第一章 普通を捨てた、虚ろな少女⑥

 時刻は二十四時。私は館を出て干菓子市の中でも廃校となった小学校を訪れていた。

 干菓子市の都市化は七割成功に終わったのだが、残りの三割は失敗のまま放置されている。バブル崩壊後、建物の中には鉄骨がむき出しの廃墟がいくつも量産され、二十一世紀になった現在でも手付かずの建造物が立ち並ぶ有様となった。

 干菓子市の隅っことなれば日中ですら人通りが少なく、夜になれば通りには人の影すらない。信号機の点滅と、街灯の明かりだけが安全を主張するこの場所で、私は最近購入した携帯電話を使って館で待機している取香と連絡を取り合っている。ちなみに携帯の購入をトマスに伝えた際、何故だか全額払ってくれたのでこちらはただで最新機種を扱えている。


「着いたわよ。西行小学校」


 私は黒のタートルネックと黒と赤のチェック柄のスカートを履き、上から紺色のコートを羽織っている。本来なら警察に補導されるに違いないのだが、学校周辺には人っ子一人いない。廃校だからというのもあるが、二つほど区画を移動すれば住宅街も立ち並んでいるので、誰も廃校に繋がる区画を通らないなんてことはない。

 原因は廃校周辺に張り巡らされている仕掛けにある。

 暗膜。魔術士たちが扱う結界の総称で、本来扱われる結界とは趣が違う。そもそも結界とは聖なる領域と俗なる領域という二つの世「界」を「結」び付ける役割をも持つ。日本で扱われる結界は神社や寺院などで用いられ、境界線を示すために境内のような建築物では意図的に段差を設けたり扉や柵、鳥居や注連縄などを使う。

 だが魔術士にとっての結界は「内側で行われる魔術的行為を外部に漏らさないようにする」というものだ。さらに魔術的行為を外部に悟らせないようにしつつ、万が一魔術を扱っている現場に他者が入って来てもすぐに感知出来るセンサーの役割もある。見た目も薄い膜が空間を覆っている様に見えるのだがこれも魔術に心得のある者だけが見ることの出来るもので、魔力のない者には一切見えない仕様になっている。魔術は神秘でなくてはならず隠すことが絶対。だが魔術を扱わなければ真理に辿り着けない。そんな二律背反を解決するために暗膜は創られたとも言われている。

 しかも廃校を覆っている暗膜はかなり高度な代物だ。何故なら中で行われているであろう魔術的行為は感知出来ないし、その上廃校区画を通ろうとする一般人は廃校を避けた道を通って移動している。これも暗膜の役割の一つで、魔力のない存在を無意識のうちに遠ざける術式を組み込んでいるのだ。だが暗膜に二つ以上の性能を組み込むことは難しいとされている。特に魔術的行為を外に漏らさない形式を重要視する魔術士にとって、隠す性能と別の性能を盛り込んだ暗膜を維持することは困難を極める。

 つまり廃校に暗膜を仕掛けた人物は相当腕利きの魔術士だということだ。


「最悪ね、本当」


 それ以上口には出さなかったが、廃校に潜む魔術士は私の手に負えそうな相手ではない。

 取香に指示していた干菓子市の散策。その目的は現在も市内に潜んでいると思われる連続殺人鬼の所在を掴むためだった。相手はただの殺人犯なのだから私の敵じゃない、そう思っていたことが完全に仇となった。

 私の手に余る魔術士が連続殺人鬼でもあったなんて夢にも思わなかった。


『お嬢様の言いつけ通りこれまでの犯行現場、そして市内の様々な臭いを辿りました。すると犯行現場では僅かではありましたが魔力の残滓があり、その残滓を追っていくとそちらの学び舎に行き着きました。しかしその廃校には魔力の痕跡は感じなかった。つまり』

「逆にこの廃校が怪しい、と」


 西行小学校は干菓子市の最北端に位置し、九十年代に少子化の影響で他校との合併のために廃校が決まっていた。だがバブル崩壊後、取り壊しのための費用が下りずそのままにされている。今となっては地域の悪ガキたちの度胸試しの場となっている。

