第一章 普通を捨てた、虚ろな少女②

 干菓子市。関東地方に属するその市は多くの高層ビルやマンションが立ち並んでいる。しかし都会の色を出し始めたのは八十年代になってからで、それまでは田んぼや山々が多く残る自然豊かな地方都市だった。当初は都会と自然の境界を取り払う動きを見せていたが、バブル崩壊もあって完全な都会化は失敗に終わり方針を変え、自然と都会が隣り合わせに存在する多様性に富んだ街と発信することでさらなる集客、住居者を狙った。市は当初一万人も満たない小さな町だったが、今や人口三十万人を誇る大都市となった。

 市内には中心地から徒歩三十分の距離にある美並山という小高い山もあり、中心街から出ているバスに乗り頂上を目指すことも出来る。ハイキングやジョギングをする者にも利用出来るよう舗装された道も用意されているので、自然を楽しむ観光も充実している。

 そんな干菓子市には『魔女が住む館』がある。

 館があるのは美並山の八合目付近。二階建てで赤茶色のレンガで作られた洋風設計である。手入れは行き届いていないのか蔓があちこちに絡みついて野放しにされている。自然と同化しており、魔女が住むというよりは幽霊屋敷と呼ばれそうなのだが様々な要因が重なって『魔女が住む館』になった。

 一つは九〇年代の美並山全域で奇妙な現象が多発していたから。山の動物たちの多数の変死体や電気が一切通っていない山中で謎の発光が観測されたりと、偶然では片づけられない超常現象とも言うべき事案が確認された。安全のため市内では一月ほど美並山には立ち入らないように警察まで巡回するようになったほどだ。

 二つに館を出入りしていたのが金髪碧眼の西洋人女性だったこと。この事実は特に魔女という単語が使われるきっかけになった。

 アリサ・ユウクサ・ナサニエル。彼女は干菓子市内の教会に勤めるシスターであり、住まいである館から徒歩とバスを乗り継いで教会まで通う一般の女性だ。いつも優しい笑みを浮かべ、どんな人間にも救いの手を差し伸べる彼女は教会だけでなく、街全体でも聖母と呼ばれる敬虔な聖職者だった。

 当初は彼女の人柄と行動もあり『館の魔女』の誤解はすぐに解けた。しかし彼女を聖母から魔女と呼び変えられたのは三つ目の原因、彼女が館に越して五年後に彼女と彼女の夫も巻き込んだ大きな火事にある。

 彼女たちの直接の死因は火事による一酸化炭素中毒となっているが、多くの謎が残る事件となった。一軒家を焼き崩すほどの被害だったが、事件当日は家に近付く者は一人としておらず、最も不可解なのが館以外の損害は一切なかったことだ。山火事になりえる火災だったのに、燃えたのは館だけという不可思議極まりない火事だったのだ。当初殺人も視野に入れていたが、証拠不十分ということで自然発生した火災ということで落着を見た。

