薔薇の手紙(三)

 楽師の歌声がラヴァルダン屋敷の広間に流れ続ける。

 いつしか歌は両軍がまさに衝突する場面にさしかかっていた。


  舞いてあがるは 砂煙 人馬の悲鳴は 地を埋める

  あかが散り 川の流れは 緋に染まる

  両の戦士の 屍は 重なりゆきて 地を埋める

  アランびと たおれし者の 山を越え

  誇りに満ちた べオルニス むくろを盾に 耐え凌ぐ


 この歌がそうであるように、大陸の武勲詩シャンソン・ド・ジェストはべオルニス人やシフィア人戦士たちの武勇を謳う。シフィア王領など大陸の国々や隣接する島国ベオルニアにとって、北方民は辺境の蛮族に映る。メルシーナと知り合っていなければ、アンジェリカもまた北方民をそのようにしか見ることができなかったかもしれない。

 反対に北方の散文物語サガは北の民の勇敢さを謳う。だが大陸の民は、それを低俗なものと認識しがちだった。メルシーナや、亡命してきた彼女の傅育ふいく者となった〈学院〉の故ハーゲン導師の存在がなければ、アンジェリカもそんな見方しかできなかったかもしれない。

 メルシーナとの交流のおかげで、偏狭な意識を持たずに済んだことにアンジェリカは安堵感を覚える。「あののおかげよね、本当に」、そう思ったところで、先日のメルシーナが見せたロゼッタへの執拗な言及を思い出して可笑しくなった。

 アンジェリカの意識が、自然と楽師の持つリュートに注がれる。一般的なロゼッタは、その名の通りバラの花ローズを図案化した繊細な幾何学模様で飾られている。楽師組合の親方が手にする楽器だけあって、彼のリュートは作りも音もよく、ロゼッタの幾何学模様は美しく繊細な表情を見せていた。

 それに比べてあのリュートは、とアンジェリカは例の楽器を思い描いた。楽師が持つ一般的なそれを目の前にすると、あの楽器の異様さが増していく。

 あのリュートのロゼッタは、まるで幼稚な絵だ。数本のバラの花と、舞う蝶の図案だった。その意匠はリュートの筐体きょうたいに馴染まず、稚拙感を醸し出していた。

 しかもリュートを立てて置いた時に、本体左側が天となるように花や蝶は彫られていた。職人は間違いに気づいても修正不可能だったのだろうか。せめて右側が天であったならば、奏者が横に傾けてリュートを抱える演奏中に、聴衆は花々の間を舞う蝶の柄を見ることができた。だがあのリュートでは、聴衆は地に向かって咲き、地に向かって落ちゆく蝶を見ることになる。

 響きの良い筐体だっただけに、あのロゼッタさえなければとアンジェリカは思った。

 ──なんでそんなものが、リュシアンの楽器として残されたんだろうね。

 頭の中で一人思う。

 そんなことを考えている間に、歌は物語の佳境──エゼルレッドによる総攻撃に差し掛かっていた。


  敵の刃が ししを裂き 鈍く輝き 血に染まる

  地に倒れ むくろとなりし べオルニス

  左右の者も 姿なく エルドレッドは 時を待つ

  恐るべき 最期の時は 迫りくる

  いま一度ひとたびの 勇戦を 僅かの兵と 覚悟して 


 旋律は緊迫を帯び、音の震えはアンジェリカに注がれた。音によるその刺激は心地よく、流れる時の気怠さの中でアンジェリカは考えるのをやめた。

 


 そして十数日が過ぎ、ようやく楽器の調整が終わると、アンジェリカは再びメルシーナを屋敷に招いた。

 リュシアンのものとされるリュートを手渡されたメルシーナは興奮を抑えきれなかった。名高い詩人のものとされるそれは、職人の手によって細かい埃まで除去され、新しい弦が張られて、詩人が爪弾いていたであろう往時の姿を取り戻していた。名高き詩人の楽器を抱え、メルシーナは高揚感を抑えきれないようだった。

 ただロゼッタを見つめるメルシーナのなんともいえぬ表情を見て、アンジェリカは少し可笑しく思った。本来の姿を取り戻した楽器にあって、その不自然なロゼッタの稚拙さが強調されたような気がしていた。

 ロゼッタについては目をつぶらなければいけないわね、と考えてアンジェリカは友人に声をかけた。

「調弦だけで半日とか嫌だから、そこは済ましてもらってるわよ」

 リュートは多くの弦を持つ楽器だからこそ、調弦には時間がかかる。アンジェリカの言葉を受けて、メルシーナは軽く全ての弦を鳴らすと、多少狂いが生じていたいくつかの弦を締め直した。

「こんなものかな?」

 程なくして、調弦に満足したのかメルシーナは指の動きを止めると、素朴な疑問を口にした。

「ねぇ、どうしてリュシアンの楽器がラヴァルダンに伝わっているの?」

「どうしてだろうね。ラヴァルダンと言っても本国じゃなくて、ここ小ラヴァルダンにね。リュシアンが一度二度、この屋敷を訪れたことがあるとして、それで楽器が残るとは思えないわよね。ここで死去した訳でもないし。うちの先祖に誰か蒐集家でもいたのかしらね」

 アンジェリカはそこまで気にしてはいないらしい。なんと言ってもラヴァルダン伯家は名門であり、工芸の名器や稀覯本きこうぼん、宝飾品などが当然のように蒐集される。それは《学院》に隣接する飛地である小ラヴァルダンであっても同じだ。そういった逸品の中には出所不明のものもあるし、高級な模造品の類も多い。結局、名品が家中に存在することが重要で、何故存在しているのかといった伝来についてなど、代々の伯家の者は瑣末さまつな事と考えたのだろうか。


 アンジェリカの答えは、メルシーナにとって満足の得られるものでは無かったが、仕方ないと考えてメルシーナは演奏に意識を集中させることにした。

 試しに二、三の小品を奏でるメルシーナを横に、アンジェリカは目を閉じその音に聴き入った。心地よい、と思った。一方で、その才能には軽い嫉妬を覚える。メルシーナのように両手の指を駆使して、音の流れを自ら生み出せるとしたらどんなに楽しいことだろうか。

 メルシーナの奏でるひとつひとつの音の響きは短くとも、それらが連なり大きな流れとなる。残響が消えようとするその刹那、生み出されたばかりの新しい音がそこに重なり、絶え間なく降り注ぐ雨のように音の幕を室内に垂らした。

 まるで踊っているかのような指先。迷いなく、淀みなく弦を撫でつける。この部屋の豪奢な調度品も、楽器を奏でるメルシーナの前では霞んで見える、そうアンジェリカは思った。

 ──金銀さんざめく瀟洒な宝飾品をかすめさせるような、そんな美しい瞬間を私は生み出すことができない。

 心の内にそう思い、気付かれないようにアンジェリカは吐息を漏らした。

 その刹那、メルシーナの指が動きを止めた。

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