 そして今は連続殺人鬼兼魔術士の住処になったという訳だ。全く笑えない。


「確かに、中はとんでもなく淀んでそうね」

『やはり今日はおとなしく戻られますか?』


 館を出発する前、取香は「今日は止めておいた方が良い」と言っていたことを思い出す。全てを分かった上でそう言ったのは私が言っても聞かない性質だと知っているからだ。案の定私は彼女の制止を振り切って廃校に来ているのだから。


「廃校の前まで来てるんだからもう遅いわ。取香さんがもっと正確に状況説明してくれていたらこんなことにはならなかった」

『おや、他人のせいにするとはあなたらしくない』

「言うじゃない」


 こうなったら自棄だ。私は従者との通話を切り、暗膜を超えて廃校の校門を超える。

 直後。濃密で赤黒い霧と腐臭が五感を直撃した。


「……酷いなんてもんじゃないわね」


 魔術士は見習いの段階で、魔力は欠片でも感知出来るようになっていなければならない。自衛目的もあるが、自然界に存在する魔力の流れを読み解くことが主である。そうすることで、魔術士は常に自身に適した最高の環境で魔術の探求に力を注げるからだ。魔力がなければ術は行使できず、術を行使できなければ研究にならない。ゆえに魔術士にとって「魔力を読み取る」ことは最優先で覚えなければならない事柄なのだ。

 だが廃校内で感じた魔力は暗膜の影響で充満しており、常人なら発狂していてもおかしくないほど濃く生命にすら届きうる猛毒と化していた。


「ここまで濃い魔力濃度だと、敵の位置も掴みにくいわね」


 幸い今回の暗膜は出入りを自由に設定されているため、一撃離脱作戦が可能だ。かなり癪だが取香を呼び出すことも可能ではある。暗膜の中には外界との連絡を完全に絶つものがあるので、もし今回の暗膜が完全遮断性のものならかなりヤバかった。とはいえ暗膜を張っている殺人鬼兼魔術士には私の侵入がばれている。遅かれ早かれ私を迎撃するためにやって来るだろう。遮蔽物がない広いグラウンドで迎え撃つつもりだが、魔力の流れを掴もうにも濃い魔力のせいで敵が何処から攻めて来るか予測がつかない。

 暗膜を張るということは自分のテリトリーを作ることに他ならない。自分にとって有利に働く要塞にもなりえる暗膜は隠すだけでなく、侵入した者を排除するための攻撃の意味も成している。出入りが出来るとはいえ、まさに私は袋の鼠という訳だ。


「ready set(仄暗き夢よ開け)」


 言霊を告げ臨戦態勢を整え、いつでも夢の魔術を扱える準備をする。普段全身に覆わせている魔力も視力に集中することで魔力濃度の濃い暗膜内でも視野を広げた。

 すると前方約十五メートル先に血だまりで散乱する少女の死体があった。しかも女性の手足は地面に飛び散っており、さながら女性の体全体を使って血の花火を演出しているようだった。そしてそこにあるべきはずの頭が何処にも見当たらない。

 何より嫌になるのが、これだけ惨たらしい現場を見ても私の心は一つも動かなかったことだ。それだけ死体も理不尽も見て来たということなのか、それとも私も人として壊れ始めているのか。


「六人目。ホント胸糞悪いったら」


 すでに事切れている死体を無視する訳にもいかず、私は死体に近付く。切り裂かれた肉片は綺麗に切断されており、どんな鋭利な刃物でもここまで綺麗に肉の断面を演出することは叶わないだろう。まず間違いなく魔術が関与している。


「……ごめんね、でも必ず仇は」


 哀れな骸を前に謝罪すると、足元に広がる死体の血液が僅かに揺れる。私は微細に動く血の動きを見逃さず、両足に魔力を回しながら後方へ思いきり飛んだ。飛距離は二メートルに届くほどであったが、飛んだ距離の五センチ手前まで真紅に光る刃物が迫っていた。出所は乱雑に放置された肉塊の血だまり。


「挨拶もなしに攻撃とは、意外と余裕ないのかしら?」


 沸騰するかの如く、血だまりは複数の泡を出しながら肉塊を溶かしていく。完全な血だまりになったところで、血液は人の像を模る。


『これは失礼。初めましてこの土地を収める魔術士殿』


 おそらく魔力を通した念話だろう。人型の血だまりから声らしきものが聞こえる。


『私は蛟(みずち)使い、雨霧(あめきり)』


 その名は魔術士の中ではキワモノとされる通り名だった。さらに言えば彼の通り名からも魔術の特性は垣間見えた。

 蛟とは日本神話で水と関係があるとみなされる竜種、蛇種または水神。毒を吐き数多の人を苦しめ、死を振りまく化物としての側面もあるが似たような蛇が日本にはもう一匹いる。

