第Ⅱ章 薔薇の手紙

薔薇の手紙(一)

 ラヴァルダン屋敷の一室でアンジェリカは招き入れたメルシーナを相手に時間を潰していた。講義もないひととき、女学生たちはよく連れ立って息抜きをする。

 学問と自由の座として大陸の尊崇を集める擬制国家〈学院〉。ここには少数ながら女子学生も存在している。その多くはシフィア湖周辺の貴族子女で、まれに大商人の娘や訳ありの女性が存在した。

 アンジェリカは大貴族ラヴァルダン伯の娘だが、一方のメルシーナは「訳あり娘」の方だった。彼女は北方の小国エルスクの王女だった。だが数年前、西方のベオルニア王国の侵略を受けて国を喪失なくしていた。そして今、政治的中立地アジールでもあるここ〈学院〉での亡命生活を余儀なくされている。

 こうした出自の特殊性から、ただでさえ女学生は少数だった。そして今、アンジェリカの周囲にいる親友はメルシーナを残すのみとなっていた。知り合い程度であればもっと増えていくが、こうして私的な時間を共に過ごす仲ともなると少ない。

 二人と特に仲の良かった者たちはみな帰郷して、既に結婚さえしている者もいる。というより二十歳前後の二人は、貴族としては結婚が遅れている。

 器量に乏しいわけではなく、むしろ逆だ。暗めの金の髪を持つアンジェリカ、整った顔立ちには優雅さと聡明な意志が宿る。灰色がかった薄い金の髪のメルシーナは、澄んだ泉のように透明で穏やかな美しさを湛えている。二人が連れ立っているとそれだけで注目の的となりえたが、彼女たちは友人たちの後を追って配偶を求める気もなく、学問と自由の日々を謳歌していた。

 生まれた場所や境遇は違えど、この二人は気が合った。

 年齢はアンジェリカが二つほど上で、家格もアンジェリカのラヴァルダン伯の方が高い。王を号していたとはいえ、メルシーナの生国であるエルスクなど辺境の部族国家に過ぎない。それでも出自や身分よりも学位を尊ぶ〈学院〉の雰囲気を好む二人の間には、そういった上下関係は無く、良き友人関係を築き上げていた。


 一緒に午後のひとときを過ごすこの日、アンジェリカにはメルシーナに見せたいものがあった。

 壮麗なるラヴァルダン屋敷、その最も豪華な部屋がアンジェリカの私室だった。壁にかけられた鮮やかな色合いの綴織タピスリー、床に敷かれた絢爛たる絨毯タピ、控えめながらも繊細な彫りが施された机や椅子などの調度品。物の数こそ少ないが、一つ一つが美しさを湛え、使用者の誇り高き性格を映し出している。

 屋敷の中では常に付き従う侍女たちも、今この部屋にはおらず、ラヴァルダンの伯姫はくきは、決して他の者には見せないくつろいだ表情をしていた。

「これを見て欲しいんだけどさ」

 そう言ってアンジェリカは棚の方に向かうと、天板に置かれた、光沢を放つ艶やかな布地に包まれたそれを抱えてきた。椅子に腰を下ろし、優雅な手つきで丁寧に布地を開いていくと、古いリュートが現れた。

 どうぞと示されて、メルシーナはリュートを手に取った。

 材は枯れ、所々に打ちつけたり擦れたりした傷がついている。すでに弦は無く、最近取り付けられたと思われる新しい第一弦のみが張られていた。表面は一通り埃を落としているようだったが、弦を留める駒台ブリッジ糸巻きペグには払いきれなかった埃がこびり付いていた。

 メルシーナが使っている楽器に比して、みすぼらしさが目についたが、楽器そのものには、長い年月を経た威容と凛とした美しさが感じられた。

 全体を眺めていたメルシーナの目の動きが、響孔サウンドホールで止まる。その響孔を覆う透かし彫りのロゼッタは、彫りの隙間に埃が溜まっていた。そのロゼッタを見て、メルシーナは怪訝な表情を浮かべる。そのリュートのロゼッタは通常の幾何学文様ではなく、風景が彫りこまれていて異様であった。

「収蔵庫で見つけたんだけど、これっていいものなのかな?」

 そうアンジェリカに言われて、メルシーナはスーッと指先で楽器の胴を撫でた。何気ない動きだったが、淀みなく進む指先は優雅で、アンジェリカは思わず目で追った。

「とっても古いわね。でも、保存状態もいいみたいだし、作りも良さそう」

 左手でネックを掴み、腕でリュートの胴体を抱き抱えながら、まるで赤ん坊をあやすかのようにメルシーナはリュートをクルクルと回転させたり、糸巻きをいじったりしながら、その作りの細部まで舐め回すかのように検分した。

「壊れてはなさそうね」

 そう言ってメルシーナは、楽器の顔ともいえる響孔とそれを覆うロゼッタをじっと見つめる。

「変なロゼッタね」

 少し顔を曇らせながら、素直な感想をメルシーナは口にした。絵を掘り込んだそのロゼッタは、楽器の持つ端正さを損なわせているような印象を受けた。

「鳴らしていい?」

「ええ。そのために一本だけ弦を張ってみたんだから」

 その最下段の弦を伸張させるために、メルシーナは糸巻きを回した。やがて弦に緊張がみなぎり、楽器に少しだけ生気が生まれる。メルシーナは右の中指で軽く弦をはじいた。

 乾いた淀みのない高い音が室内にこだました。左手の指で弦を押さえ、いくつかの音を鳴らす。頷くかのようにメルシーナは首を縦に振って、アンジェリカに告げた。

「古いけど、きっと大事に使われてきたのね。いい音が鳴るわ。ロゼッタは稚拙な感じがするけど」

 アンジェリカは可笑しく思った。

 意外と音が良かったのか、その分、メルシーナはロゼッタの模様が気に入らないようだ。


 そのままメルシーナは一弦のみで、簡単な短い曲を作り出していった。

 羊腸弦ガットが震え、音が生み出されていく。減りの見られる指板の勘所かんどころを指で押さえ、指を滑らせ、メルシーナは楽器との触れ合いを楽しんでいた。

 骨董品とも言えるリュートだったが、楽器としても機能しているようだ。

 アンジェリカには詳しいことはわからないが、楽器の胴材は長い年月をかけて育ち、その音を豊かにしていくと聞いたこともあった。

 弦を振るわせる指の動きを止めると、メルシーナは楽器を再び眺め、その状態を確かめるかのように表面に指を這わせていた。

 そんな友人の様子を眺めつつ、アンジェリカは核心となる情報を彼女に与えることにした。

「でね、収蔵庫の記録によると、これはリュシアンのリュートらしいのよね」

「え?」

 メルシーナの動作が止まった。その表情は驚きの色を隠せなかった。

 当然の反応だ。

 アンジェリカが口にしたのは、伝説的な吟遊詩人トルバドゥールの名前だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る