第五章 京都禍乱①

二〇〇七年 七月十五日 日曜日 午前九時三十分


 目を開けると一番に見えるのは真っ白な天井。起き上がって見渡しても白だけが続く世界だけ。私が眠っていたベッド以外は簡素な丸椅子しか置かれていない空間には私、十条比佐奈(とうじょうひさな)しかいない。

 私は生まれてこの方、この部屋と部屋を出たいくつかの施設しか出入りと移動を許されていない。私以外の大人たちが言うには、私は生まれてすぐ大きな病にかかったのだそうだ。しかも16になった今でも、その病の影響は強く毎日のメディカルチェックと外出禁止が絶対となっている。

 嘘みたいな話だが本当のこと。ちなみに私は生みの親の顔を見たことがない。声はおろか親という知識を得たのも絵本か人づてで知ったくらいだ。


『比佐奈、おはよう』


 天井に備え付けられているスピーカーから聞こえるのは私の体調管理を務めてくれている女医、緋凪(ひなぎ)先生だ。私の唯一の話し相手であり、親代わりと言っても過言ではない。


「おはよう、先生」

『起きてすぐで申し訳ないけど、そのままセクター1に向かうわ。私もすぐに迎えに行くから5分ほど時間をちょうだい』

「……いつも思うけど、先生は熱心だね」

『私の目的あなたの身体保護と経過観察よ。先生だからね』


 もう何度繰り返したかわからないお互いの存在確認。でもこれがあるから私は人でいられる気がする。先生がいなければ私はどこかの段階で気が狂っていたに違いない。そう思えるほど、私のいる場所は異常だった。


「わかった。いつもの検査服に着替える」

『よろしく頼むわ』


 スピーカーの電源が落ち、私はベッドから降りる。丸椅子の座席部分には昨日のうちに先生からもらっていた検査服が置かれている。こちらも純白で透明のビニール袋に丁寧に織り込まれている。


「私、これしか着たことないんだ」


 気づかされる。私はどんなに取り繕っても何もないに等しいのだと。まるでこの部屋や検査服の白のように。


『そんなことはあるまい』


 ふいに、私の中で私じゃないもう一人の声が響く。それは幽霊でも私が作りだしたもう一人の自分などという曖昧な存在でもない。


『お前は一度、この服以外に別の服を着ておったぞ』

「……勝手に話さないでって言ったじゃない姫」


 たまに話しかけてくるおしゃべりな誰かを私は「姫」と呼んでいる。理由は彼女の話し方から醸し出される気品と荘厳さである。世が世なら一国の姫君にでもなれそうな雰囲気が声だけでわからされてしまうのだ。

 ただ姫の声は私にだけしか聞こえないようで、先生は「ほかの人には絶対に言わないように」と釘を刺されている。突然彼女の声を意識で来たときは本当に驚いたものだ。幽霊が話しかけて来たのかと思って夜も眠れなかったのだから。


『儂は儂のしたいようにする。それは主であっても例外ではないのだぞヒサナ』

「そんなぁ。いつも勝手に頭の中で話される身にもなってよ」

『そんなものは知らん。それより先の服の話じゃ』


 傲慢を字でいく性格はうらやましく思う半面、こうはならないでおこうという絶妙なバランスを生み出している。

 何故彼女の声が突然聞こえるようになったのか、どうして私にだけしか聞こえないのか、先生にすらわからない状況は10年以上続いており、10年も経てば付き合い方も嫌でもわかってしまう。彼女の好む関係性を掴むのに数年を要したが、今となっては平然と思考会話を行える程度には驚かなくなった。


『主は一度だけ今の検査服以外に可愛らしい服を着とったぞ』

「ううん、でも記憶にないなぁ」

『無理もない。主が5つの時じゃったからな』


 確かに5歳の記憶は私にはない。それに10年以上前の記憶を正確に覚えていれば、それは何かの能力の一種だろう。


「そんな昔のこと覚えてないよ」

『なんじゃ。人の子は10年足らずの記憶も保持できんのか。それはまた面倒な』

「10年分の記憶全部覚えてたら脳みそパンクしちゃいます」


 ビニールを破り、検査服を取り出すと、すでに着ている古くなった検査服を脱ぎ棄て新たな服に袖を通す。


「叶うなら、もっと他の服も着てみたいよ」

『そんな願いで良いのか?』

「そんなって、私には十分すぎる」

『違う、主の願いは別にあるだろう?』


 姫の一番苦手なところはここだ。彼女は私の望みや願望を言い当てることに酷く長けている。それは彼女の前では嘘はつけないということ。


『主の願いはこの施設からの脱出だろう』

「脱出って、それじゃあ私囚人みたいじゃない?」

『だが主は薄々気づいておるだろう。自分はどうやら病になどかかっていない

ということを』


 10年以上施設で暮らしているのだ。自分がどんな理由で収まっているのか、考えない人間はいないはずだ。少なくとも私は自分がどんな病にかかっているのか詳しく知る機会が大いにあった。先生に直接聞き、自分で調べようともした。だが一貫して私の病は「原因不明」とだけ伝えてきた。緋凪先生でさえ「原因不明」で片づけている。何かあると考えざるを得ない。


「そりゃこんなところにずっといればね。別に体が悪くなったわけでもないのに、なんで毎日経過観察なんかするのかなって思わない日はないよ」

『理由に心当たりがある、と言ったらどうする?』

「姫、何か知ってるの?」

『儂だ』


 真相を究明する探偵のように姫は語るが、私の興味はそこで完全に失せた。


『おい比佐奈。何故そこで一気にテンションが下がるんじゃ? おかしいとは思わんのか? そもそも儂なんて存在が主にだけ話しかける理由。主にだけしか聞こえない原因。それは』

「何かあった。それだけは理解できる。でも私は姫に助けてもらったことはあっても、酷い目に遭ったことはない」

『助ける? 儂がか?』


 酷く混乱している姫に私は答えを提示する。


「私がこんな真っ白な施設で缶詰にされている時、姫だけが私に話しかけてくれた。姫だけが私を人として見てくれた。それだけでいいよ」

『……お人よしじゃな主は。いつか後悔するぞ』

「まあ、もし後悔する時が来たら、姫になんとかしてもらう」

『ほう、具体的には?』

「そうだね、とりあえず」


 室内で唯一の出入り口の前に立ち、スライド式の自動ドアの開錠を確認してから答えた。


「この施設、全部ぶっ壊してもらうかな」

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