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 天国というものがもしあるのなら、それは今俺の視界に入る全ての光景のことを言うのかもしれない。

 広がる大地を埋め尽くさんばかりの花畑。光り輝く蒼天。鼻腔をくすぐるのは数多ある甘い花の香り。心を安らかにするのは花だけでなく、美しく舞う蝶や小鳥たちの歌声。俺以外に存在する生命は小鳥や蝶以外にもリス、ウサギなどそのどれもが争いという概念が抜け落ちたかのような温厚な生物ばかりだった。


「凄まじいな」


 俺のすぐそばで仰向けになって穏やかな寝息を立てているのは先の戦闘で瞳をかばって重傷を負った津雲上琉花。だが今の彼女には傷一つ付いていない。

彼女の死に至る傷は全て『夢』に描き変えられた。事象改変という神に等しい術式が津雲上琉花には施された。

 彼女を救ったのはこの世界を創りだした少女、夕草瞳。美しい花畑に似合う純白のワンピースに身を包み、目を閉じたまま瞳は佇んでいる。

 彼女は今夢を見ている。だがそれは正確な物言いではない。目の前に広がる楽園は彼女の死と絶望が重なった時にだけ起こる時限式の術式。彼女が本当の意味で魔術士を目指し、最初の一歩を踏み出した時に起動するよう彼女の父親が細工した娘への贈り物(のろい)。

 つまり、これが本当の心界圏現。

 すなわち、先の人喰い鬼とは規格外の心界。


「これがお前の本領か?」

『すこしちがう』


 眠ったままの少女は、それでも自身の二本の足でしっかりと立っている。俺の受け答えをし、この世界を創り上げたのだ。


『このせかいはいまだみかんせい。ほんとうのかんせいは、こんなものではない』


 もし彼女の言う通り、これが完成でないなら彼女の目指す先はそれ以上ということになる。


「真理に、近付けるものなのか?」

『もとよりそれがわたし、そしてわたしのちちのひがん』

「とはいえ今後のためにいろいろと調整は必要だな。また勝手に心界を開かれても洒落にならん」


 半分独り言のような物言いを無視し、彼女は自身の指さす方向、その先の存在に俺は酷く肩を落としてしまった。


「そうか、あれも吞み込まれたんだったな」


 この世界にそぐわない存在は直立したまま瞼を閉じていた一匹の鬼。それはやがてその双眸を開き、不思議そうに辺りを見渡す。無理もない。陽の下で活動出来ない吸血鬼が、何の痛みも感じないのだ。何かあると思うのが普通だ。


