静夜の待雪草(四)
地に落とした詩人の目には
昼の間に開いていたその花弁も今は閉じ、寒さに耐えるかのように小さくなっている。詩人もまた身を小さくして佇む。
待ち続ける女が来るはずもなく、だが交わした言葉だけを
彼女が来ることができようか、詩人は自らに問う。それでも待ち続けるのは彼なりの誠意であった。言葉を操る詩人が、言葉の信に背くわけにはいかぬであろう。そう自らに言い聞かせて詩人は再び葡萄酒をあおった。喉には冷たく胃も凍える。おまけに酔いも回らない。それでも身体が熱くなっているような気だけはした。
夜明けまでは数刻。曙光が姿を現すその時まで、詩人は待ち続けるつもりだった。
* * *
城の庭園は冬に蹂躙されていた。
生命の営みに乏しく、わずかな緑も精彩を欠いた。全てが冬にうなだれている。冬枯れの
木陰や壁際で、花弁を閉じた待雪草がわずかばかりの彩となっている。
そして赤い衣をまとった伯姫マリセタもまた、薄闇の中に色を添えていた。寒の夜空のその下で、彼女は小枝を拾い落ち着きなく
十日の後に伯位を継承する少女の表情は暗く、その目は虚ろだった。
「マリセタ様、参上いたしました」
静寂は、彼女が召し出した詩人の声に破られた。
「リュシアン殿..........」
漏れた吐息と共に、マリセタは詩人の名を発した。そして力なく笑う。
「このような寒い時分に、こんなところへ呼び出してごめんなさい。私、わがままですね」
「雇っていただいているのですから、わがままに付き合うのは当然ですよ」
月は雲に隠れ、ほんのりと滲むかのような雪明りの中で、穏やかに詩人は答える。
月の明かりが失われ、星々の冷たい光が勢いを増している。星影を背に、少女は凍えていた。
「寒くありませんか。この寒空では、さすがに私も
笑みを浮かべて場所の移動を促した詩人に、伯姫は震える声で返した。
「それは部屋で……。それで……」
そして彼女は、後に続く言葉を飲み込んだ。
「マリセタ様、いかがいたしましたか」
詩人は伯姫のただならぬ雰囲気を感じ取ることができた。
そして、続く言葉を予想することもできた。
だがぎこちなく上ずった声を発し、伯姫は話題を替えたようだった。
「明日から、即位式の準備で忙しくなるわ」
「その日、良き音を添えられるように、私も稽古に励みますよ」
「期待しているわ」
「お心に添えられるよう、勤めさせていただきます」
たどたどしいやり取りの終わりに、伯姫はこぶしを固く握りしめ口を閉ざした。
雲が流れ月が顔を出し、また雲が流れ月は覆い隠された。庭園に立つ二つの影が雪に伸び、やがてまた闇に紛れこむ。白と黒の交錯が幾度繰り返されたことであろうか、ようやく伯姫が一言を絞り出した。
「わがままをひとつだけ聞いてほしい……」
詩人は、先ほど予想した言葉を伯姫が口にするであろうことを確信した。それは詩人が各地の宮中で時にあしらい、時に受け入れてきた類のものであった。
だが、目の前の少女はこれから領主となり、さらにはどこかの領主家門との婚姻を結ばねばならない身である。どこかの宮中で火遊びを求めて言い寄ってきた、奔放な貴族の子女たちとはその立場には大きな隔たりがあった。
だから、詩人は無関心を装う。
「聞くことの出来るものであれば……」
感情のかけらも込めずに、詩人は鋭利な口調で返した。
暗い世界の中でも、そんな言葉を返された伯姫の表情に浮かぶ戸惑いは見てとれた。
「あの……。リュシアン殿……今夜はその、私と一緒に……いて欲しいです……」
彼女を包む空気は憂いを帯び、その声は消え入りそうであった。
「マリセタ様……」
少女の瞳には、水晶のような涙の欠片が滲んでいる。冬の凍えるような冷気の中で、それでも伯姫の頬や唇は熱を帯びて朱い。彼女が身にまとう衣は赤く、その胸元には
だが詩人の横顔には落ちた翳りが凍っていた。雪明りに陰影は深まり、瞳は宵闇を映して暗さを増した。詩人は迷った。かけるべき言葉は憐憫か、優しさか、それとも諫めであるべきなのか。詩人には判断がつきかねた。
詩人は瞼を閉じた。数瞬の間をおいて開いた目がマリセタを捉えた時、そこに伯姫はいなかった。いたのは、今にも崩れ落ちてしまいそうなか細い少女だった。再び目を開いたときに少女が消えていることを願って彼は再び目を閉じた。
しかし、彼女はそこにいた。
放浪の騎士や吟遊詩人が、見目麗しい姫君に迫られる。彼自身が奏でる
「あの……」
消え入りそうな少女の言葉に、沈黙による拒絶は少女を傷つけるであろうと考えた詩人は、ようやく言葉を吐き出した。
それは諫言にしかならない。どんなにやんわりとした言葉よりも、正しく戒めることが誠意であると詩人は信じた。
「マリセタ様。ご自分のお立場をわきまえて下さい。あなたは伯としてこの地を治め、これから縁談をまとめなくてはならない身なのですよ」
「……そうですよね……ごめんなさい……」
泣き出す一歩手前で踏みとどまって、少女は言葉を絞り出した。揺さぶられそうな感情を押し殺し、詩人は冷徹を貫き続けた。
「ええ。こればかりは、あなたのわがままでも聞くことはできません。マリセタ様、あなたは当地の姫君。私は一介の放浪詩人。いかにあなたに気に入られようと、それ以上にはなれません」
「あなただって、ベオルニア貴族の出なんでしょ?」
何とかすがろうとする伯姫の言葉は真実であったが、それは今この場では、何ら意味を持ち得ないものであった。
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