 八岐大蛇。その目は赤く一つの身体に頭が八つ、尾が八つあるとされる伝説の大化生。その長さは八つの谷、八つの山に渡り神剣でもってようやく退治出来た本物の怪物である。一般には稲田を守るために洪水を鎮めるための儀礼が神話化されたものとも言われている。八岐大蛇自身も酒が好きな蛇神と言われており、水には深い繋がりがある。

 蛇と血と雨と霧。名と魔術に準えて術式を行使する魔術士は数多くいるが、ここまで徹底しているのは珍しい。


「蛟使い、神道系の術師っていうのは聞いてたけど、世界各国の魔術士を殺し回ってるっていうのも本当かしら?」

『私は遣い走りですからね。命令が出れば上司にとって面倒な同胞を永眠させるのも私の仕事なのです』


 つまり、目の前の魔術士は仕事で干菓子市にやって来た訳だ。

 しかも十中八九私を殺すために。


「関係のない女子を殺し回ったのは?」

『あなたをおびき寄せるためですよ。あとは私の趣味ですか』


 聞くんじゃなかったと深く後悔した。おかげで私の沸点は一気に下がって攻撃手段がないというのに、一発入れたくなってきた。


『どれだけ幼かろうともあなたはこの街を根城にしていた『至高』の魔術士の子息。元管理者であるあの男の娘なら、自分の庭で好き勝手する私を見逃さない』

「噂通りの糞野郎ね。神秘の隠匿はどうなるのよ?」

『魔術もろくに使えない家畜(ホモサピエンス)たちのことを言っているのか? 証拠とやらがなければ奴らは何も出来ない。それ以上の知識を持たぬがゆえにな。無惨な死体だけ残しても神秘の隠匿には抵触しないし、なんなら魔術士らしい、と言ってほしいな。魔術士は自分の欲望に忠実な上位存在。真理を追い求める魔術の道程に数百、数千、数万の屍が積み重なってもそれは仕方ないこと』


 数秒の沈黙の後、血だまりはさらに血の泡を作り出し、鮮血の飛沫を上げながら無数の血の刃となって襲う。両足に集中させた魔力の出力をさらに上げ、襲い掛かる血の刃を寸前で身を翻しながら避けきる。


『だからこそ、あなたの父親の最期は酷いものだった』


 こめかみの血管が浮かび上がるのを自覚する。


『奴は同胞の魔術士たちからすれば畏敬の対象だったかもしれないが、その最期はなんともあっけない結末だ。私もあの時の後始末に参加したが、おかげでなんの適性も当てはまらない娘に自分の魔術を引き継がせるまでに至った。ここまで追い詰められて何も抵抗して来ないのが立派な証明だ。これほど間抜けな話があるか』


 嘲笑う雨霧を他所に、私は回避に回していた両足の魔力を爆発的に上げる。寸前でも確実な回避をするために空けておいた二メートルの距離を、一気に詰めて血だまりの人型の正面まで近づく。

 瞬時に両足と眼球に回していた魔力の流れを右拳に集中させる。血で模った分身でも、雨霧の意思が流し込まれているのなら精神にダメージは通るはず。何より、親を馬鹿にされたことで私の我慢は限界を超えていた。


「burn up(吹き飛べ)」


 人体の中心、心臓のある部分を渾身の右ストレートで刺す。魔力で強化しているだけあって、空気が破裂するほどの衝撃が暗膜内で響き渡る。

 だが私は思い知る。この一撃が最大の悪手だったと。


『酷いことを、するな』


 魔術士の肉体強化は魔力を体に流し込んで一時的に肉体の活性化を図っている。薬物を使ったドーピングに近いが体外に浮遊している、もしくは体内で生成した魔力を集めて体に巡らせているので後遺症もない。もちろん魔力に馴染ませた体でなければ全身に流せないのだが、魔力に適性のある肉体を持っていれば、体の各部位に魔力を流し込むことで視力の強化や手足の強度を高めることが出来る。さっきまでの私は両足に七、両目に三の魔力を回していたので反撃は出来なかったが寸前で全て避けるまでに肉体の強化を図った。

