誓いの雪起花(二)
メリザンドはそっと目を閉じた。
それは心を落ち着かせ、これから続く会話への覚悟を自らに刻み込むための行為であった。だが激しい動悸に今自分が立っているのかすら分からなくなり、気を抜くと乱れてしまいそうな呼吸を押さえつけるために何度も胸を押さえつけた。結局、落ち着くことは無理だと諦めた彼女は自ら話を切り出した。
「詩人殿。父に……何かあったのですね……」
無理して平静を装おうとする女の態度に、詩人もまた覚悟を決めたようだった。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してこちらも心を落ち着かせ、意を決すると言葉を発した。
「お父君、猛き
きっと考え抜き幾度となく頭の中で繰り返し唱えた言辞だったのだろう。詩人の言葉は淀むことなく流れ出た。美辞で飾られた詩人のその言は、だが彼女には空虚なものに感じられた。
だからメリザンドには詩人の言葉は伝わらなかった。その耳に届き、その語義は理解していても、その内容の一切が頭に入っていかなかった。
メリザンドは自分の周囲の空気が重くゆっくりと流れゆくような感覚に陥っていた。屋外の喧騒が別の世界の音であるかのように、でもやたらと大きく耳に響いた。詩人の言葉を反芻するまでに要した時間は短かったのだろう。だがメリザンドにはとてつもなく長い時間のように感じられた。
詩人の言葉、それが伝える簡単な内容を受け入れられない、そんな自分をメリザンドは感じていた。
──父は死んだ。
なんて単純なこと。
だがそれは、まるで他人事のように感じられた。通りすがりに耳に入ってくる、知らない人たちの興味も湧かない雑談のように感じた。
周囲の雑音は鼓膜を破るのではないかと錯覚するような轟音となり、メリザンドの聴覚を奪っていた。いや周囲に雑音など鳴っているのだろうか。一方で、詩人の耳は娘から発せられるであろう音を拒否するかのように、聴覚を遮断して偽りの静寂を守ろうとしていた。
向かい合う男女は沈黙に身を置き続けた。だがやがて、
「そう、ですか……」
放心したかのようにメリザンドはそれだけを口にすると、続く言葉を失った。
言葉を発したことで、伝聞は実感となった。心は受け入れを拒否しながらも、メリザンドの頭は父親の死を理解していった。その渦巻く感情は制御を失う。目頭が熱くなり、彼女の視界はぼんやりと滲みだした。そして漏れ出そうな嗚咽を抑えるかのように両手を唇の前で合わせ身を震わせた。
冷静に、そして気丈にあらねば……。メリザンドはそう考え、凛々しく振舞おうとした。彼女は詩人を屋敷の中に招き入れようとして、だが両の脚、両の膝には力が入らず、そのまま床にへたり込んでしまった。
「お嬢様!」
慌てて老婆が駆け寄り、自らも床に膝をついてメリザンドを支えた。そうして詩人を睨みつけて、非難の言葉を口にした。
「詩人殿、なんと嫌な言葉を……」
メリザンドは手を掲げてそんな老女を制すると、床に膝をついたまま詩人を見上げた。
目を潤ませ、完全に閉じられていない唇は凍り付いていた。何か言葉を発しようとして、彼女はそれが出来ずにいた。栗色の髪を戸外から差し込む光が艶やかに輝かせていたが、こんなにも悲しく輝く女の髪を詩人は見たことはなかった。
静かに、じわじわとメリザンドの目に浮かんだ涙が溢れだした。
メリザンドは両手で顔を覆い、肩を震わせ必死で言葉を繰り出した。
「詩人殿……、詳しくお聞かせください……。でも、今は……」
か細く
そんな彼女に手を差し伸べようとして、詩人はその手を引っ込めた。今は部外の自分が出る幕ではないとリュシアンは考えた。悲しみの時は、身内だけで過ごさせるべきだった。弔意の言葉をどうかけて良いかも分からず、詩人は淡々と要件のみを告げた。
「出直して参ります。語るべきことを語らず、渡すべきものをお渡しせぬうちは、私の役目も終わりませんから。明日、もう一度伺います」
そう言って詩人は一礼すると、踵を返そうとした。
「お待ちください」
しっかりとした一言とともに、メリザンドが詩人の動きを制した。涙声であったが、芯の強さが感じられる声だった。
「ベオルニアから遠路参られたご様子。もしも、宿が決まっていないのでしたら、この家には空き部屋も多うございます。お使いになられませ」
精一杯の声でそれだけを伝えると、娘は老婆の胸に顔をうずめた。
それまで一言も発することなく、女主人の傍でただただ落胆の表情を浮かべながら立ち尽くしていた老執事が、メリザンドの意を汲んで詩人を屋敷に招き入れた。
ここで遠慮をして、この悲しみの時を無粋で無意味な社交の応酬で汚すことははばかられ、詩人は素直にその招きに従った。
執事に案内され階上に向かう途中、ちらと振り返った詩人の目に映ったのは、床に座り込んだまま老婆にあやされ、身を震わせ続ける女の姿だった。
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