誓いの雪起花(三)

 その屋敷は、娘ひとりと世話役の老夫婦が三人で住むには広すぎるものだった。シフィア貴族の居館を買い取ったと老執事は言った。竈場や居間が置かれた一階に老夫婦が、そしてメリザンドは上階に自室を持っていた。だが空き部屋も多く、その一つに詩人は案内された。簡素な寝台や調度が置かれ、埃こそ取り払われ手入れはされていたが、人に使われていない部屋特有の淀んだ空気と匂いが鼻についた。

 老人が階下に消えた後、リュシアンが窓を開くと外の空気が入り込み、澱みが撹拌されていった。その渦のような空気のまとわりを感じながら、詩人は床に荷を置き寝台に伏した。

 そうして横たわっていると、戦場で過ごした夏以来の疲れが一気に襲ってきた。その疲労感はリュシアンに、この数か月の日々を思い起こさせた。

 戦場を離れた後、詩人は隣接する都市アデルで夏の残りを旅の準備に費やし、秋を旅路に過ごした。娘の父エルドレッドに託されたその旅は、気を休めるいとまがなかった。

 ベオルニス島から渡海して大陸の土を踏むと、冬になる前に東方の〈学院〉に着くことを目指した。戦場でエルドレッドにもらった馬を使うことも考えたが、襲われ盗られる危険や飼い葉のことを考えて徒歩を選んだ。エルドレッドからの預り物を盗られないように、巡礼団や遊民の荷馬車への同乗も避けた。人気の多い日中の大街道を選び、露営も避けた。

 慎重に旅を進めたことで時間はかかってしまったが、目的の地にたどり着いたことでようやく詩人は緊張から解き放たれた。

 するとリュシアンは、自らに蓄積しているのは旅の疲れだけではないことに気づいた。ひどく汚れ、衣服からはすえた匂いが漂っていた。それは染みついた汗や、雨が打ち込んだ泥土の痕、座り込むたびにすり込まれた草木の滲みが幾重にも重なって放つ匂いだった。その不快さに思わず詩人は顔をしかめた。

「少し身を清めるか」

 詩人はつぶやいて体を起こした。本当はそのまま寝てしまいたかったのだが、自分の小汚さに詩人は耐えられなかった。

 一刻も早く、さっぱりとした気分になりたかった。

 静かな足取りで階下に降りると、窓を閉じ切って薄暗い居間からは、家人たちの沈痛な会話が聞こえてきた。詩人はそれを聞かないように「少し外に出てきます」とだけ告げて戸外へと繰り出した。


 一歩外へと踏み出すと、街区には晩秋の淡い光が溢れ、賑わいを見せていた。

 ここ〈学院〉はその名の通り学堂を中心に形成された都市だった。いや、今や市域を超えた広域的な領土を持つ国と言ってもよい。

 ここはシフィア湖を臨む水上交通の要衝でもある。湖がもたらす河川通行税や港湾税、そして各地から運ばれて来る交易産品は〈学院〉に豊かさをもたらしている。

 通りのはるか先にはシフィア湖畔にそびえる巨大な城が見えていた。それが本庁と呼ばれているこの地の中心だった。それは学問の府であり、統治の座でもあり、この地の繁栄の象徴だ。この本庁を含む市域一帯は、湖の対岸に位置する大国ラヴァルダン伯領からの寄進地だった。

 本庁をわずかに離れるとそこはラヴァルダン伯領の飛地〈小ラヴァルダン〉となり、伯の代官プレヴォが管理するこれも巨大な居館が存在する。遠目には、ラヴァルダン屋敷と本庁はまるで双子の城のように映り、両者の結びつきの強さを衆目に知らしめている。

 そんな〈学院〉の市街地をリュシアンは億劫そうに歩いた。

 身を清めるために、替えの衣服を袋に詰めて詩人は公衆浴場を目指していた。

 ここ〈学院〉は、古代ラティア帝国の文化遺産を引き継いでいる。その中には公衆浴場の文化もあった。浴場は市域の中に数箇所が存在しており、とりあえずリュシアンは一番近い浴場を探した。

 この都市には、浴場の目印となる巨大な薪炭しんたん庫や立ち上る煤煙は見られなかった。それはこの地の大浴場が噴泉を利用しているからだった。

 だから詩人は、遠くからでもそれとわかる古代ラティア様式の巨大な建物を目指し、一歩一歩踏みしめる道の傾斜を注意深く観察した。

 通りは歩道と馬車道に分けられ、綺麗な石畳に覆われ整えられていた。歩道面は家屋が立ち並ぶ地面と同じ高さであったが、馬車道はそこよりも一段低く作られていて、轍に沿って摩耗している。通りは緩やかに勾配を描いているが、それは浴場の清掃時に放出される大量の湯の流路にもなっていて、排出された湯は傾斜に沿って路上の汚れを洗い下水へと流れこむ仕組となっていた。だから緩やかな傾斜の先に浴場が存在しているはずだった。

 浴場を目指しながら街の様子を観察するリュシアンの目には、整備された美しい街並みが映る。だがこの街の綺麗さに反し、詩人の心は沈んでいた。

 ──どのように、父親の死を娘に語り伝えればいいのだろうか。

 通りの喧騒の中、リュシアンはひとり悩みながら浴場を目指した。

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