第三章 魔は蒼き夢の中で眠る③

 薄い雲がいくつか見える程度で、天上の月がしっかりと見える綺麗な夜空の下、取香は館の門扉の前で直立不動を保っていた。彼女が今の態勢を維持してすでに5時間は超えようとしている。その間彼女は微動だにしていない。


「……さて」


 彼女が守護する主は自身の寝室に入ったきり起き上がって来ない。すでに魔人と津雲上姉弟が接敵していることは取香も知っており、もし敵が今の瞳を襲いにやってきた場合は、取香が対処するつもりでいる。


「どうしましょうか」


 津雲上姉弟が魔人と一戦交えてからすでに15分が経過している。ニュース速報では両者が接敵していた住宅の爆発騒ぎ以降の最新情報を取り上げていない。姉弟からも念話や電話での連絡がない以上、取香は現状の判断を自身で下すほかない。


「お嬢様も休まれたままですし、ここはやはり」

「どうもしないでもらおう」


 聞こえたのは重々しくも清廉な男性の声。取香はすぐさま自身の鼻を疑ったが、彼が教会より提供された聖具を使って臭い消しをしていることをすぐに勘付いた。

 粛聖者、トマス・ナサニエルは堂々と瞳の館の正面から現れる。対して取香は殺気を抑え込んで深々とお辞儀をした。


「こんばんは。トマス神父」


 トマスは溜息を吐き、取香に投げかける。


「君のような魔性が、よく私に話しかけられるものだね」

「主より、誰であっても知り合いになった者には挨拶を必ずするように言われておりますので」


 粛聖者は押し黙る。彼が言った魔性が人間の規則(ルール)を語るとは思わなかったからかもしれない。むき出しの殺意を引っ込ませてトマスは深々とお辞儀をする。


「確かに挨拶は重要だな。その点に関してはこちらの落ち度だ。謝罪しよう」

「謝罪は結構。あなたの言う通り」


 取香が見せたのは一瞬の感情の揺らぎ。だがその揺らぎこそが今一人のメイドが抱えている本当の感情だった。


「私は、魔性のモノですから」


 彼女の中に渦巻いていたのは憤怒。今この場に二人が揃ったことで起こるのは血みどろの闘争。それが起こらないのは、お互いに今殺り合うのは得策でないと判断したためだった。


「ところで、君らは今回の魔人についてどこまで知っているのかな?」


 神父の質問にメイドは聞こえないように舌打ちをした。何故なら情報収集能力において、教会が瞳たちを下回る訳がなく、これからトマスが口にする内容は瞳も取香も知らない情報に決まっているからだ。答え合わせにもならない問答はするだけ無駄と判断し、取香はそれでも苛立ちを見せずに「ある程度は」と答え続ける。


「蛟(ミズチ)の魔術士、雨霧一。神道系の術師であり、汚れ仕事を専門にする雨霧家の元後継者候補。しかし彼が神秘印章の儀式を迎えたその日に、一族郎党皆殺しに遭っております。首謀者は雨霧本人だとか」

「それは魔導連の情報かね?」

「そちらも同じ情報を掴んでいるのなら、私がどこから情報を得ているのかなど些末なことでしょう?」


 トマスが念を押して聞いたのは、取香がどこから情報を得たのかを見定めたかったからだ。同じ魔術士であるなら、魔導連から情報を得るのも道理。だからこそ彼女の情報ではそこまでしか知らされていないこともトマスには予想出来ていた。


「君はどうやって魔導連にあの雨霧が拾われたかは知っているのか?」

「そこまでは。そもそもはぐれ魔術士が魔導連に飼われること自体はそれほど珍しいことではありません。何より暗殺を得意とする家の人間なら掃除屋としても便利に」

「では君は、雨霧が魔導連に籍を置いた後のことも知らされていない訳だな?」


 トマスの言い回しに取香は訝しむ。


「何がおっしゃりたいんです?」

「私は粛聖者だからな。討つべき魔性の居所は常に把握している。四年程前か、そこに今回の魔人の名前も入っていたというだけのことだ」


 トマスの言わんとするところを理解し、取香は最悪の事実に気付く。


「そう。奴は魔導連に入った前後で我々の狩るべき魔性、吸血鬼になっていた。お前たちの言葉だと生を貪る悪しき鬼(デモンズ・ブラッド)だったな


 吸血鬼。人の身でありながら人間以上の膂力を持ち、血を吸って同胞を増やし、永遠の時を生きる怪物。お伽噺や空想上の生き物だと思われていた存在は確かにこの世界に存在する。生を貪る悪しき鬼(デモンズ・ブラッド)とも呼ばれる彼らは、唯一の食糧のために人間と相対することとなる。