 だが今は全ての魔力を両足に込めて相手との距離をゼロにし、即座に右拳に込め直して雨霧に叩き込んだ。結果この先の回避を行うことはもう一度魔力を備蓄する必要がある。


『これが私本来の身体なら臓物まで吹き飛んでいた』

「……無傷なのは分かるけど、魔力の乱れもなし? あんたほんとに人間?」

『君が魔力で自分の肉体を強化したのと同じさ。血液は血中に多量の鉄分を含む。魔力で補完してやれば全身鎧を着たかのような血の分身が出来上がる』


 そして私の魔力が回復する時間を雨霧が待つ訳がなかった。血だまりの人型は右腕を血の刃に形を変え、私の左肩から右脇腹から抜けるよう凶刃を振るう。


「全く」


 声の後、人型の血だまりは直上から落下してきた一人の聖職者によって踏み潰される。魔力を全霊で込めた私の一撃にもびくともしなかった人型は、何の力も纏っていないトマスの踏み付けで爆散したのだ。


「私がいなければ、君は今頃綺麗にスライスされていたぞ。それこそハンバーガーに挟まれているトマトのように」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる私に対し、トマスは少しばかり不満を浮かべる。


「……遅かったわねトマス」

「誤算だった。君は元来天邪鬼な性格であったな。ここを嗅ぎつけたのは君の従者か」

「どうせ筒抜けなんでしょ。いちいち聞かないで」


 トマスに踏み潰された血だまりは雨霧の魔力により再構成を開始していた。数秒の間で再び人の像を模る。


『彼女が暗膜を超えてこの場にやって来ることはわかる。だが異端殺しの貴様が何故ここに』


 暗膜の効果は一般人には効果覿面で、魔術士である私ですら取香の鼻がなければ辿り着けなかった。よってトマスにも暗膜の能力から逃げられないはずだ。雨霧の驚きも不思議理ではない。トマスは渋々口開く。


「この子の携帯電話には発信機が内蔵されている。この街の中なら何処にいようともすぐに発見できるような強力なものをね。おかげでこの薄汚い膜の存在を知ることが出来た」

「ちょっと待って今なんて」


 これで携帯代の全額支払いの謎が解けた。私のプライベートが半分以上筒抜けになっているのはいただけなかったが、追求しようにも今は状況が悪い。


『汚らわしい現代の玩具を使うとは。やはり貴様ら神の手先どもとは相容れん』

「それはこちらのセリフだ人食いの化物が。我々の仕事を増やした罪は重いぞ」


 街を荒らしたとかじゃないところ、実にトマスらしい。こいつは基本、化物退治に積極的ではない。どちらかというと日がな一日学生との交流や町の人々に神の教えを説いていたいと常々口にしていた。

 トマスが化物や魔術士を殺すのは自分にとっての大事な人たちを助けるため。果たせなかった自身の役目を今度こそを果たしきるため。


「貴様ら雨霧家の調べはもうついている。すでに滅んだ家だそうだな。おかげで調査に時間がかかった」

『どうやらお前から先に殺すしかないようだな、粛聖者』


 血だまりは人型の形状のまま両腕をしなる鞭のように形を変えた。鞭の長さは三メートル強。打撃の意味も兼ねているが、打ち付けられた大地は切り裂かれた跡もあった。切れ味はコンクリートを容易く切り落とせるレベルに達しており、切り口には一切の粗雑さもない。熱したナイフでバターを切るがごとく、トマスに躊躇ない血の鞭が襲いかかる。


「罪もない少女たちの首を切り落としたのはこの血の刃か」

『あれらに使用したのはもう少し剣に寄った形状だ。今披露しているのはもう少し高度な人肉も切断可能な鞭。しかもよくしなる』


 掠るだけで身が切り裂かれる雨霧の猛攻にも、トマスは一切臆することなくその場にいながらにして血の鞭を避け続ける。右斜め上から襲われれば左足を引き最小の動きで、左右から横薙ぎに鞭が向かってくれば瞬時に態勢を低くすることで傷一つ負うことなく両者の戦闘は五分が過ぎようとしている。

