第一章 静夜の待雪草

静夜の待雪草(一)

 夜の街には雪が降っていた。

 凛と張り詰めた空に、星がひとつ、またひとつとまたたいては遥か下界を静かに見守っている。月は雲間に隠れその貌をひそやかにしていた。そんな静かな夜に、竪琴リラを抱えた放浪詩人が独り樺の木によりかかり、一人の女を待っていた。

 突如、一陣の風が雲を散らす。月はその貌をあらわにし、その光は青白く燃えた。そして張りつめる冷気に鋭い輝きを放っていた星々の明かりは、瞬く間に月の光に打ち消された。

 詩人の影が地面を覆う雪の上に薄く伸びた。震える手を服の中におさめ、降る雪の冷たさに凍えながら、詩人は待ち続けた。

 寒さに耐えつつ、詩人は降り続く雪の舞いをぼうっと見つめている。虚な瞳にはなく雪が映っていたが、詩人の目には何か別のものが浮かんでいるかのようだった。

 そして確かにこの時、詩人の脳裏には過ぎ去りし昨冬の幻影が去来していた。

 詩人が寄りかかる樺の木から真っ直ぐ先に見えるフェルンの城。昨年の冬、詩人はその壁の中にいた。厳しい寒気の中にただひとり佇みながらも、追想する詩人の表情は穏やかだった。

 だが冷気を運ぶ風がその幻影を消し去り、静かな夜にひとり待ち続ける詩人の表情を硬いものにした。若き詩人の横顔は翳り、視線は地に落とされた。

 しばらくして顔を上げた詩人は城の壁を見つめ、景色に変わりがないことを確認すると再び地へと瞳を落とした。その足元には、花弁を閉じた待雪草ガランサスがぽつりぽつりと生えていた。

 寒いなと短く呟いた詩人は、雪の中でただひたすら女を待ち続けた。


※ ※ ※


 暖炉の炎が高く上がり、焚き木の小さな枝が爆ぜる音が室内に響き渡った。炎の熱が充満し、床に敷かれた織物や四方の壁にかけられた綴織つづれおりは石の冷気を封じ込めていた。そしてその身にまとう瀟洒な毛織の衣は暖かく、季節を忘れさせた。

 このフェルンの地で、詩人リュシアンは冬の路上に過ごす辛苦とは無縁の日々を送っていた。豊かな港を抱える伯領フェルン。その領土は小なりといえど、その繁栄は数多あまたの者をこの地に惹きつけた。そして伯の城にうまく取り入ることができた詩人にとって、この伯領の主はまたとない庇護者であった。そして、その庇護者は若かった。

「リュシアン殿、次はあれを弾いてくださいな」

 幼く濁りなき声が詩人にかけられた。その声の持ち主は、繊麗な面持ちの美しい少女であった。清らかな水をたたえた湖面のような瞳の碧。艶やかに波打つ濃い茶の髪。年の頃は十七、八。妖艶な色気など全く持ち得ていないが、屈託のない生き生きとした輝きに満ち溢れていた。

「あれとは何でございましょう、マリセタ様」

 彼女の望みは承知していたが、わざと詩人は尋ねた。

「妖精の女王に連れ去られた恋人を助ける乙女の話よ」

 怒ったふりをして、わざとらしく唇をとがらせ、拗ねた口調で彼女は答えた。その世俗歌謡バラードは、未だ幼さの残る彼女のお気に入りだった。

「承知いたしました」

 音の高さを確かめるように二、三度弦を爪弾いた後、詩人は大きく息を吸って竪琴リラを構えた。一瞬の静寂を挟んで詩人の指は音を紡ぎだし、それは形を成して流れとなった。流れが室内に渦を巻きはじめると、部屋の輪郭はぼやけだす。そして歌が始まる。詩と音とが溶け合い、この部屋は一時だけこの世から遊離していった。


  乙女は川辺に座して

  水鏡に髪をすいている

  春の野は今花盛り

  その中でひときわ美しく


 緩やかな出だしは、乙女と放浪の騎士の水辺での出会い。そして恋に落ちるくだりへと続く。だがそれも束の間、妖精の女王が騎士に横恋慕してしまう。そんなお決まりの展開も、詩人が奏でる堅琴の音と混ざり合い、物語後半への期待感を高めていった。竪琴リラの音は、ある時は大河のようにゆったりと、またある時は急峻な滝場のように流れた。

 そして伯姫はくきマリセタは室内を包み込む音に身を委ね、細めた目で詩人を見つめ続けていた。詩人の口から紡ぎ出される詩は、やがて少女の微睡まどろみを誘う。放浪の騎士が妖精の女王に連れ去られる場面にさしかかるころには、マリセタは夢うつつの中にいた。

 その様子を横目で見ながら、詩人は指先の動きと歌をやめることはない。部屋には侍女たちも控え聴いている。やがて妖精の女王に連れ去られた騎士を、森の動物たちの力を借りて乙女が取り戻そうとする、物語の佳境にさしかかった。


  泣き叫ぶ乙女に山猫はいう

  乙女よ、我らが助けになろう

  天駆けるつがいの鳥もさえずる

  騎士を見つけたら、 我らを呼ぶべし


 竪琴リラの音は深みを増し、詩人の声も豊かになっていく。妖精の女王によって眠らされた騎士を乙女が見つけだしその腕に抱いた頃には、少女は物憂げな表情を浮かべて侍女の一人の膝を枕に脱力していた。時折、目を開いて詩人を見遣りながら音の流れに身を横たえている。


  怒りに震え女王は叫ぶ

  おお、憎き小娘よ

  そなたの冷たき心の臓を

  えぐり出してくれようか


  妖精の女王は乙女に迫る

  すると紅き薔薇の花

  乙女を囲み棘を突きだして言う

  娘よ、案ずることはない


  そして山猫は彼女の腕の中の騎士を

  七竈ナナカマドへと変えてしまった

  その枝に降り立った番の鳥がさえずる

  女王よ、これは我が住まいの木ぞ


 七竈は魔除けの木。妖精の女王は近づくことができない。詩人の奏でる音は、騎士を奪われた妖精の女王の怒りを代弁して怒涛となり、淀みとなる。それも一転、乙女の勝利が決すると清流となって響き渡った。


  妖精の女王は怒り狂う

  おぉ、憎き小娘よ

  忌まわしき者どもよ

  何をしてくれたのか


  乙女は、七竈の赤い実を

  ひとつぶだけ摘みとった

  それをくちびるに当てたとき

  彼女は麗しき騎士を勝ち得た


  女王は言う、 我が騎士よ

  今日という日を予見し得たなら

  そなたをさらなる遠き地の

  石や土へと変えていたものを

 

  ここに物語は終わる   

  乙女と騎士は困難の果てに幸福を得た

  願わくば麗しの我が姫君にも

  永遠とわの幸あらんことを


 女王の嘆きと、庇護者を讃える反歌アンヴォワをもって歌は終わった。

 しかし竪琴は鳴り続け、空気を震わせていた。

 やがてそれも終わる。

 最後の音が消えても室内には余韻が満ちていたが、暖炉にくべられた薪が小さく爆ぜ、その響きが少女を現実に引き戻した。

 大儀そうに顔を上げた伯姫マリセタは、満足げな笑みを浮かべると詩人をねぎらった。

「良き演奏でしたわ。ありがとう。もう戻ってもいいわ」

 眠たげに少女は告げ、詩人は一礼をすると退出した。

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