薔薇の手紙(五)

 アンジェリカの反応の薄さに、メルシーナはと落ち着きを取り戻した。友人をほったらかして一人だけ興奮していたことに、少しだけ気恥ずかしそうな表情を浮かべた彼女は、ごめんねというように小さく笑いかけた。気にしないでと笑い返したアンジェリカに、メルシーナは先ほどまでとはうって変わった丁寧な説明をはじめた。

「ええとね、この上の方の形の歪な三本の薔薇だけど、ちょっとなぞってみるね」

 そう言うとメルシーナは小指の先で、ゆっくりとロゼッタの線をなぞっていった。薔薇の花弁、薔薇の葉脈、そして別の花弁に茎。そのゆっくりとした、意味を持たせた動きに、アンジェリカもようやく彼女の伝えたいことに気づいた。そして、もう一度メルシーナの指の軌跡を目で確認したアンジェリカは、

「あ…」と小さな声をあげた。

「わかった? 薔薇の花でD、E、A、Lという文字が描かれてるの」

「いや、でも……。でも、たまたまそう見えるところをなぞっただけなんじゃないの?」

 アンジェリカの当然の疑問。首を横に振ってそれを否定し、さらにたたみかけるように、メルシーナは指の位置を少しだけ戻して、花の間を舞う蝶をなぞり始めた。

「で、この蝶の羽が……」

 最後まで言わずに、もうわかるよねという表情でメルシーナは友人を見た。

「M……ね……」と、小さく息をのんでアンジェリカは絞り出した。

 それでも「にわかには信じがたいわ。やっぱり偶然か考えすぎではないの?」とつぶやいて、アンジェリカは戸惑いを含んだ眼差しで、メルシーナとリュートを交互に見遣った。

 だが疑いつつもアンジェリカは、稚拙だと思っていたこのロゼッタに命が宿ったかのような気がしていた。この絵は表象の完成度を犠牲にして、メルシーナの言うように文字を織り込んだものなのだろうか。

 ふうっと深呼吸をしたアンジェリカはようやくメルシーナに応えた。

「つまり……DE M A LMよりLへ……」

 つぶやくアンジェリカに、メルシーナは解釈を加えた。

「MからLへ。つまりL……はリュシアンのことよね」

 では、これは本当にリュシアン所有の楽器だったというのだろうか。アンジェリカの口からは「じゃあ、Mは?」との言葉が自然に漏れた。

「誰だろうね。きっと、詩人にこの楽器を贈った人よね」

 答えるメルシーナの言葉に、アンジェリカは頷いた。そして確信的な推測を口にする。

「きっと……女の人よね」

「だよね。こんなに作りが良くて、手の込んだ細工を施した楽器を贈ることができるということは、きっと高貴な女性」

 この楽器の背後には、どのような物語がひそんでいるのだろうか。二人ともそれに思いを馳せた。そして当然に行き着く疑問として「いったい誰んだろう」という言葉をアンジェリカが呟いた。その呟きにメルシーナは答える。

「わたしね、思いついたんだけど、七本の薔薇の中に不自然に混じってるアザミの花。このアザミは、その女性ひとの紋章なんじゃないかな」

「紋章……アザミの紋章を持つ家の女性……」

 アンジェリカはメルシーナの言葉を反芻しながら、ぽつりぽつりと呟いた。

 高名な詩人リュシアンと関わりを持ったMの頭文字を持つ女性。恐らく高い家の生まれで、その紋章はアザミの花。リュシアンの楽器がここ小ラヴァルダンに伝来する理由の一端も、このロゼッタに秘められた女性にあるのかもしれない。

 興味は募る。丹念に調べ上げれば浮かび上がってくる女性がいるのかもしれない。だが、百五十年近い時を遡ってそれを探ることは、リュシアン自身の生涯がほとんど知られていないことを考慮すると難しいだろう。アザミの紋章を持つ家門など、数多くある。

 そんなことを考えながらリュートを眺めるアンジェリカに、メルシーナが言った。

「秘められた恋心、なのかもね。高貴な女性と吟遊詩人では、結ばれることは決して……」

 アンジェリカは友の言葉にうなずいた。このリュートは悲しい恋の証だったのかもしれない。そうであるなら、この秘匿かくされた花の秘密を明かす事は、その花を散らしてしまう無粋なことのようにアンジェリカには思えた。

「気にはなるけど、秘密は秘密のまま、そっと気付かぬふりをした方がいいのかもね」

「そう思うわ」

「数百年後、もはやこの世にいないとはいえ、自分の私的なことが知らない誰かに晒されるとかごめんだわ」

 アンジェリカの言葉に二人は笑った。笑うついでに、アンジェリカは「ねぇ、あなたも同じ頭文字だからこのやり方使えるわよ」などと冗談を口にした。

「残念ながら贈る相手がいないわ。アンジェリカの方こそ……あ、それはお互い様か」などと軽口で返したメルシーナは、それだけでは物足りないと思ったのか、もう一言を付け加えた。

「こういうことを試してみたくてたまらないラヴァルダンの姫君は、贈る殿方がいないあまりに公文書でやっちゃいそうだから言うけど、くれぐれも公文書を発給する際はお気をつけくださいませ」

 茶化してみせたメルシーナに、アンジェリカは自信と茶目っ気たっぷりに笑って答えた。

「その辺は大丈夫ですわよ。保管され、書写されて各地に配られる公文書にそんなことは致しませんことよ」

「それはそうよね」

 お互いに笑い合った。

「私信なら良いのかもしれないけれど、私にはこのやり方は合わないと思うわ」

 アジェリカが少しだけ寂しそうに呟いた。それを聞き咎めたメルシーナは「そうなの? あなたはこういう手の込んだことやりそうなんだけど」と口にした。

「こういう方法やりかたに興味はあるけれど、私はもっと自分を誇示してしまうと思う」

 自分のことをそう語ったアンジェリカに、それもそうねとメルシーナは同意した。アンジェリカは誇り高く、基本的には派手さと自己顕示を好むことを知っていた。



 メルシーナがラヴァルダン屋敷を辞した後、楽器を戻すべくアンジェリカは、自ら収蔵庫に向かった。堅牢な石壁に囲まれた収蔵庫は、暗くひんやりとしている。頼りない燭台の灯りでは、全体を見渡すことが出来ないが、書架や棚・台の上には、所狭しと物が陳列されている。ここには、名品とされるような数多くの物が、日の目を見ることなく長い時の中で眠りについている。

 彼女は燭台を床に置き、棚の一角に弦を緩めたリュートをそっと安置した。

「またメルシーナが弾きにくる時にね」

 ふとリュートに語りかけた。それとも私もリュートでも覚えてみようかしら、とアンジェリカは思わず呟いた。その小さな呟きは、石壁に反響して収蔵庫の暗闇に溶けていった。

 収蔵庫から出ようと、アンジェリカは再び燭台を手にしてリュートに背を向けた。二、三歩だけ足を進めたところで、振り返ってもう一度だけリュートを見た。

 ──楽器に隠された一風変わった手紙。誰かの秘められた想い。

 ──次に、この手紙に気づくのは誰で、いつのことになるのだろう。

 前を向き直したアンジェリカは歩き出し、収蔵庫を後にした。

 扉が軋み、二つの金属がぶつかり合う。その重い音と共に収蔵庫は闇に閉ざされた。

 

(1196年秋)

(七本の薔薇:花言葉「秘かな愛」)

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