静夜の待雪草(二)

 この時、フェルン伯領は領主不在であった。伯領の頂点にいたのは少女。伯姫はくきマリセタであった。両親ふたおやはすでに亡く、伯位を継承した兄もまた流行病はやりやまいのために身罷みまかっており、形式上は他家に嫁いだ姉が伯位を預かっている。

 そしてマリセタが十八の誕生日を迎えると同時に、彼女が正式に領主となる予定であった。冬の間に、フェルンは若く無力な女伯を戴くことになる。伯政の大半は家令を中心とする家臣団が執り行うにしても、彼女には学ばなければならないことが多い。そうした領主としての様々な素養を学ぶ合間に、少女は詩人に歌わせくつろいだ。

 迫りつつある伯位の継承はまた、少女が大人になることを意味した。家臣団は今、結婚相手の検討に忙しい。伯領を保持するためには、戦場いくさばに立つことのできる伯配が必要であった。そこに少女の意志が入り込む余地はない。伯姫が少女としていられる時間は、もうわずかしか残されていなかった。


 与えられた部屋に向かう途中、詩人はすれ違った城の下女に声をかけた。貴族の城に逗留すると、束の間の遊びの相手には事欠かなかった。それなりに身分のある娘に手を出すと厄介なことも多く見極めが必要だが、下働きの娘であればさほどの面倒も少なく手を出し易い。首尾よくいくかどうかはともかく、下女とはいえそれなりに身なりのきちんとした娘たちの多い城や宮廷は、若い詩人には居心地の良い環境であった。

 声をかけられた娘は、戸惑いつつも詩人の誘いに顔を赤らめていた。壁を背にした娘に、詩人がさらに迫ろうとしたその時、背後から鋭い声が響いた。

「そのようなことは、私の目の届かないところでお願いできます?」

 突然の声に下女はびくつき、詩人もまたばつの悪そうな表情を浮かべて、声の方を振り返っては身を固くさせた。

「姫様……」

 畏まって下女が一礼した。

 数人の侍女を引きつれた伯姫は、詩人を一瞥すると下働きの娘を叱責した。

「美しい詩人殿に心奪われるのはわかりますが、お仕事の最中ではなくて?」

「申し訳ありません、申し訳ありません……」

 冷たく言い放つ伯姫の言葉に、泣き出しそうな表情を浮かべて娘は赦しを請う。年少者でありながら、身分がもたらす威厳は完全に下女を萎縮させていた。そんな娘の姿を見て多少の哀れみを抱いたか、少女の糾弾の矛先は詩人へと向いた。腰に手を当て、鋭く詩人を睨みつけて伯姫は詩人を叱責する。その声には、多少の軽蔑が含まれていた。

「あなたも、城中の女に不埒なことはやめてください。あまり目につくようだと、放逐いたしますよ、リュシアン殿」

「申し訳ございません、マリセタ様」

 さほど反省した色を見せず、詩人は形式的に謝罪する。

「城中で一番お美しい姫君に愛を囁くことは叶いませんから」

 詩人にとっては軽い世辞であるが、こうしたやりとりに慣れない伯姫は返す言葉が思いつかないようであった。頬を赤らめ、狼狽うろたえた表情を浮かべた。

「そ、それは……そうですが……」

 詩人は無言を貫く。ここは言葉を重ねる時ではなかった。

「ま、まぁ今回は大目に見てあげます。暖かい冬をお過ごしになられたいのであれば、以後、謹んでください」

 それだけを伝えると、マリセタは詩人と下女に背を向けた。詩人の目配せで、そそくさと娘は仕事場に戻っていった。

 靴音高く遠ざかる伯姫と侍女たちの姿を眺めながら、詩人はおとなしく部屋へ向かう。しばらくは自粛した方がよさそうだと肩をすくめた。領主の不興を買うことは、一夜の代償としては大きすぎた。


* * *

 

 夜のフェルンは雪を纏う。

 詩人は首を振り、肩に手をやって降り注ぐ雪を払い落とすと、その手に息を吐き温めた。

 女は来ない。

 いや、来るはずもないことは解っていた。

 それでも詩人は待ち続けた。

 ──このフェルンの地で、一年後に。それが女との約束だった。

 城には僅かばかりの炎が灯されている。

 昨年の冬、城の至る所で篝火かがりびは煌々としていた。夜を知らぬ街と称えられたのはもはや昔日のこと。わずか一年にしてフェルンの城は様変わりしていた。

 あの城内に、在りし日のフェルンの面影はないだろう。フェルン伯家の代官プレヴォを残し、伯姫マリセタとその取り巻きたちはもういない。

 地に置いた荷の中から葡萄酒の革袋を取り出した詩人は、それをのどに流し込むと月を見た。

 青白く光るそれは、いびつな形をしていた。


* * *


 欠けた月が薄く空に浮かんでいた。 

 夕さりは陽光の暖かさを奪い取り、城壁を染める朱い光はすで冷えていた。その頬に湿った寒の気を感じつつ、伯姫マリセタは地平に消えゆこうとする落日を眺めている。少女と行動を共にする侍女たちの姿はなく、ただひとり詩人だけが娘の背後に控えていた。

「もうすぐ、私とあなたがこのように気軽に会うことは、できなくなってしまいますね」

 赤き世界に、宵闇が侵食しようとしていた。刻々と朱は闇に飲まれ、落暉のか細い光は彼女の表情に翳りを落とし、その輪郭を曖昧にした。そのため詩人は、振り返った彼女の表情を判別しえなかった。

「私は、もうじき領主になってしまう。不安だわ……」

 少女のその吐露は、決して家中の者に聞かせてはならない弱音であった。余所者の詩人だからこそ、少女は本音を吐き出すことができた。だが、部外の者であるからこそ、詩人は形式的にしか答えることができない。

「大丈夫ですよ、マリセタ様。ご家来衆があなたをお支えになられます」

 少女が帯びる悲しげな雰囲気を壊したくて、努めて明るくリュシアンは話しかけた。

「そう……」

 だが伯姫の返答は物憂げであった。

「ちがう……」

 このかすかなつぶやきは、発した少女以外の誰にも聞こえなかった。

「不安は、今の自分ではいられなくなるということ。あなたには解らない」

 弱々しく続けられたつぶやきは、その最後の部分だけが詩人の耳に届いた。

「当然です。私は一介の放浪楽師に過ぎませんから」

「そういう事じゃない」

 まとわりつく寒気がそうさせたか、冷たく言い放つ伯姫の言葉に楽師は口を閉ざした。少女の望む答えを詩人は見出せなかった。彼女もそれ以上の言葉を出せなかった。

 城壁沿いの歩廊アリュールに、奉公人たちが火を灯し始めていた。また、外套や燭台を手に侍女たちも姿を見せ、伯姫を城内に迎え入れようとした。

 詩人を一瞥すると少女は、侍女たちに促されるまま急ぎ足で城内へと消えていった。

「だれも私のことなんか分からない」

 再び誰の耳にも聞こえることのないつぶやきが、彼女の口からもれた。

 落日の最後の光が、彼方の稜線を一瞬だけ輝かせて、やがて消えた。

 一人残された詩人は、しばらくあたりを眺めていたが、やがて寒さに耐えきれず城の中へと入っていった。


 * * *

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る