薔薇の手紙(二)
アンジェリカの口から出た名前は、よく知られたものだった。
──ダンバーのリュシアン。
百五十年以上前に生きた高名な詩人で、都市や各地の宮廷を渡り歩き、幾多の恋愛歌や世俗歌謡を残している。島国ベオルニアのダンバーに生まれ、大陸に渡って名を成し、放浪に生きたという。歌こそ残っているが、その生涯には不明なことも多い。
知られている数少ないことの一つが、
そしてこの楽器は、本当に古の詩人に由来するものなのだろうか。実のところ、アンジェリカは半信半疑だった。だが、メルシーナは素直に驚きの声をあげた。
「すごい! ラヴァルダンの収蔵庫にあるのなら、信憑性は確かよね!」
──ラヴァルダンなんて、そんなに信用に足るものでもないんだけどね。
アンジェリカはそう思いながら苦笑する。
目利きの揃うラヴァルダンといえど、偽物をつかまされることもある。少しばかり頭の良い詐欺師が捏造した、最もらしい由来記に騙されて、法外な値段でただ古いだけの物を取引することもあるだろう。だが一つ言えるのは、たとえ偽物であったとしても、ラヴァルダン伯が収蔵するほどのものは精巧かつ高級な
一方のメルシーナは頬を紅潮させ、瞳には好奇心と何かを期待するかのような輝きを浮かべていた。そして言う。
「なんだかこのロゼッタも、これはこれでいいのかもと思えてきたわ」
先ほどまでそのロゼッタを貶していたはずなのに、まったく現金なものだった。でも素直でいいなとアンジェリカは思う。この素直さは自分にはないもので、アンジェリカはそれを羨ましくも感じていた。
「あなたが良いものと言うならそうなんでしょうね。正直、リュシアンのものかはわからないけれど、清掃や調整をして新しく弦を張り替えてみるわ。それが終わったら弾かせてあげる」
名残惜しそうにリュートを返すメルシーナに、アンジェリカは微笑みながら言った。
「ありがとう。またその時にね」
そう言いつつメルシーナは、アンジェリカの手に戻った楽器をじっと見つめた。そうして少しだけ首を傾げる。どうしたのかと問いかけるアンジェリカに、
「うーん……。離れてみると、やっぱり変なロゼッタよね」
彼女はそう返した。
幾何学模様ではなく絵が表現された
それからしばらく経った
広間の中央に座してリュートを奏でる楽師が、その音どもを繰り出していた。
橋に迫るは
猛き武者 エルドレッドは 部下に言ふ
あれに見えるは オラーブぞ その名も高き アラン
この橋を 守りて敵を 通すまじ
死こそ我らが
奏でているのは楽師
広間中央の瀟洒な椅子に深く腰を掛け、肘掛けにもたれかかるようにゆったりと、アンジェリカは歌の流れに身を委ねていた。侍女たちもまた、たまに果実水を主君の杯に注いだりしながら思い思いに憩うていた。
──声も良いし、楽器の演奏もさすがに見事ね。
ラヴァルダン伯姫の依頼に対して、
歌を捧げる楽師を見遣り、アンジェリカは物語世界に想いを馳せた。
有名な
この日、アンジェリカはリュートのために編曲されたものを依頼していた。
メルシーナとのあの日の会話は、アンジェリカをして、ふとこの曲を聞きたくさせていた。だが、この曲をメルシーナに依頼するのは酷だった。主人公エルドレッドは彼女の故国エルスクを滅ぼしたべオルニス人で、その敵役である侵略者のオラーブはアラン人、つまり彼女と同じ北方民族の首領だったからだ。百年以上前の出来事とはいえ、ベオルニス人を賛美する曲を彼女に歌わせるわけにはいかなかった。
それでも、友を差し置いて他の詩人の演奏を聴くことには、多少の後ろめたさもあった。
──まぁ、これは男声の歌だし。
自らを納得させながら、ゆったりと歌の流れに身を委ね、アンジェリカはこの歌の作者に思いを馳せた。
作者のリュシアン自身もまたべオルニス人だ。だがその活動の軌跡は大陸、特にシフィア王領からエメリア伯領に至る地域に多く残る。その作品も多くはシフィア語やエメリア語、まれに古ラティア語で歌われている。それゆえか、メルシーナもリュシアンに対してはべオルニス人という意識や嫌悪感を持っていないように思えた。
べオルニス人戦士の栄光を歌いながらも、現にこの「アデル橋」の曲もまたベオルニア語ではなくシフィア語で作られている。それが故に、ベオルニア王国と北方のアラン人などという、辺境の局地的な戦闘が多くの人に知られることになっていた。
ベオルニス人とアラン人。
この二つの民族は長い戦いの歴史を共有している。そしてそれは遠い過去の話では無い。メルシーナがべオルニア王国の侵略で祖国エルスクを
戦いの歌を聴きながら、アンジェリカは思う。
──こんな戦闘は、遠い過去の出来事であってほしかった。
だが、メルシーナを襲った亡国の悲劇があったからこそ、アンジェリカはメルシーナと出会い、大切な友とすることができていた。
楽師の奏でる見事な歌と演奏を聴きながら、アンジェリカは友を想って胸に痛みと、複雑な思いを感じていた。
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