「どうした。鳩が豆鉄砲を食ったような顔して。いや、ここじゃ吸血鬼が銀の弾丸を食らったような顔をして、か」


 投げかけると、信じられないモノを見るような目で、鬼は辺りを見渡す。


「おいおい、何驚いてんだ。お前がこいつを起こしたんだろうが」

「何故だ、何故生きてる?」


 あまりにも場違いな質問に俺は呆れてしまう。


「勘弁してくれ。論点がずれてる上に、お前だって不死の怪物だろう? 死に疎いお前が生死を語るな」

「そこの娘もさっきの女術士も私が殺したはずだ。なのに何故生きて、そもそもお前は一体」


 そこで何かに気付いたのか、鬼の言葉が止まった。


「……お前、いやそこの女も、一体何だ?」

「それこそお前には関係のないことだよ屍」


 鬼は俺との間合いを一気に詰め、その早すぎる速度でもって右足から繰り出される回し蹴りを見舞わせようとした。

 だがその願い(ゆめ)は叶わない。

 蹴りが当たる直前、右足は風に吹かれた綿毛のように静かに消えて失せた。


「ヴヴぅおおおお!」

「言っとくが、俺は何もしちゃいないぞ」


 お互いの間合いは三メートルくらいだったが、その距離を詰め、今は初めの倍ほどの距離を取っていた。俺のことを警戒してのことだろうが、そんなことに意味はない。


「この世界にとっての異物であるお前が、戦闘の意思ありと判断された結果だ。体の中に入った菌を殺す細胞に駆逐されるみたいな感じだ、分かるか?」

「異物? 細菌? 貴様一体何を」


 突然の事態に状況の吞み込めないまま、次は鬼の右腕が何の前触れもなく花畑に落下した。落ちた腕はそのまま大地に溶け込み、数多の大輪を咲かせる。


「ああ、ああ! なんなんだこれはぁ! 痛みがないのに腕も足も勝手に消えやがる!」

「騒ぐな、みっともねえ。ただお前が『攻撃しよう』と考えたから、この心界が察知して自動(オート)でお前の戦闘行動を止めただけだ。腕を落とすってやり方でな」


 瞼を閉じたまま澄ました顔をする少女とは裏腹に、鬼は右腕と右足を失った事実に恐怖する。その表情は先までのような余裕が一切感じられない。


「心象風景の強制共有。お前も使ってた蛇が噛み付くあれと一緒だ」

「ふざけるな、そんなものとは訳が違う。私の心界が食われた時点で、これは私のそれとは比較にならない! しかも他者の意思にまで反映する心界など聞いたことがない!」


 阿頼耶識というものがある。一切を生み出す可能力を有した根本の心。果てしなく遠い過去から永遠の未来に向かって流れて行く太源。全ての霊長が深層意識よりも深い底に決定づけられた絶対命令の総称。ユウクサの魔術は阿頼耶識に自分たちの夢の魔術を繋げて、使用者の意識(ゆめ)を強制する。意識を持つ全ての存在が彼女の心界の標的となり、夢の魔術を扱うユウクサだけが扱える禁忌中の禁忌。

 魔導連が恐れ全ての魔術士の到達点の一つ。


『無幻なる夢限の庭園(アルカディア)。それがこのにわのな』


 夕草景は心界創造の基盤となる阿頼耶識との経路(パス)を繋ぎ、夢の魔術との親和性を高めたが奴自身が扱えるような術式を組めなかった。もし奴が扱っていれば人類誕生から今に至るまでの全人類分の過去と現在(いま)、未来の意識までを繋げる結果になっていた。そんなことを一瞬でもすれば脳に負荷がかかり過ぎて廃人になってしまう。

 だが瞳は夢を『想像』し『創造』する才能に長け、夢幻を現実にしてしまえるだけの体質を獲得していた。無限に等しい人類の無意識を彼女は受け止め、処理出来る程の機能を有していたのだ。だがそれだけに特化しているがゆえに、戦闘面に費やせるほどの魔術を会得出来なかった。


「楽園で争おうとする存在全ての意思を感知し、防衛本能としてこの世界の一部にするんだ。瞳は人一倍争いが嫌いだからな」

「水よ、蛟よ!」


 俺に防御の時間を与えないように、最速の詠唱で巨大な水の弾丸と大蛇をけしかけた。通常の魔術士なら、一言の詠唱で成人男性を丸のみに出来る大きさの水球や蛇を形成し、襲わせるのは至難の業だ。戦闘になればまず間違いなく魔力不足で自滅する。しかし吸血鬼(デモンズ)というだけあって、自身で保有出来る魔力量が尋常ではない。形成速度も術の威力も桁違いだ。並みの魔術士相手なら、戦いにすらならなかっただろう。

 しかし放った弾丸も大蛇も俺に届く前に霧散し、大地に着けていた両足が色とりどりの花に変化した。突然の両脚消失に胴体はそのまま自由落下を余儀なくされ、鬼は花畑に着地する。


「止めろ。お前はこの庭に引きずり込まれた時点で詰んでる」


 教会の永遠の仇敵、人類の天敵たる吸血鬼が、為す術もなく芋虫のように地面で蠢く様は哀れとしか言いようがない。片腕片足を失くしても死ぬことすらなく生き続けている状態は、本人にとって屈辱以外の何物でもないだろう。