 トマスの介入で意識が向こうに向いてくれるのはありがたいが、私自身の魔力を回復するには完全に雨霧の攻撃範囲から出なければならない。だが依然として相手の標的は私のまま。下手に背中を見せる訳にはいかない。油断すれば私にもしなる鞭の範囲内に収まってしまう。


「どうした? 撫でるだけでは私には届かんぞ」


 トマスの挑発に乗るように鞭による攻撃にさらに速さが増す。両腕で展開していた血の鞭はいつの間にか倍の四本になってその威力も速度も上がる一方だった。

 雨霧の最速の攻撃が続く中、トマスの表情から余裕の二文字は消えない。どう避けているのか最早私には理解出来なかったが、一つ分かったのは相手の鞭が動く軌道をある程度予想し、先んじて体を動かしていることくらいか。ただ頭で分かっていたとしてもそれを実演することは全く違う。魔力で強化した訳でもない一般人の基礎(ベース)のままで魔術士という特異な存在の攻撃をよけ続ける。どれだけの修練を積めばそのような神業を身に付けるに至るのか。


『はぁ!』


 血の鞭の応酬が千を超えたあたりだろうか。ようやく両目に魔力での補強が可能になった頃合いで、雨霧の甚大な必殺の中に私でもカウンターを思考させる甘い一撃が見て取れた。

 そんな未熟な私でも確認出来る隙を、目の前の異端殺しが見逃すはずがない。

 太極拳。それは中国武術の一派であり、東洋哲学の重要概念である太極思想を取り入れた拳法だ。「柔よく剛を制す」武術と言われ、小さな力で大きな力に克つために、相手の力の大きさと方向を察知し、柔軟な動きで相手の力を外すことを目的とした護身術でもある。

 太極拳の源流である陳式太極拳には捩じる手法を用いる纒絲勁、体内で蓄えたエネルギーを一気に爆発させる発勁がある。本来は素早い動作や難度の高い跳躍技など武術としての要素が多く含まれているのだが、現在の太極拳は健康法として親しまれている。

 健康のための太極拳が「柔らかくゆったりとした運動」になっているのは、陳式太極拳を学んだ武術家がこの技法を練習する際、ゆっくりとした動作で練習出来るように改良したことによる。そしてこの武術家の子孫が普及に努めたことから、現在の太極拳のイメージが出来上がった。

 だがトマスが扱う技は、そのどれもが健康法の域を完全に逸脱している。

 震脚。中国武術の用語で、足で地面を強く踏み付ける動作のことを言う。強く踏み付けるため、大きな音がするのは必然だが、トマスが起こした震脚はコンクリートの地面を破壊するほどの威力だった。そして震脚はあくまで踏み込みであり、その後に繰り出される技が本命となる。

 彼が行ったのはあくまで拳による突き。通常の成人男性がどれだけ死力を尽くしても、瓦を割るのがやっとの威力だが、トマスの拳はショットガンと同程度かそれ以上の破壊を生み出し、血だまりの人型を一撃で破壊せしめた。


「ちょっと! こいつからは色々と聞きたいことが」


 私の制止も聞かずトマスは再度突きを繰り出す。血だまりは再び人型を形成しようとするが、空気を押し出すほどの速度を持った拳圧は血だまりを破裂させた後、勢いを殺すことなく校舎の壁に激突する。その破壊は爆発音に匹敵する。だがトマスの拳でもってしても、液体である血だまりには効果がなかった。四散した血液は再び人型を形成し、何事もなかったかのように私たちの前に現れる。ただし今度は向こうの方から二メートルほど距離を取って。


