第三章 魔は蒼き夢の中で眠る④
心界(しんかい)。それは霊長の誰もが持つ心の内の世界を意味する。心象風景とも言われる心の世界を魔術士はこの現世に顕現させること出来る。
神代。神と人とが同じ場所で暮らしていた時代では、神と同一でなくとも、御業に近い技法、現代でいう魔法を人の数だけ扱えていたと聞く。その中には心界を扱う術(わざ)も存在していたそうだ。
心界圏現(しんかいけんげん)。心界を開き、自身のみならず自分以外の存在も心界に引きずり込んで心界創造者独自の規則(ルール)を設定し、巻き込んだ相手を自分専用の規則で縛る超常の術式。一度心界に引き込まれれば解術しない限り脱出は不可能。戦闘のみならず、魔術士としての格も相当に高い術式だ。
だがそれだけの代償(リスク)もある。心界を今の世界に出現させることは膨大な魔力を必要とする。理由はすでにある世界に偽りの世界を無理やり押し込んで現出させているからだ。神代では界全体が濃密な魔力で満たされていたため、長時間運用も可能だったが現代では空気中に含まれる魔力濃度は限りなく薄い。よって持続時間も短く通常の魔術士は扱うことすら出来ない。吸血鬼の能力を付与した私でさえも完全な心界を創ることが出来ず、規則も心界としての完成度もかなり低い。だが疑似的な心界でもその性能は十分に発揮出来る。
「もう、間もなく」
夕草瞳が山の上で籠っていることは知っている。今回の殺人を繰り返す中で、同時進行で市内に潜り込ませた私の使い魔たる無数の蛟たちは私に逐一情報を送ってくれている。先ほどあの娘の出立と彼女の従者と思われる女といけ好かない神父がやり合っているのを蛟越しで確認している。状況としては最高だ。
さらに心界圏現時に発生する膨大な魔力消費をあの娘にも分かるくらいの波として、この街一体に起こした。魔術に心得のあるものなら言うに及ばず、そうでなくとも魔力持ちの家畜でも感覚で理解出来る程の強力な波動。教会の連中もじきにやってくるだろうが、そうであっても問題はない。
疑似心界(ぎじしんかい)・蛟貴族(ヴェノム・ロード)
血のような赤黒い空を起点に、大地全てが無数の白蛇で埋め尽くされた心界はすでに生贄として用意した餓鬼どもを食らい始めている。
「……来たな」
心界直上より何者かの侵入を察知する。目にも止まらぬ速さで光聖高校校庭に着陸したのは抹殺対象の夕草瞳だ。予想通りの行動をしてくれるので嬉しさよりも呆気なさで気落ちしかけるが、ようやく長い仕事が終わることを喜ぶべきだと教室から一気に校門まで跳躍する。
「やあ。あの夜以来だ、夕草瞳」
お互いの距離は約五メートル。これから死ぬ少女にせめてもの笑顔を向けるも、彼女は私に憎しみを込めた目と言葉をぶつける。
「反吐が出るわね。人の学校で舐めた真似してくれて。なんなのよこれ?」
足元に蔓延る白蛇を蹴り上げながら娘は怒るが、私は彼女の怒りになど気にする余裕がなかった。
「おいおい、まさか心界を知らないのか? 確かによく見られるものじゃあないが、知識としても知らないとは。今時の魔術士というのはそんなものなのか?」
彼女の年頃にはある程度の禁忌とされる魔術は頭に叩き込まれたものだ。例え少女の両親が早死にしていたとしても、何も知らないにも程がある。
だが本当に心界について何も知らないのなら、今の彼女の状態が少し妙だった。
「ご高説は結構。どうせろくでもない術式なんでしょ? だから全身に魔力の膜を張ってるのよ。ここに来るまでに従者から色々聞いたわ。どうせ着地の時は全身に魔力を漲らせておかないといけないから、そのままにしてたけどこれはそのままにしておいた方が良さそうね」
少女の言葉に納得した。もし本当に何も知らずに生身で私の心界に入っていたなら、確実に蛇どもに噛まれているはずだからだ。だが今もなお蛇どもは娘の肌に触れることも出来ないでいる。
私の心界に付与された規則は二つ。一つは心界内の生命は確実に蛇たちに噛まれる。その全てが毒蛇であり、神経系の毒の効果により動くことも叶わなくなる。もう一つが毒蛇に噛まれた対象の流血は決して止められず、流れ出る血の全ては私に還元される。魔力消費を抑える効果としてはこれ以上のものはない。私がこの学校に学生たちを集めたのもそれが理由だ。どこの戦争でも一番に確保しなければならないのは食料だから。