 俺は鬼の眼前まで近付く。失った腕と足からは今でも切り口より血の代わりに砂が流れ落ちている。砂は大地に落ちてこの世界に還る。反撃の意思すら見せないのは、鬼がこれ以上の抵抗は無意味だと悟ったためか。


「自業自得だな。この娘に近付いたからだ」

「……あの、娘は一体」

「知ったところでお前の結末は変わらん」


 最後まで往生際の悪い鬼だ。今さらユウクサを知ってもどうすることも出来ないというのに。


「吸血鬼は人間を殺すために生まれた装置みたいなものだから、思わない訳にはいかないんだろうが、今回ばかりは同情するよ」


 死を待つだけの鬼はそれでも深く刻み込まれたような笑みを浮かべる。どうやら最後に一矢報いるつもりらしい。だが彼女を傷付けることは無理だし、何より全ての戦闘行為が禁止されているこの庭の中で、もうこの鬼が出来ることはないはずだ。

 そんな俺の予想は見事に外れる。鬼は己が腕と足を一瞬で再生させ、あろうことか俺の首筋に牙を突き立てた。


「お前はこの世界で生きている。何かネタがあるんだろう。ならお前を吸い、お前自身を私の一部にする。せいぜい後悔しながら死ぬんだな」


 そう、あろうことかこの俺に牙を突き立てたのだ。


「これは、私の行為は殺しではなく食事だ。人間の血を吸い栄養補給、を」


 勘違いしていた。どんなに人を捨てた魔性の存在でも考える力くらいはまだあるものだと。自身の力を過信せず、相手の力量を測れるくらいの頭はあるものだと。

 どうやらこの考えは、大きく改めなければならないようだ。


「なるほど。この世界では瞳の創る夢の規則が絶対だ。吸血鬼ですら問答無用で排除されるこの心界で吸血行為をした。それだけでも消されかねないのに、根底にあるのが食事なら規則外の行為として判定が定まらない。しかも瞳じゃなくて俺を狙った。規則の抜け穴を突いた良い苦し紛れの一撃だ」


 鬼は驚きの余り、突き立てたはずの自分の牙に触れる。だが牙どころか、それの歯は一本たりとも存在していなかった。


「ただ、どっちにしてもやる相手を間違えたな」


 鬼が何事かを言っているが、歯を急に全部失くしたために何を言っているのか聞こえない。


「俺の身体に触れたんだ。そうなるのは当然」


 正当防衛とはいえ、戦闘行為を行った俺も彼女の心界の敵として認知される可能性はあった。だが今もなお俺を師匠だと理解しているようで排斥対象からは除外されている。俺がこうして魔法を扱えていることが何よりの証拠だ。


「最期だ。良いこと教えてやる。吸血鬼は陽の光や聖別された武具以外にも殺される要因が存在する。なんだか分かるか」


 尋ねても鬼は呼吸音しか出せない。歯の再生が出来なくて困っているのだろう。腕も足も一瞬で再生させたのだ。歯くらい自身の骨を寄せ集めて再生出来るはずなのにそれが出来ない。

 当たり前だ。何故なら俺が存在ごと『消し』てやったのだから。


「高威力を備えた魔術士の術も、お前ら吸血鬼の命に届くんだよ。俺の場合は吸血鬼の再生力すら消し去る本当の『消滅』だ」


 顔面蒼白。鬼は自身の顔が、肌が、全ての色が白になっていくことにも気付かずにさらなる驚愕を受けることとなる。


「魔導師『0』って言えば分かるか? それが俺の魔法だ」


 最初での最後の名乗りを終え、俺は名も知らなくなった哀れな何かにこう告げる。


「じゃあな哀れな肉塊」


 その驚愕は、一瞬のうちに消えてなくなった。

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