 彼らが吸血鬼と言われる所以。それは読んで字の如く、血を吸う鬼だからだ。しかも彼らが血を吸うのは人間だけ。地球上の生命の中で彼らの飢えを救うのは人間の生き血だけだった。結果、彼らは人類の天敵となる。

 彼らの始まりは定かではないが、人間の誕生から数百年後にはその存在は書物で確認されている。魔術士の中には吸血鬼になることで不老になり、魔術の研究に没頭する者も少なくない。

 だが魔術を知らない一般人からすれば、吸血鬼は脅威以外の何物でもない。ゆえに人間は吸血鬼という未曽有の危機に対抗するため、吸血鬼のみを殲滅するための組織を設立した。それが後の聖央教会だ。


「奴が昼に行動を起こさない理由もこれで合点がいくだろう。あの魔性共は日中の行動が出来ないからな。どんな手順であんなモノになったのかは知りたくもないが」

「粛聖者、貴様そこまで知っておいて」

「だから止めておけと言ったのだ」

「お嬢様にそこまで話はしていなかったはずだ」

「あの子は人一倍他人を傷付ける者を許さない。相手が吸血鬼(デモンズ)だとしても何か変わったかね?」


 背筋を正し、神父は魔性に問いかける。


「私は彼女の後見人だからな。彼女を見守り、監督する義務がある。だが彼女がそれを望んでいなければ私はそれ以上の干渉は出来ない」

「では今さらなんの」

「私は教会に属する神父」


 トマスと取香の距離は対面で二メートル弱あったが、トマスはその距離を一瞬で詰めた。


「そして魔性の敵だ」


 膝抜き。古武術において予備動作を消す技。足の筋力を使わず前足の膝を脱力させ、重力に従って重心を前方に落とす技術は少ない力で一気に敵の眼前に移動させる。だがトマスの膝抜きは膝の脱力から取香の正面までの移動を、一秒を切る速さで完結させている。よって取香はトマスが瞬間移動したかのような錯覚さえ覚えた。

トマスは抑え込んでいた殺意を一気に解放し、両手に携えた白釘で取香を射殺そうとする。

 対する取香は自らの腕を瞬時に変化させ迎撃に出る。女性の細腕から彼女自身の身体よりも巨大な腕を顕現させ、トマスの不意打ちを防御する。

強大な丸太を思わせる腕を覆うのは闇のような漆黒の体毛。

 巨大な腕で防御した後、取香は全力でトマスごと腕を振るう。圧倒的な運動エネルギーを抑え込めるはずもなく、トマスの身体は紙のように吹き飛ぶ。

一撃目の攻防が終わり、取香は防御した際に負傷した腕を気にすることなく次の攻撃準備に入る。異様に巨大化した腕はさらなる変貌を遂げ、腕の色と同色の闇色の爪を顕現させる。今度こそ先手を獲るため巨大化は両腕にまで至る。


「……あなたの方が余程化物染みてますよ」


 取香は確かに全力でトマスを振り払い、トマスは矢のように森の中を飛んで行った。彼が吹き飛んだ際に出来たへし折れた木々がその証拠だ。しかしトマスは生身の人間であるというのに、一度目の戦闘がなかったかのような軽やかな足取りで館の前まで戻って来た。


「酷く心外だ。私は聖職者。そしてただの人間だ」

「ただの人間は私の一撃を食らって平気な顔で戻ってはこない」

「鍛え方が他とは違うのでね」


 トマスの再びの膝抜き。予備動作を消すということは、確実な先制攻撃を可能にするということに他ならない。手順が分かっているのに初手を取られる現状を理解出来ぬまま、取香は再度腕を使っての防御を試みる。しかも今度は両腕で。