「君の従者は君の到着までに必要最低限の情報を与えた、ということだな。でなければ君は即刻この世界で何も出来ずに死んでいた」
「それは良いこと聞いたわ。この気持ちの悪い世界もそう長くは続かないって聞いたし、あなたがへばるまで私は耐えればいい」
心界に引きずり込まれても対策はいくつかある。一つは今夕草瞳がしているような魔力による防衛。全身を覆うほどの魔力による防御能力があれば、いかなる規則(ルール)が心界に付与されていたとしてもすぐに死ぬことはない。心界は維持に莫大な魔力を消費する。私の心界の規則で血は常時吸い続けてはいるが、攻めきれなければ魔力切れで心界は強制的に解け、私でも目の前の少女に掃討されるだろう。
もう一つは心界そのもの、もしくは術者の殲滅。後は内外どちらかからの物理的、魔力的心界の破壊だろう。穴が一つ出来た程度ならすぐに魔力で修復出来るが、複数で大規模な攻撃を受ければその限りではない。ただし心界内でその選択はほぼ自殺行為だ。
何故なら『心界内の心界圏現者の術は必中』なのだから。
「それではあなたの魔力量と私の魔力量、どちらが上か試してみますか」
こちらは心界の維持に五分が限界だ。ただし目の前の娘を八つ裂きにするのに一分もいらない。
「禁呪・八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」
禁呪。魔術士の家系で三代以上続き、その中で最も真理に近付いたとされる術式。神秘印章時以外では継承者にしか見せないという一子相伝の奥義。家の人間以外に見せること、それすなわち必殺であるということ。
心界内に蠢く全ての白蛇が丸太以上の大きさに巨大化。鎌首をもたげて得物を睨む姿は大波を思わせる。膨大な数の大白蛇たちが一人の娘を殺すために一斉に畳みかける。悲鳴すら押し潰す白蛇たちの蠢きは大地をも飲み込む。
たった十秒の攻防。もはや戦いとも呼べない一方的な蹂躙。残ったのは小さな少女の横たわる姿だけ。
「呆気ない」
無理もない。疑似的とはいえ心界に引きずり込んでの魔術戦。プロボクサーが幼稚園児相手に本気の喧嘩をするようなものだ。
「……あ、あ」
素直に感心した。どうやらまだ息があるようだ。心界まで見せ、禁秘術まで使ってなお生きているとは。もちろん手を抜いた訳ではない。どうやら前回の戦いでもそうだが、この娘には戦いの中で発揮される幸運があるようだ。
「もう、息をするのもやっとでしょう」
全身の骨は砕かれ、両手両足はあらぬ方向に曲がってしまっている。それでも生きているのだから今は関心を通り越して哀れにすら思える。
死にかけの少女に最期の一撃を加えるため、私は彼女との距離を詰める。
「正直に言うとね、君の前に殺した少女たちに思うところなんて一つだってなかったんだ」
私はつい、口にしていた。それは哀れな骸になろうとしている少女に対する敬意か、それともただ呆気なく死んでいく弱い魔術士に対する軽蔑か。
「今回の殺しだけじゃない。これまで殺してきた家畜たちには一切の繋がりはない。だが低俗で矮小な者たちにも唯一輝ける瞬間というものがある。それは家畜たちが死ぬ時に抱く恐怖、慟哭さ」
歌うように、私は悠然と死体になろうとしている少女に近付いていく。
「彼女たちの悲痛な叫びは私の心を満たし、その柔い首を切り落とした時に噴き出す鮮血はこの世の何よりも美しい。彼女たちが流す血には僅かですか最期の感情が籠っており、その感情ごと飲み下す時などはもう言葉には出来ない。その血を最後まで吸い切った時の充足感と言ったら」
「く、そ」
絞り出すかのように、死にかけの娘は告げる。
「く、そた、れ」
風前の灯。死は免れない状況で、少女が口にしたのは私への罵倒だった。
「……何故私に傷一つ付けられないあなたが、そこまで必死になっていたのか最期までわかりませんでしたが」
右腕に名も知らない学生たちから吸い上げた血液を纏わせ、全長一メートルほどの紅き刃を作り上げる。
「でもまあ、そんなことどうでもいいですよね、死んでしまえば」
