薔薇の手紙(四)

 メルシーナは、響孔サウンドホールを覆うロゼッタの透かし彫りを凝視したまま、じっと固まっていた。

 メルシーナの腕に抱かれるリュート。こびりついた埃を払われ、往時の姿を取り戻したその楽器の顔ともいえるロゼッタの意匠を、改めてアンジェリカも見つめる。

 七本の薔薇が咲いている。上の方に三本、下に四本。そして薔薇の花たちの間を舞う蝶が彫られていた。そしてよく見ると薔薇の葉の間に、アザミの花が一輪だけ紛れ込むかのように描かれていた。細かい技巧が駆使されているようだが、全体としては円形の響孔に合わせたがゆえに薔薇の花弁は歪み、やはり稚拙さが感じられる。何よりアンジェリカに見えているのは逆さまの世界。メルシーナがリュートを構えている今、その絵は天地が逆になっていて、薔薇は地に向かって咲き、蝶は飛ぶというより地に落ちるかのように見えた。

 残念な彫刻だ。

 だが、演奏をやめてしまうほど気になるものなのだろうか。

 怪訝な表情を浮かべ、アンジェリカは友人の瞳を覗き込んだ。

「何か不具合でもあった?」

 アンジェリカは声をかけたが、それでもメルシーナは反応しなかった。代わりに、首を縦に振って、何か自分を納得させているかのような動きを示した。

 ややあって、メルシーナはアンジェリカに顔を向けて言った。

「わかったかも………」

 小さな呟き。その目的語を欠いた言葉に対して、アンジェリカは怪訝な表情を浮かべた。一方のメルシーナは、興奮を抑えきれない様子で少々早口に語り出した。

「わたしね、このリュート、ロゼッタが気に入らなかったの」

 あれだけの態度を見せておいて今更、と笑いをこらえてアンジェリカは応じた。

「それは感じていたし、実のところ私もそうだわ」

「アンジェリカもそうなんだ」

「ええ。ロゼッタだけがとても稚拙よね。そもそも薔薇の花飾りロゼッタだから薔薇の花はわかるけど、一輪だけアザミも混じっているし。おかしいよね」

 アンジェリカの返答に、思わずメルシーナは笑った。

「そのアザミは、もしかしたら……ううん、どうなんだろう」

「何よ、もったいぶらないで教えてよ」

「まぁ、待って。それは順を追って話すから」

 メルシーナは右手人差し指を唇に当てて、何から話すかを整理するために目を閉じた。睫毛の先が薄く艶やかに光を受けている。そんなメルシーナの様子を無視して、アンジェリカは遠慮なく楽器の外観に対する不満を口にした。

「でも本当にこのロゼッタは違和感ありすぎるわよね。彫りの細やかさから見ても腕のある職工が作ってるようだから、もっとどうにかならなかったのかしら」

 目を開いたメルシーナは、笑いながら首を縦に振って同意した。だが、その口からこぼれた言葉は、アンジェリカが想定したものとは異なっていた。

「うん。わたしもそう思ってた。けど………」

 首をかしげてアンジェリカは、メルシーナの言葉を鸚鵡返しに口にした。

「けど?」

 顔はアンジェリカに向けたまま、瞳だけを右斜め上方に動かして「ん……」と、再びどのように説明するかをメルシーナは考えた。「そうね」という独り言とともに、メルシーナは友人に瞳を戻して話し始めた。

「アンジェリカ、このロゼッタの模様なんだけど」

 言葉とともにメルシーナは、対面するアンジェリカにも見やすいようにネックの向きを反転させ、第一弦側を上にして掲げ持った。アンジェリカの目に映っていた逆さまの世界は、当然、正しい上下の絵に変化する。

「これが当然の模様」

 葉が生い茂り花咲く中を空に向かって踊る蝶。これが想定される正常な姿なのだろう。

「つまり持ち主とされるリュシアンが左利きだった、ということ?」

「それは違うと思う」

「なら、単純に彫師が向きを間違ってしまった……と言うわけではなさそうね。あなたのその様子では」

 メルシーナは思わず笑いだした。少しだけ、アンジェリカは苛立った。

「早く、わかったことを言いなさいよ」

「ええ。このリュートは立てかけたとき、そして聴衆が演奏者の姿を見るとき、この正しい姿にはならないよね」

「そうね。薔薇は地面に向かって咲くことになるわ」

「これはきっと、聴衆ではなくて演奏中の奏者のために彫られた絵だと思うの」

 メルシーナはリュートをアンジェリカに手渡した。アンジェリカはリュートを構え筐体に視線を落とした。七本の薔薇と舞う蝶、紛れ込む一輪のアザミが正しい上下で目に飛び込んでくる。

「確かに、奏者にはちゃんとした絵になるわね。でも何のために? 普通は聴衆に向けて見せるわよね?」

「それなんだけど……多分だけどね、これくらいの角度で覗き込んでみて?」

 メルシーナはアンジェリカの背後に回り込んで、彼女が手にするリュートの位置を調整した。メルシーナが動くたびにその髪が頬に触れ、くすぐったく思いながらアンジェリカはメルシーナの次の言葉を待った。

「わかりづらいと思うけど、何かが浮かんでこない?」

「何が?」

 いったい何を言っているのだろうかと、アンジェリカはその意図を掴むことができなかった。構わずメルシーナは話を進める。

「七本のバラのうち、上の方に彫られた三つは少し変な形になってるよね」

 そう言ってメルシーナは該当する薔薇の透かし彫りを指し示した。多数の弦が薄膜のように覆うロゼッタの模様をなぞるように、メルシーナの細い指先が宙に踊る。

 だが、アンジェリカの目には何も浮かんでこなかった。

「響孔の形に合わせて、歪んでいるだけじゃないの?」

 そう伝えるが、メルシーナは繰り返し繰り返し模様をなぞり、そして尋ねた。

「ね、わかった?」

「ん………」

 アンジェリカは曖昧な返事をした。彼女はメルシーナの言う何かを読み取ることができず、もどかしさと苛立ちを感じつつあった。そもそもメルシーナの指の動きは、その動作を繰り返すたびに大振りになり、何かをなぞるという本来の意図を果たしていなかった。興奮のあまり、丁寧さを欠いていた。

 アンジェリカは苛立ってはいたが、その程度のことで声を荒げたりするのは、彼女の矜持が許さなかった。だからメルシーナが落ち着きを取り戻し、しっかりとした説明が加えられるのを待った。

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