戦場の糸繰草(七)
鷲が描かれたベオルニア王国の旗が地に落ちた。
対照的にアラン人の蛇の旗は勢いよく風に踊る。
それでも、ベオルニス人たちのもう一つの旗はしばらくの間、戦場に高らかに翻っていた。
アザミの花の紋章が描かれたエルドレッドの旗は、戦場に咲くかのように掲げられ、蛇の旗に対してその誇りを示し続けた。
だがついに、その旗もまたゆらゆらと地に落ちた。
* * *
戦場を見渡す丘の上で、それを見届けた詩人リュシアンは胸の前で手を組んで、散っていった者達へ祈りを捧げた。
鷲は堕ち、アザミの花は手折られた。
昨日まで話を交わし酒を酌み交わした指揮官エルドレッドとその麾下の戦士達は、今や骸となって野にその体を横たえているのだろうか。人の生の変転の、なんとも急なことかと詩人は虚しさを覚え俯いた。
静まり返った戦場で、よろよろと少数のベオルニア人たちが帰営していく。幾多の同胞が不帰の人となったこの戦場で、彼らは何を思うのだろうか。一方のアラン人達からも覇気は失われていた。勝者であるはずの彼らもまたその足取りは重く、
べオルニス人の剣は折れた。だがアラン人もまた、今回の侵略を続行することは不可能であろう。そして少なくとも数年は外征を控えざるを得ない、それほどの損耗を強いられていた。エルドレッドたちは斃れたが、その目論見は果たされたように思えた。
詩人は空を仰いだ。
燃えていた太陽は翳り、西の空へと傾きかけていた。
──行こうか……
離れ難き思いを抱えつつ、リュシアンは去るべき時と心を決めた。
彼は木に繋いだ馬の元に近づいた。だがこの場を離脱する前に、詩人にはしなければならないことがあった。彼は鎮魂の曲を奏でるために、地に置いていた竪琴に手を伸ばした。
そしてその時、詩人はこの丘に広がる景色を初めて知った。
夏の盛りのこの丘には、鮮やかな緑が萌えていた。色彩豊かな花々に誘われるように蝶が舞う。戦場から聞こえていた騒々しい音は無く、今や聞こえてくるのは鳥たちの
陽射しを浴びて鮮烈に輝くその景色は、生命に満ちていた。
詩人は丘の世界を見回した。見つめ続けた戦場が嘘であるかのように、穏やかに世界は在った。
ひときわ鮮やかな紫色の花々が詩人の目をひいた。
それは
この
詩人は不意に、エルドレッドと交わした話を思い出した。あの時、人の運命の糸を紡ぐ
不意に涙があふれ、その零れた一筋が詩人の頬を伝って地に落ちた。
「おじさん……」
縁浅からぬ人であったエルドレッドを思い、それだけを呟いた。
この結末に、エルドレッドは満足しているのだろうか。
それを尋ねることはもうできない。エルドレッドの時は失われた。だが、生者の時は流れ続けていく。詩人はこの戦の目撃者として生かされ、そしてエルドレッドの娘への
詩人は大事にしまい込んだエルドレッドの形見の品を、確かめるように取り出して見つめた。
アザミの紋章があしらわれた短剣と、アザミの意匠の首飾り。この品を娘に手渡し、そしてエルドレッドの誇り高き戦いを娘に伝えよう。
涙で景色をにじませながら、詩人は
あの戦場に音よ届け、とリュシアンは無心で弦を震わせた。
そして、
最後の音を放った詩人は、
熱気は冷め、戦場は落ち着きを取り戻しつつあったが、屍肉を狙う大鴉達が上空を舞っていた。
日は傾き、世界を茜に染め上げつつあった。
どのような一日であれ、夕刻とそれに続く夜は訪れる。夜の帷が下りる前に街に入ろう、そう考えた詩人は馬の背に乗った。
この丘から去り行く前に、もう一度だけその目に焼き付けようと詩人は戦場を一望した。
戦場に転がる兜や剣が落日の光を受けて反射して、詩人の目には茜の世界に揺蕩う光の海のように映った。
やがて、
(1032年 夏)
(紫の
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