 唯一の生存者をこの世に残して。


「……っ」


 時刻は六時ちょうど。目を覚ますと体中に汗をかいていることに気付き、大きく溜め息を吐いてシングルサイズのベッドから跳ね起きる。

 私こと、夕草瞳はこの干菓子市に住む光聖高校の二年生にして、アリサ・ユウクサ・ナサニエルの一人娘。そして、現代にまで残る魔術士である。


「最悪……」


 汗で濡れてしまったパジャマを脱ぎ捨て下着姿で全身鏡の前に立つ。肩まで伸びる黒髪は艶を失くし、普段は清楚な顔立ちも少し疲れが見えた。


「お嬢様。おはようございます」


 部屋の出入り口から朝の挨拶が聞こえる。ドアを開けると部屋の前には二十歳前後の女性が背筋を伸ばして立っていた。

 メイド姿で出迎えたのは私に遣える従者、取香と呼ばれる女性である。


「お嬢様、朝からこんなこと言いたくはないのですが、下着姿で挨拶される私の身にもなっていただきたい」

「同じ女性同士なら問題ないでしょ?」

「恥じらいを持ってほしい、ということなのですが?」

「魔術士の私に恥じらいね。冗談にしては面白いわ」

「楽しませたかった訳ではありあせん。入室よろしいですか?」


 彼女は能面のような表情を崩さず入室の許可を求め、私は短く「ええ」と答えて取香は私の部屋に入室する。


「その様子ですと、またご自身の夢に引っ張られましたか」

「……そうよ、何か問題?」

「問題です。このままではお嬢様自身の夢に取り込まれて」

「二度と目覚めなくなる、でしょ? 耳にタコが出来るくらい聞いてるから理解してます」


 取香は溜め息を吐いて質問を続ける。


「ちなみに今日見た夢というのは」

「いつもの」

「ご両親の夢、ですか」


 取香との会話を続けながら、自室にある焦げ茶色でアンティークなタンスを開けてバスローブを取り出す。同色のクローゼットにも手を伸ばし、そこから学生服一式をベッドの上に並べていく。本来ならこういった服や入浴の準備も従者である取香の仕事なのだが、自分の身の回りは自分ですると事前に私の方から断っている。ただし家事全般は彼女に任せているので、脱ぎ散らかした衣服は全て彼女が回収している。


「今日は何か言っておられましたか?」

「何も。素直に何か言ってくれればこっちも助かるんだけどね」


 取香は私が脱いだ衣服を回収し終え出入り口まで歩いて扉を開ける。私は素直に彼女の行為に甘え、そのままバスローブを持ったまま部屋を出る。


「いい加減、ご自身の力をコントロール出来ても良いのでは?」

「扱いが難しいんだからしょうがないでしょ」


 夢を操る魔術というのは、扱いの上では難しい部類に入る。自分または他人の脳に見せたい像を構築し、再現するだけならどんな魔術士にも扱える。それはすなわち暗示の魔術に該当し、暗示の魔術は魔術士なら必須の術だからだ。だが夢を見せるというのは対象の脳へ持続的に魔術を行使することを意味する。さらに言えば持続的に齟齬なく操らなければならない。少しでも見せたい夢の内容と対象の脳の動きがずれれば最低でも魔術の中断、最悪術をかけている術者にその反動が返って来る。それが酷いものになれば一生対象の夢の中で迷うことになる。


「他者に術をかけるならまだしも、自分自身ならある程度力の加減が利くはず。幼少から始めているというのに、毎夜悪夢ばかり見ているのは」

「はいはい。私の力不足です。分かりましたからお小言は止めてください。もしくはこんな扱いづらい術を教えてくださった私の師匠兼あなたの主様に言って」

「元主です」


 二階の瞳の自室から一階のバスルームまで、歩きながら私たちの会話は続いていく。取香の小言は毎日のことだが、常に聞かされる側に立つ瞳としてたまったものではなかった。


「もっと鍛練しないといけないのは分かるけど、師匠に教えてもらった魔術がこれしかないんだから、それ以上やりようがないでしょう」

「『睡眠中、自分の思い描いた夢を見続ける』偶然見る夢を意図的に作り出す手法でしたか」

「そ、師匠ももっと簡単な鍛練方法を教えてくれれば良かったのに、本当にその一つだけなんだから、日々格闘している私をもう少し労っても良いと思うんですけど」

「元主からは『甘やかすな』と言われておりますので」


 これ以上小言を聞きたくなかった私は、少しでも話題を明るいものにしようと切り替える。


「そういえば今日はやけに早くに起こしに来たわね。いつもなら朝の支度してる時間じゃない」


 取香は優秀なので、私の意を酌み、早朝に入った電話の説明を始める。


「十五分前にお電話をいただきまして。お嬢様が起床されたらご連絡しようかと思っておりました」

「こんな朝早くに? 誰?」

「トマス神父からです」


 あからさまに両肩を落とす私に、普段表情を崩さない取香でさえ、同情の眼差しを向ける。


「あの似非神父から?」

「はい、内容まではお聞かせ願えなかったのですが、お嬢様には七時に学校に来てほしいと」


 淡々と説明する取香を他所に、私は取香にバスローブを預け、バスルームに入りシャワーのコックを捻る。程良い温水が汗を洗い流していき、心地よい熱を味わう時間が私の至福の時間である。少量のシャンプーを手に取り、掌で泡立て髪を念入りに手入れする。


