静夜の待雪草(五)

 足元に広がる雪の地面を眺め、伯姫はくきは小さく声を絞り出した。

「私は……寂しい……」

 それは独り言なのか、それとも詩人に向けられた言葉なのか。判断がつきかねた詩人は、独創性の欠片もない言葉を不用意に発してしまった。

「統治者とは孤独なものだとどこかの領主も仰っていました。お若い今のあなたには酷なことだと思いますが……」

「そんなことはわかってる!」

 安易な言葉に激烈な叫びがぶつけられた。

 それは品行方正な伯姫が初めて詩人に見せた、剥き出しの感情であった。だがその激情は、少女が持つ生来の温和さに宥められ、続く言葉を見失う。

 感情のままに声を張り上げることも出来ず、伯姫は唇を噛んだ。その瞳は涙をたたえている。そこに映る自分の姿は、きっとぼやけているのであろうと詩人は思った。

 忍ぶことのできなかった想いを、少女ははっきりと訴えかけた。そしてその行き場を失った想いを収めるべき場を探している。詩人が拒絶を貫く以上、この数刻のやりとりなどなかったことにしてしまえばよかった。だが少女は、それができるほど器用でも無く、経験にも乏しかった。

 もはや少女にできるのは、明かしてしまった感情を吐露し続けることだけだった。

「ねえ。あなたは、私に雇われ気に入られたと言ったわね。でも、私があなたに気に入られようとしたのよ」

「マリセタ様?」

「わたしにとってあなたは、 世俗歌謡バラードのどんな主人公よりも魅力的だわ。でも、わたしは好きな人のためにどこまでも駆けてゆける 世俗歌謡バラードの乙女ではないのよ。わたしは伯位を継がねばならないから」

 詩人は口を閉ざし、伯姫から顔をそらした。その無言は拒絶の沈黙ではなかった。かけるべき言葉を喪失していただけだった。無意識に、詩人は右のこぶしを固く握りしめていた。それは寒さのゆえか、それとも少女を正視できない自身を恥じてのことか、そんなことさえもわからなくなっていた。

「私も世俗歌謡バラードの乙女たちのように恋をしてみたかった。恋に恋い焦がれていて……そこにあなたがあらわれた」

 少女は涙を浮かべながらも、気丈にはっきりと告げた。

「それは……今まで、そのような方が周囲におられなかっただけでしょう。これから、良き方と巡り合うことがございましょう。そのために、ご家来衆が良き伴侶を探しておられます」

「そうね。でも、それは私の意志で好きになるのとは違うわ」

「……」

 伯姫は自嘲めいた笑いを浮かべた。

「伯権を受け継ごうなんて女が、街娘のような幸福を求めようだなんて、不遜なことだとは解ってる」

 突如、伯姫は詩人に抱き着いた。

「だから……これから不自由な領主としての日々を生きるために……。私が世俗歌謡バラードの乙女になれるのは今だけ……」

 そんな言葉とともに詩人の胸に顔をうずめた伯姫を、彼は抱きしめてしまう。触れたことで湧きあがる感情は憐憫か愛しさか、詩人はそれを判別しえなかった。だが、少女の言う寂しさの一端には確かに触れた。

 幼き日々との訣別を迫られる時は、誰にでも訪れる。だが少女にとってそれは、あまりにも重すぎるものであった。伯位の継承によって、称号が伯姫から女伯へと変わる。強制的に少女から大人への変容を強いられ、娘時代の終わりを迫られる。

 数日の後、詩人の腕の中で震える少女は存在しない。

 世俗歌謡バラードの恋に恋をすることさえもはばかられる、そんな日々の到来を目前に、奪われゆく少女時代の恋の未練とその証を伯姫は詩人に残そうとしていた。

「マリセタ様……」

「今は、ただマリセタとだけ……」


 月明かりが照らす庭園から人影が消える。

 灰の影は闇に溶け、花弁を閉じた待雪草ガランサスが白く浮かび上がっていた。


* * *


 傾きつつある月が詩人を照らし出す。

 詩人は樺の木によりかかったまま、遠くを眺めていた。

 空も白み始め、月も星もいよいよ薄くなろうとしていた。


 あの夜の果て、曙光を浴びた少女は、はにかみながら時を惜しむかのように一方的に話しかけてきた。

 その多くは取り留めのない話だった。やがてそれも尽きると、室内に置かれたリュートを手渡し、少女は詩人に音楽をねだった。「竪琴リラはいつも弾いてるでしょ? だから今は、私のためだけにこれを弾いて」。そんな小さな願いを詩人は聞き入れた。

 流れる音を聞きながら伯姫は言った、「あなた、リュートは持っていないのよね。私が作ってあげるわ」。うなずきながら、指を動かす詩人に伯姫は続けた。「作るのには一年くらいかかるかしら。そうね。来年の冬、一年後の今日という日に、またこの城を訪れるといいわ。私は領主になっていると思うけど、城外まで出迎えてあげる。そしてね、いい演奏をしてくれたら、ご褒美に新しいリュートをあげるから」。

 やがて城中に人が動きはじめようとする頃、詩人は伯姫のもとを辞した。

 去り行く詩人の背中に、伯姫は短く別れを告げた。詩人の足元には、薄く少女の朝影が伸びていた。詩人がフェルンの地を離れるのはまだ先の春であったが、その冬の間、詩人が召し出されて伯姫ひとりのために演奏することはもうなかった。


 詩人は、待ち続けた女の姿を虚空に思い描いた。

 共にした時間は短い。だが、時間の長さは充足と同義ではない。

 伯姫の部屋に置かれていた鏡を思い出す。

 あの朝の光は、惹かれるかのように鏡に差し込み、反射されてまた何処かへと放たれていった。光は決して戻っては来ない。だが光と鏡が交錯した一瞬の、その輝きの激烈さ。 

 そして今、詩人の目には、朝の最初の光が差し込もうとしていた。


 詩人の視線の先には、今やアルジャンタン及びフェルン伯領の離宮となったフェルンの城があった。あれから一年。大貴族ラヴァルダン伯に連なるアルジャンタンの伯家に嫁いだ彼女は日々をどう過ごしているのだろうか。

 思いを巡らせる詩人の表情は、舞い落ちる雪に隠された。


 もう一度だけ城の姿を目にとどめ、詩人はその場を立ち去った。

 女は来なかった。

 朝の光をうけて、待雪草ガランサスの花弁が開こうとしている。

 降り続く雪はやがて詩人の足跡を消し、ふんわりとフェルンの街を包み込んでいた。


 (1022年 冬)

 (待雪草:花言葉「希望・慰め」)

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