横たわる少女に躊躇いなく血の刃を差し込むため、私は右腕を振り上げる。
「ではさようなら」
なんの感慨もなく、私は任務達成を確信しながら右腕を振り下ろした。
刹那。心界を割って入り亡骸同然の少女の前に立つ影が現れる。
「へえ、二番手はあなたか」
教会の粛聖者どもよりも先にやって来たのは先の女術士だった。やはり生きていたようだが、爆発の傷を治さぬままでやって来たことがすぐに分かった。両足両腕には僅かだが火傷の後も見られる。
何より死にかけの娘をかばうために、私の血の刃をその身で受けてしまった。女術士の左肩には私の血の刃が深々と刺さっている。
口から鮮血をまき散らす女術士に、私は口角を上げて話しかける。
「さっきぶりだね。少し遅かったみたいだが」
女術士は魔力を漲らせ、先の戦闘でも見せた八百万の術式を発動させている。だが心界に割って入ったのが大きな過ちだ。どんな生命も私の心界に入ったのなら規則(ルール)に従ってもらわなければならない。ゆえに毒蛇の神経毒からも免れない。目標の少女は全魔力を防御に回していたために毒蛇の噛み付きも届かなかったが、女術士は防御と攻撃を半々で魔力を回していた。ゆえに必中である私の毒蛇の攻撃にも防御が間に合わなかった。
「……やっぱり、心界か」
「ご明察。君は知ってるみたいだね。そこで寝転がってる娘は心界のことなど知りもしなかったが」
彼女は全ての手の内を出している訳ではない。今は肉体強化の魔術を全身に巡らせているだけで反撃の機を窺っている状態だ。先の戦闘で近接戦闘の力の差は歴然だった。八百万の神の一柱をその身で受け止めていながら体に異常が見られない。余程神道との親和性が良いのだろう。鍛え抜かれたであろう肉体と精神、何より魔人とはいえ何の躊躇いもなく魔術を披露する性根。まともに殺し合いを続ければこちらに分があるかどうかは怪しいほど強い。
だがそれは毒を盛られる前の話。今は毒の侵攻を少しでも抑えるため、魔力を全力で漲らせていることだろう。
「先祖の何人かが至ったとか聞いたわ。実物を見んのは初めてやけど」
「不出来で申し訳ない。だが君を殺すほどには役に立っている」
「そやね。こんなんやったら全部あの神父に丸投げにしといたら良かったわ」
女術士は吐き捨てるように言い放つ。
「あんさん吸血鬼(デモンズ)か」
吸血鬼。アラブの民間伝承を起源とした異形の怪物。夜を渡る闇の支配者。永遠を生きる死の鬼。呼び方や姿形は時代によって変わるが、世間一般でも広く伝わっている化け物の代表格だ。彼らの特徴は死ぬことのない不死性。日の出ている間は行動を制限されてしまうが、夜間なら彼らの弱点を突かない限りは、どんな手を施しても死ぬことはない。
私はそんな吸血鬼(デモンズ)に四年前に成った。
「教会があんさんを追ってるって知った時はまさかと思っとったけど、これ見たら信じるしかないわ。さっきの戦闘、手ぇ抜いてたって訳でもなさそうやし」
「吸血鬼(デモンズ)になったとはいえ、リスクは多いんです。日の当たる日中は動けませんし、聖別された武器には気を付けなければならない。魔力も無尽蔵というものでもありませんしね」
「でも血吸ったら、問題も何もないやろ」
「それは、まあ。吸血鬼ですから」
女術士の魔力が徐々に弱まっていく。神経毒が効いてきている。後数分で魔力も寝れなくなる。そうなれば魔力で防御を固めている左肩を血の刃で一気に切り裂ける。
「最期に聞きたい。あなたが私にちょっかいをかけたのはこの娘のためなんでしょうが、何故こんな娘のために命を懸ける?」
薄れゆく意識の中、女術士はか細い声で告げる。
「この子が、私らの希望、やからや」
私は聞くんじゃなかったと後悔した。この女術士が言っているのは、平和の象徴である鳩を愛でるようなもの。鳩単体では何の力もないのに、必死になってあの汚らわしい野鳥を信じる行為は無能としか言えない。
「ならその哀れな希望とともに、死ね」
ささやかな希望を胸に抱いて死ねるのだ。本望だろう。私は最後に人間らしい気持ちを抱きながら女術士に止めを刺した。
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