対してトマスは刺突を想定した動きから、急遽白釘を横薙ぎに振るう。取香は体毛に覆われた腕でトマスの白釘を防御したかのように見えた。


「まるで犬の腕だな」

「よくご存じで。あなたのそれは可愛らしい武器ですね。待ち針のようです」

「では待ち針で切られた感想を伺いたい」


 先の刺突とは違い、二度目の白釘によるトマスの斬撃は、取香が痛みを感じるほどのダメージを負っていた。


「人間ではないと言ってくれる方が、安心出来るのですが」

「何度も言おう。私はただの人間だ。先の一撃で私も肋骨も数本持って行かれている」


 腕だけでは足りない。取香はそう判断し、自身にかけた制限を解除することを決めた。腕だけでなく足、身体、顔まで骨格から変貌を開始した。


「肋骨数本でなんとかなっている時点でもう人間ではないと、イッテイル」


 百九十センチ強の身長を持つトマスが見上げるほどの巨体。漆黒よりも黒い毛並みと、四本足で大地に立つ姿は怪獣と言った方が似つかわしい。首は三つあり、唸り声を上げながら垣間見せる凶悪な牙は鋼鉄すらも噛み千切る。鋭い眼光は夜の闇の中で赤く光り、三階建てビルに匹敵する巨躯から滲み出る黒い霧のようなものは、森を腐らせ、周りの生命を悉く蝕んだ。

 異形とも言えるその姿は冥界の番犬、ケルベルスに相違なかった。


「それが、貴様の本性か」


 六つの眼光が一斉にトマスへと注がれる。完全な魔性へと変貌を遂げた彼女の感知能力は人間サイズの時の十倍。美並山の中なら蟻一匹の侵入すら感知する。膂力に関しては人間サイズの時の二十倍。


「これは私が滅するに値する魔性だ」

『お覚悟を』


 次の一手は互いの動き次第。どちらかが動けば戦いは再開される、はずだった。


「……煩いわよ」


 館の出入り口から発せられた声に二人は一瞬気付くのが遅れた。無理もない。二人は自分の命に届きうる存在を目の前にしていたのだ。いきなり現れた少女に意識を向けられるような状況ではなかった。両者はほぼ同時に声のする方へと視線を送る。


「何時だと思ってるのよ、大の大人が二人揃って」

「お嬢様」


 すぐに巨獣の状態から元のメイド姿に戻る取香。彼女が駆け寄ったのは自身の主の身を案じてのことだった。


「お体に問題はございませんか? 本当に夢の中に堕ちたのかと」

「師匠に意識を持ってかれてたの。でも大丈夫。今は動ける」


 瞳が歩き出そうとすると行く手を阻むためにトマスが前に出る。


「止めろ」

「……トマス。あんたの言い分も覚悟も理解してるつもり」

「なら」

「だからここは取香さんにお願いする」


 ほぼ同時。トマスと取香は市内に発生した邪悪な魔力を感知した。トマスは眉間に皺を寄せ、表情から分かるほどの嫌悪をむき出しにする。


「瞳、これ以上私を苛立たせないでくれ。君のこれからの行動次第で私は本当に君の手足を折る」


 瞳は右手に持っていた嘆願書を封筒ごと破く。


「私はあんたの優しさにも守られていた。そのことには感謝してる。本当よ」


 でも、と瞳は勝気な笑みで返す。


「私はあんたの願いを踏みにじって魔人を討つ」

「瞳!」


 瞳の宣言直後、殺意を込めたトマスの拳は瞳の右腕を破壊するべく向かって行く。それよりも早く取香は右腕を巨大化させ瞳を掴み上げ、トマスの一撃を回避する。


「取香さん、お願い」

「御意」


 主の危機に女従者は森に響き渡るほどの咆哮を上げる。取香は掴んだ瞳をそのまま振りかぶりボールのように投げた。流星のように飛んで行く瞳を目で追うトマスはすぐに追いかけようとする。

 しかし、驚異的な速さでトマスの行く手を阻む取香の妨害に阻まれる。


「どけ狂犬。貴様の相手をしている暇はない」

『それは、こちらのセリフだクソ坊主』


 トマスは努めて冷静に、だが内から湧き出る憤怒を止めることもなく取香に必殺の拳を振り上げる。

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