願いのナナカマド(二)
詩人は抱えていた
詩人は袋から厚手の布地を取り出すと、外套の下の我が身に巻きつけた。夜の風と露が、厳しくその身に襲い掛かることは必至であった。
気の抜けない夜の闇が、詩人のもとに音もなく歩み寄っている。
道の途の日暮れは失望の時間。路上の異様さが、一気に開花するのが夜だった。
旅路の中で詩人が見る景色、その多くは
だが、路上は決して美しくはない。
街道沿いの木陰に、行き倒れが隠されるかのように安置されていることも多い。そうした場に遭遇すると、多少の罪悪感を覚えながらも、詩人は死者には必要のないものを頂くこともある。だからこそ、新旧様々な土饅頭を見かけた時、その罪滅ぼしとばかりに詩人は祈りを捧げてきた。
路上は無念に倒れた死者の領域でもある。特に岐路は異界と接する特異点とされる。だからこそ岐路には石柱碑などの魔術的な封印が施され、また処刑された者が埋められることも多かった。岐路に立つとき、詩人の表情には畏敬と緊張が浮かんだことであろう。
夜の路上は、そうした岐路などから溢れ出た異様が充満し、不気味な魔の領域となる。黒く覆われた世界を、路上の人たちは曙光が顔を出すその時まで耐えねばならない。怪異だけではない。夜盗などの害悪や獣に襲われる恐怖や疑心暗鬼、心細さや孤独感......夜に耐える者たちを苛ませるものは数多く、支えとなるものは少ない。
詩人は自らの心を落ち着かせるかのように、革袋を取り出すと中の水を口に含んだ。
日の残光が今まさに消えようとしていた。先刻まで陽光を浴びて熱を帯びていた世界を風が鎮め、浮かぶ月は雲間に消えた。先刻までは鋭利であった今宵の月光は、今や蝋燭のように頼りなく、星々は退屈そうに瞬きはじめていた。
天上の景色は穏やかだ。だが地上では、刻一刻と不気味さがその色を強めていた。
そんな夜の世界に、小さな火が焚かれた。
ゆらめく小さなあかりが詩人の顔を照らす。それは詩人の心にほんの少しの安心感をもたらし、晩秋の冷涼な空気に曝された身体を暖めた。
その頼りないあかりを、そしてそんなちっぽけなものに頼らざるを得ない人間の営為を、月星は天の極みから見下ろし、冷めた光を浴びせかけていた。
それでも道の途の小さな炎は、夜の不気味さを少しだけ払った。
躊躇いがちな炎を眺めながら膝を組み、詩人はゆらめくあかりの中にひと月ほど前のことを思い出していた。
※ ※ ※
名もしれない辺鄙な農村。
そこで詩人は、一人の少女と出会った。
村はずれの丘。大きな樫の木のそばで、彼女は編み籠を手に羊番や村の幼児たちの子守りをしていた。針仕事もしていたらしく、編み籠には縫いかけの布地が収まっていた。
夕刻。迫る宵闇に、陽の光がわずかばかりの抵抗をみせていた。少女はハキハキとした大きな声で、村の子どもたちの名前を一人ずつ呼んでは家路につくよう促していた。少女に応える子どもたちの声から、彼女の名がミレーユであることがわかった。少女たちは、追い立てた羊を一箇所に集めるとそれを率いて村へと戻っていった。
彼女たちは詩人には気づかなかった。詩人は日没までに村にたどり着くことができず、入村の許可を得ることができなかった。詩人は路上の掟に従い、道の端にその夜の寝床を探していた。集落を目の前に野宿せざるを得ない状況に落胆していたが、人家に近いことに詩人は安堵していた。
生きる糧を得るためにも、入村を焦ってはいけなかった。漂泊の者に向けられる定住民の眼差し、そこに含まれる不信感を払拭し受け入れてもらうためには、掟には従わねばならなかった。
翌日、村祭を挟む数日間の逗留許可を取り付けた詩人の存在を、村長の娘であったミレーユは知ることとなった。はじめは他所者に対する訝しげな眼差しで詩人を見ていた少女であったが、二日も経つと瞳から不信感は消え去っていた。
少女にとっては、初めて見る詩人の類いだったのかもしれない。少女とて村に入っては通り過ぎていく旅芸人や
少女は詩人の佇まいや醸し出す雰囲気に洗練された何かを感じたのであろう。詩人は雑多な路上の人々とは異なり、貴顕の前に出ることも多かった。そこで身に着けた立ち居振る舞いは、寒村に暮らす少女が初めて触れるものであっただろう。
そんな詩人に少女が憧憬を抱くまでに時間はかからなかった。少女に請われ、詩人は丘までの道を幾度か共にし、少女が牧羊と針の仕事をこなす間のおしゃべりにつきあわされた。
まるで奇跡を見つめるような眼差しで少女は詩人を見た。少女の眼差しには、漂泊に生きる詩人への羨望があった。矢継ぎ早に繰り出される少女の問いかけ。それに応じる詩人の言葉に、彼女は熱心に耳を傾けた。
自分の知り得る語彙を駆使して詩人を賞賛する彼女に対し、詩人は軽く謙遜しながら応えた。詩人がもう少しだけ年齢を重ねた人間であったなら、もっと気の利いたことを言えたかもしれないが、少女は自分にかけられた言葉の一つ一つに満足であったようだ。
詩人は自らの知る楽曲を奏で、少女からはこの地に伝わる伝説や俗謡を仕入れた。
少しだけ
「まぁ、こいつには特に手を焼いたからね」
そんな軽口を付け加えるた詩人に対して、少女もまた下手な冗談を返した。
「女の子を扱うみたいに言うのね。さぞや嫌われていたことでしょうね」
深まりゆく秋の丘。降り注ぐ木漏れ日と樹葉の中、詩人は少女の話に付き合い続けた。
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