第四章 誓いの雪起花
誓いの雪起花(一)
その日、女は針仕事の最中に手元を誤り、左手の人差し指を刺してしまった。
じわじわと滲み出て盛りがる小さな血の玉。彼女は慌てて布地から手を離し、それを膝に置いて指を舐めた。
かすかな鉄の匂いが鼻の奥を刺激する。出血はすぐにおさまったが、親指の腹で人差し指を押すと少しだけ鋭い痛みを感じた。
「ふぅ」
女は息をつき、改めて布地を台の上へと置き直した。そして、そのまま針を休めた。その日は朝から落ち着かなかった。不快と焦燥とが混ざり合ったような感覚に襲われ、胸はざわつき気は散るばかりだった。身体のどこか奥底から湧き上がる感覚に、少し前に終わったはずの月の障りがもう来てしまうのだろうかと思うほど気持ちが乱れていた。
「落ち着きさない、メリザンド」
彼女は自らに小さく言い聞かせた。
女はベオルニア王国タイン地方の
たとえ志学の時期が遅かろうと、他の者たちに比べて蓄積された学識が少なかろうと、気にせず貪欲に彼女は学びに臨んだ。ここでの学びに彼女は喜びを感じていた。
しかし彼女は孤独だった。
いと高き学問の座と謳われる〈学院〉にあっても、女子学生は数えるほどしかいない。そして彼女たちはひっそりと隠れるように生活していた。それでも女子学生は目立ってしまうのだが、男性たちは遠巻きに彼女たちを眺めるだけだった。そもそも彼女らの出自は例外なく高い上に、本国や実家の「何らかの訳ありな事情」があってここで暮らしている。青雲の志が高い学生たちは、親密になるが故の厄介事に巻き込まれぬよう、興味は抱きつつも女子学生との接触は極力避けていた。
また、流石に面と向かって口にするものはいないが、「女の身で学問など」とばかりに、侮蔑や嫌悪の眼差しを向ける者もいる。その眼差しに辛さを感じたこともあるが、約三年の月日はメリザンドの感覚を麻痺させ、今や慣れ切って気づかないふりをする術も身についていた。
故郷での一時期、メリザンドは女神殿に身を寄せ付属学問所で学んだこともあった。女ばかりの環境は決して平穏なだけの日々ではなかったが、話し相手には事欠かず、学ぶことに嫌悪や侮蔑を向けられることもなかった。
でも今は違った。
ここ〈学院〉は「学位は身分に勝る」を旨とするが、数の少ない女子学生の立場を明示した指針は欠いている。天文と数学にその才を発揮した女性学者も過去に存在したが、そのような才媛ですら平穏で幸福だったとは言い難い生涯を送ったと伝えられる。
時代を重ね社会も人も成熟したのか、そうした才女に対する眼差しは、往時ほど苛烈ではない。それでもここで学ぶ女たちは、少数者の悲哀を強いられていた。講義の場を離れると、メリザンドには歳の近しい話し相手はいない。
だがその孤独や忍従と引き換えに、彼女たちは生国での不遇よりも遥かに安定した生活を送れているのも事実だった。
今日のように講義のない日、メリザンドは家にこもって針仕事などで時間を潰した。十分な学資を父親から渡されているので、仕事の成果を売って日用の糧にするわけでもない。それは貴族娘の嗜みであるとともに無聊を慰める行為に過ぎず、幼い頃から世話をしてくれている老夫婦を話し相手に、メリザンドは侵略者の脅威に怯えることのない退屈で穏やかな時間を送っていた。
そんな彼女の屋敷の戸口が、突然に叩かれた。
訪ねる者などいないはずの家。不審がって無視を決めこもうとしたが、戸を叩く音は徐々に大きくなり、戸外の声は「エルドレッド様からの
彼女は自らも立ち上がって、老執事の後ろより開かれた扉の先を見た。薄暗い室内に光が差し込み、逆光に人影が浮かび上がる。二、三度瞬いてメリザンドは目を凝らした。
戸口に立っていたのは、
あら、なかなか素敵な方ね、とメリザンドは思ったが口には出さず、探るような視線を詩人に投げかけた。
詩人は恭しく貴婦人に対する礼を捧げ、綺麗なべオルニス語で告げた。
「私はリュシアン、ダンバーの出。ベオルニア王国はタインの
「……」
当地では隣接するシフィア王国の言葉が使われる。突然の母国語にメリザンドは戸惑った。そしてその素性を確かめるように男を眺めた。ダンバーはベオルニアの一地方で、彼女の父エルドレッドの所領タインに隣接する。目の前の男は、父と何らかの縁故がある者なのだろうか。
「貴女がメリザンド様で間違いございませぬか?」
色々と考えを巡らせたことで、詩人から確認されるまでメリザンドは挨拶や名乗りすら忘れていた。
「ええ。わたしがメリザンド。エルドレッドの娘メリザンドです!」
メリザンドにとっては、久しぶりに家人以外に話すベオルニア語だった。そのため、戸惑いながらも何処となく高揚感を感じていた。
だが娘の興奮とは裏腹に、メリザンドの答えを受けた詩人の顔は曇っていた。
一瞬にして娘の高揚感は冷まされ、詩人の表情にメリザンドは凶報を悟り眉をひそめた。
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