或る花の旅路 ─ 彼女たちの遍歴 ─

舞香峰るね

序章

願いのナナカマド(一)

 道は地平の彼方で霞み、果て無く続いていくかのような錯覚を行く者たちにもたらした。

 それは村や町を頼りなくも結ぶ。そうした人の住む領域は孤島のようなものだ。その閉ざされた小さな世界を、外界へと繋ぐものが道に他ならない。

 道は延々と網の目のように地上を覆う。古代の遺産である石畳の公路から農道や獣道に至るまで、色々な道を人は踏みしめた。


 様々な者たちが、道を往来する。行商人、巡礼、ぎ師や鋳掛屋いかけやなどの職人、村や町を巡り日用の糧を得る多くの放浪の徒が路上にいた。

 そして彼もまた路上のに生きる一人だった。

 吟遊詩人と呼ばれる類の者。日々の多くを路上に過ごし、町や村を渡り歩く。そして訪れた地の祝祭などにおいて、当地の顔役や領主たちに雇われては楽を奏でることを生業なりわいとしていた。

 祭に恵まれない時は路上や街の一隅いちぐうで音を奏で、詩にのせて世情を伝えては日々の糧を得ていた。またうまく取り込めたとしたら、領主の城塞や王侯の宮廷に逗留し貴顕たちを楽しませた。時に尼僧院に潜り込んでは若き尼僧の僧衣の中の、隠された情欲を密かに充すこともあったであろう。

 詩人は右の腕に竪琴リラを抱え、荷の入った袋と擦弦楽器フィドルを背負っている。若いながらも、かなり使い込んで趣を醸し出しているその竪琴リラを見れば、この青年の路上の軌跡を読み解くことができるだろうか。

 その中には農村の娘との一夜もあったであろうし、宮廷の女との浮名も含まれていることだろう。この青年が隠すようにつけている分不相応な装身具の類は、そうした高貴な女たちからの贈り物であろうか。

 晩秋の寒風が吹きすさび、生気の抜けた木の葉が舞い、そして詩人の髪が浮かび上がる。隠された耳が顕になると、そこには瀟洒な石が輝きを放っていた。そして彼は、その石の輝きに打ち消されることのない秀麗な顔立ちをしていた。


 詩人は旅路を急ぐ。だが集落は遠い。日のあるうちに、野営に適した場所を見つけ出さねばならなかった。

 多くの人や物が往来する路上は、王権や在地の諸侯権、神殿や僧院などの保護下にある。そのため、本来的に路上は安全なところといえる。

 しかし、実際の路上には多くの危険が内在していた。

 夜盗、疎外者、怪しげな占い師や詐欺師に騎士崩れのごろつき。そのような路上の生きた災厄に対して、領主たちは通行者や物流を守るために法を整備し、即決裁判を開く。しかし、法の目は絶えずくぐり抜けられ、路上には時として悪意が渦巻く。そのため彼ら路上の者たちは、自分自身でその身を守らなければならなかった。詩人の腰に下げられた細身の剣を見れば、彼もまたその手の災厄に用心していることが伺えた。

 路上の危険。それは往来する者たちの喧噪に満ちた大街道でも、薄暗い細道でも変わらない。その中にあって、わずかな救いは僧院や神殿が設ける救護所や宿泊所であった。そのため、わざわざ迂回路をとってまでも、救護所のある道を選んでゆく旅人や巡礼も多い。だが、この詩人の行く先にはそうした救護所はない。

 だからこそ、詩人は先を急いで宿営に適した場所を探していた。


 危険は他にもあった。

 壊れた橋、潰えた道といった悪路に加え、落石や獣の存在など多くの障害が道行く者たちを悩ませた。また道標や目印の不備は、路上の人々を困難に陥れた。

 この詩人もまた岐路に立ち、右か左か、はたまた真ん中かと、幾度となく選択を迫られたであろう。それは、そのまま彼の運命を決しかねない選択であった。

 だが、いくら危険ではあっても、人は道を利用せざるを得ない。だからこそ、道は金を産む。道はあるところでは川とぶつかった。そうした水の上を通すベく架けられた橋では、通行税が課された。金銭が発生する以上、権利者は安全護送に努め利用者を増やそうとする。そうした利権を巡って、権利者である僧院や領主たちは時に争いも起こしたし、細かい取り決めや契約も多数存在した。

 美しき路上の景色の中に、醜悪なる人の営みが折に触れて顔を出していることを、詩人もまた感じたことであろう。


 道を行く詩人の目の前に、小さな川とそこに架かる橋があった。その欄干もない狭い橋の上で、一台の荷馬車が通行に難儀していた。やれやれと思いながらも、その轍が橋からずり落ちないように詩人は手を貸してやった。

 それは旅に暮らす遊民ツィガーヌの馬車であった。

 徒歩の道ゆきは時に詩人を疲労させる。荷馬車の一行と出会えたのは僥倖ぎょうこうであった。力を貸した代償に、詩人は同乗を交渉した。道幅に合わせて時に車列を組み、時に並進する荷馬車の群と出会うことがあれば、こうして詩人は便乗を願い出た。金品の紛失に気を配りながらも、旅芸人一座や遊民ツィガーヌとの同行は、詩人に安心感をもたらした。

 路上の危険に対して、数は力だった。だからこそ荷馬車に同乗させてもらった時には、詩人も漠々ばくばくと路上を眺めることができた。


 その漂泊生活の中で、詩人は幾多の道を歩み、様々な景色を見たことだろう。

 一面に広がる耕地を切り裂く道。仄かな灯りで化粧される、森に抱かれた道。寒風にさらされて草木さえもまばらな岩山の合間を縫うように進む道。

 街道沿いに植えられた樹木は土地ごとにその様相が変わる。白樺、トチノキ《マロニエ》、ナナカマド、グミ......その土地ごとに様々な樹木が目に飛び込んできては去っていった。

 詩人の乗る荷馬車は、落葉してその枝ぶりが顕になった木々に切り取られ、落ち葉が降り積もる街道を行く。だが、荷台の上で安穏に身をゆだねられる時間は短い。詩人と荷馬車は目的地を異にしていた。

 荷車から降りると、詩人は再び自らの足で歩み始めた。しばらく行くと道幅が広がり、馬車が離合し往来の人々が座して休息をとることのできる「道の耳」と呼ばれる場所に至った。そうした場所では、気候のよい時期であれば降り注ぐ木漏れ日の中で楽を奏で、道ゆく人々の心を慰めつつ路銀を手にした。

 とはいえそれは、宮廷や宿場町での稼ぎには遠く及びはしなかったし、今この秋の夕暮れ時の冷たい風の中では、休憩をとっている者も皆無であった。

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