え直さねばならなかった。

 あの短い戸口でのやり取りの中で、勢いに任せて一気呵成に事実だけを語り伝え、遺品を手渡して逃げるように屋敷を出ていたならば、今このように思い悩むことはなかった。だがそれで、その父親の真意や気持ちを娘に伝えることが出来ただろうか。

 ──否、と詩人は考えた。

 だから、リュシアンにはそれができなかった。

 詩人は出会ったばかりのメリザンドの姿を思い浮かべた。

 娘は美しかった。

 その美しい表情を曇らせるだけの使者になるのは嫌だった。打ち沈む娘の表情から少しでも悲しみが消えるように、その父親のことを真摯に伝えたかった。だがそれがなかなか難しい。

 大きなため息をついて、詩人は自らの役回りの辛さを嘆いた。

 ふと秋空を仰いだリュシアンの瞳に、雲間から漏れる弱々しい光の線が数条ほど飛び込んできた。

 その光の筋は眩しい。だが夏の日差しのような苛烈さはなかった。

 街路に植えられた草木の緑は薄く、茶やきいの力なき色に浸食されている。街を彩る赤い花もまた半ば枯れて褪せていた。その力なき色合いは、夏の日の戦場の景色を詩人に思い起こさせた。


 あの夏の日、戦場では無数の金属が日の光に照らされて輝きを放っていた。それは耀う海のように幻想的であったが、その中で繰り広げられていたものは赤褐色に染められた凄惨な戦闘だった。

 遠くからその戦の始終を見届けたあと、戦場に足を踏み入れた詩人は地獄のような光景を見た。屍肉を漁る大鴉が空を埋め、折り重なる骸の群れは、血や吐瀉物、汚物にまみれていた。夏の陽射しに曝されて、それらが放つ異臭は生者の視界を曇らせた。精も根も尽き果てながらも、生き残りの兵士たちは敵も味方も自陣への帰還を目指してよろよろと力なく戦場を彷徨っていた。

 娘への形見を詩人に託した指揮官エルドレッドもまた、不帰の人となっていた。

 逃げるようにアデルの街へと戻った詩人は、戦場の処理が落ち着くのを待って生き残った者たちを訪ね、話を聞いてまわった。

 ある者は頑なに口を閉ざし、ある者は口汚く敵への侮蔑の言葉を吐いた。またある者はあの戦いを強いた首長エアルルエルドレッドへの非難を口にした。そうした証言をかき集めて、リュシアンは彼なりにあの日の戦の様子を思い描くことが出来るようになっていた。

 攻め込む侵略者の恐ろしさ。守るベオルニス人が示した勇気。刻一刻と変わりゆく戦況と、いつ誰が何を叫び、どう動いたのか。続々と届けられる凶報に触れたエルドレッドの様子と指揮ぶり。そして、最後の突撃と壮絶な討ち合い。

 戦場の全てではないにせよ、集めた証言と遠くから見届けた景色を重ね合わせて、詩人はあの日の戦いを脳裏に再現できるようになっていた。

 そして、エルドレッドの最期を娘に伝えるためにベオルニアを発った。

 

 湯を浴びて火照った体が吹く風に冷やされて、思わず詩人は身震いした。

 晩秋のひんやりとした風が吹き抜けている。遠い夏の日に鮮やかに世界を彩っていたであろう緑も、今やその色を薄くして、一枚一枚と風にあおられ枝から離れていく。

 街区は人に溢れていた。祝祭が近いのだろうか、広場の一角には櫓が組まれ、通りは清められている。遥か彼方、戦の傷も癒えぬタインの地では、今年は秋の祭りを執り行うことができたのだろうか。遠いベオルニアを思ってリュシアンは切ない気持ちに陥った。

 タインに住むベオルニス人にとっては大きな出来事であった北方アラン人の襲撃も、この町では噂にすら上らず、当事者の娘にすら情報は届いていなかった。

 それは当然で、支配者どもでもない限り、人々にとって大事なのは自分が暮らす集落の出来事だった。村や町を一歩離れたところで起きる出来事など関心の埒外にあった。知らない世の中の出来事を伝え広めるのは、リュシアンのような放浪の詩人や芸人の役割だった。

 ──知らないのは当然。

 そう思いつつも、リュシアンは悔しさを感じていた。

 あの日、命と誇りをかけて戦に臨んだエルドレッドらベオルニス人の覚悟や想いを、この地に住む者は誰一人として知らない。そのことが悔しくてたまらなかった。

 エルドレッドやその部下たちが示したベオルニス人の誇り、それを知って欲しいとリュシアンは思った。それは自分一人の胸の中に収めておくには大きすぎて、もっと広く誰かと共有したかった。

 そして詩人は、恐ろしいことに気づいた。

 ──あの戦いの記憶も、いつかは誰も知らないものになっていく。

 決戦前夜、エルドレッドは言った──仮にアラン人に屈しその支配を受ける日が来ようとも、この抵抗の記憶が残る限りベオルニス人は誇りをもって耐えることが出来る、と。

 だが、過ぎにし日々の出来事はやがて薄れ、誰の記憶からも忘れられていく。ベオルニス人の記憶からも、エルドレッドらの勇戦は消えていく。

 そのことは辛く、耐えがたいことのように思えた。

 せめて今は、自らの記憶が鮮明なうちに、その娘に父親のことを伝えねばならないだろうと、リュシアンは思った。

 いつまでも、うじうじと思い悩んでいるわけにはいかないな、と詩人は娘の住まう屋敷を目指した。

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