「どうせまた、面倒な頼み事なんでしょうね」

『おそらくは』


 浴室にいる私と廊下で待つ取香が、ドアを隔てながらも会話が通じているのは、念話に切り替えたからだ。私たちは主従契約を結んでおり魔力による経路(パス)を繋ぐことで離れた場所からも意思の疎通を可能とする。魔力の糸電話とでもいうのか。


「どんな内容だと思う?」

『私には分かりかねます。ですが先月も突然お電話をいただいて、その後数日と経たぬうちにお嬢様に自分たちの仕事を押し付けて来たのですから良い話ではないかと』


 三月の中頃。私は春休み期間に入る前に似非神父から頼み事をされていた。それが干菓子市の見回り。内容はシンプルで干菓子市の端から端まで移動してもらい、手頃な場所で時間を潰してほしいというものだった。見回りに際して発生した金銭は神父が全て支払うと言われたので、干菓子市を管理する魔術士として、日々変化する土地を再度知る良い機会だと私は了承した。

 泡立ったシャンプーにまみれた髪をシャワーで流しお湯を止める。その後、取香によってすでに用意されていた純白のバスタオルを手に取り、濡れた髪を拭いていく。


「見回りはちゃんとしたんだけど。もしかして寄り道のことを叱る気なのかな?」

「そういえばあの日は外で夕食を済ませて帰られましたね。私が丹精込めて作った夕食を蔑ろにして」

「私だってまさかあんな遅い時間帰ってご飯が準備されてたなんて思わないし! というかそれ、その日の内に謝ったでしょう!」


 見回りの初日。久しぶりに干菓子市の街を遊べると高ぶってしまった私は散策を手早く切り上げて都会の夜を楽しんだ。とはいっても映画館に出向いたり、ゲームセンターに入ったりと学生の範囲内で楽しめることでだ。その締めとして、干菓子市でも有名なラーメン店に入ったのだが、取香に連絡せずに帰宅してしまったことで、主人の帰りを手作りの料理とともに待っていた従者は酷くご立腹になってしまった。


「でもあの時の料理って、即席味噌汁とご飯だけだったような」

「即席で、何かご不満でも?」

「すみません。次からは絶対に帰る時に連絡します」


 謝罪を口にし脱線した話を戻すために、電話の話を再開する。


「見回り、はもうないと思うし、それ以外で私に頼み事といえば学校絡みか。もしそうなら嫌だなぁ」

「断れないのですか?」

「立場的に出来ないのよ。私、一応特別扱いだし」


 全身を拭き終えた瞳、バスルームの扉を開け放ち悪態を吐く。


「それもこれも全部あの父親のせいよ。本当に面倒なことばっかり私に押し付けて」

「ですがその面倒なお父上のおかげで、今こうしてお嬢様は苦もなく暮らしている」


 皮肉めいた感想を漏らす私に、取香は考え方を改めるように諫める。


「お父上は自分を捨ててまであなたを生かすことを優先した。感謝こそすれ、悪態を吐くなどありえませんよ」


 取香は再度私に注意する。そんなことはわかっている。だがそれでも許せないこともあるのだ。


「感謝はしてる。大事にされていたことも理解してるわ。それでも許せないの。父が続けた魔術の研究のせいで、自分を含めた自分以外の全部を巻き込んで何もかも喪ったことが。自分も母さんも」


 やりきれない気持ちを抱きながら、私はこの時まで生きてきた。父と母を喪い、魔術士になると決意したあの日から。


「今の私がここにいるのは父さんと母さんのおかげ。でも両親はもういない。なら私の命をどう使おうと関係ない、そうでしょ?」


 すでに決定した生き方に、従者は深く頭を下げる。


「私の命の使いどころは、もう決まってるのよ」


 私の望みが果たされるその時までついて行く、その意思を表わすかのように。

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