「なるほど。ここまで撃っても無傷か」

「当たり前じゃない。あんたみたいな脳筋には不利な相手よ」

「だがあの夥しい量の血液を保持する魔力はある程度消し飛ばした。あと数回繰り返せば奴との魔力の繋がりは完全に絶てる」


 一度肉弾戦に持ち込まれれば、魔術士は彼の相手をすることは叶わない。数秒もてば十分だと称賛されるだろう。それほどにトマスという男は規格外の強さを持っていた。


『さすが粛聖者。ここまで出鱈目とは』

「御託は良い血袋。貴様はここで完全に滅却する。瞳、君はもっと下がり給え」


 雨霧は人型を保っていた血だまりをさらにその形状を変え始める。


『計画変更だ。お前が半端ならここでそこの娘共々皆殺しにするつもりだったが、今の私では時間がかかり過ぎる』


 同時に。トマスは雨霧との距離を一気に縮めながら得物を露わにする。

 白釘(はくてい)。粛聖者が異端の化物を排除するために教会が与えた唯一携帯を許される刺突武器。形状は西洋剣を模しているが、在り方は異端を「抑え止める」ことを念頭に置いている。その源流は聖釘と呼ばれる聖人を張り付けにした際に用いられた釘である。教会が認定した聖遺物であり、邪悪を抑え止め、この世から抹殺せしめるための武器として改造、量産された逸品。普段は剣で言われる柄の部分のみを携帯しているが、戦闘時には使用者の血を触媒に十センチしかない柄部分から刃を具現化させて戦う。


「聖別された武具だ。異端共には多少効くが君はどうだね」


 相手の挙動よりも早く、トマスは白釘を投擲した。全長一メートルはあろうかという白き刀身は流星のように飛んでいく。変形を継続している血だまりは白き刃に貫かれ再度爆散する。ただし今度は壁や床にへばりついた後は戻ることなくそのまま壁の染みとなった。


『……く、そ』


 敵魔術士の声は途切れ静寂が訪れる。残ったのは多量の血で染められ闘争の終わりを迎えた廃校と私たち。


「あの、犯人逃げましたけど?」

「意識だけとはいえ、自身の感覚をここに飛ばし、我々を攻撃してきたのだ。白釘で刺されたのなら数日はまともに動けないと思うがね」

「その数日であんたは潜伏している雨霧を探し出して排除するつもり?」

「あんな物騒な男をこの町に蔓延らせておいても良いのならそうするが?」


 理解した上でトマスは私を挑発している。暗に彼は「私の邪魔をするな」と言っているのだ。だがそれはこちらも同じ。


「あの魔術士は私を狙ってこの街に来たのよ。なら私があいつを追い払うのが筋じゃない。それにあいつは父のことを知っていた」

「であれば、君もまたあの魔術士を追うということかな?」

「そう言ってるじゃない」


 瞳の強気な物言いに、トマスは白釘を向けることで返答する。


「なんのつもり?」

「今回は発信機があったから良かったものの従僕も連れずに敵の腹の中に飛び込むなど愚者のやることだ。そしてここまでの窮地を迎えて、なおまだ奴を追いかけると言うなら両足の骨を折ってでも止める」


 張り詰めた糸のような空気が流れる。お互いに譲れないモノを背負った者同士、血を流すのもやむなしかとも思った。

 だが最初に身を引いたのはトマスだった。


「とはいえ、ここで互いの戦力を消耗することもない」


 両手を上げ白釘の刀身が霧散する。十センチだけ残った柄はトマスの懐に隠される。


「今後のことはまた日を改めて話し合うとしよう」

「それで納得するとでも?」

「するとも。少なくとも今すぐにことを起こすのは叶わないだろう」


 トマスは私に見えるように服の裏側から携帯電話を取り出す。


「私がこの廃校に到着したと同時に仲間たちが警察を呼ぶよう手配している。神秘の隠匿だったか、君ら魔術士は人目を嫌うだろう? 魔術と無縁の者たちを招き入れることは相当に応えるはずだ」


 話している間に遠方からパトカーのサイレンが聞こえてくる。


「戦闘が始まって十分。血袋が図っていた暗膜も消えこの廃校の場所が特定されたぞ。どうする?」

「あんたね!」

「行くが良い。私は連絡した手前残るしかない。だが君はここに残ると具合が悪いのではないか?」

「……覚えてなさいよ」


 私の捨てセリフにトマスはただ頷き最後は教師らしく「気を付けて帰るように」と告げる。

 トマスに言われるまでもなく自覚している。私は弱く我が儘でどうしようもなく守られて生きている。今回の闘争がいい証明だ。

 それでも。私はもう一度惨劇の光景を目に焼き付け、今日この場所で起こった戦闘を脳内に叩き込んだ。

 自分の弱さゆえに何も出来ず、他人任せに戦いを眺めるしかなかった情けない闘争の現場を。

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