第一章 普通を捨てた、虚ろな少女①

二〇〇六年 四月三日 月曜日


 目を開けると、そこにあるのは視界を埋め尽くすほどの花畑だった。

 鼻腔をくすぐるのは数多ある花の甘い香り。心を安らかにするのは美しく咲き誇る花だけでなく美しく舞う蝶や小鳥たちの歌声。その場に存在する生命は小鳥や蝶以外にもリス、ウサギなどそのどれもが温厚な生物ばかりだ。

 私、夕草瞳はそんな楽園のような場所で一人立ち尽くしていた。

 そして理解する。自分は今、夢の中にいるのだと。


「ようやく、ね」


 ここまで現実味を帯びた夢は私の経験になかった。ゆっくりと腰を下ろし三角座りすると、花を押し潰す感触まで伝わった。嗅覚はもちろん視覚、聴覚、触覚、そして掌に収まる小さな花をちぎり取って口に含むことで味覚までも感じた。ただ花の蜜が持つ植物由来の優しい甘みではなく、チョコレートと生クリーム、さらにはバナナも含まれた濃厚な甘みだった。


「花の甘さは、失敗ね……」


 夢を意識し、夢の中で五感まで理解出来ているのは私の持つ魔術が夢に関する属性を含んでいるからだ。

 魔術士。魔術を操り、世界の理をひも解こうとする真理の探究者。私はそんな世界の理から外れた異能なる者の一人だった。

 今回実践したのは夢の構築と改変。眠る前に自分自身に暗示をかけることで、自分が見たいと思った夢を再現することと、構築した夢をさらに自分の思い描いた夢で塗り変えることが出来るのか試していた。再現したのは花と動物たちで満たされた楽園。楽園の再現後は自分の思う通りの改変することだった。楽園の再現は出来たが、花の味までは念頭に入れていなかったので最近経験した甘味を花の味として夢に取り入れてしまった。昨日の下校時に食べたチョコバナナクレープの味が。


「それにしても香りまでチョコバナナクレープとは。我ながら自分の才能の無さに嫌気が差すわね」


 眉間に皺を寄せて苦言を呈したのは現実世界と今いる夢世界とのギャップの激しさに呆れてしまったからだ。現実と夢の差はそのまま私自身が持つ魔力と想像力の親和性で埋まる。よってその差が開けば開くほど自身が持つ技量が拙いとうことが証明されるのだ。今回の場合だと花の味が良い証拠となった訳だ。

 右人差し指に意識を集中させ、指の先端から淡い光を生み出す。蒼い光は別の花に触れた途端、吸い込まれるように光を失いついには消えてしまう。私は触れた花を再度むしり取って咀嚼する。


「う、今度は苦い」


 食べられないことはなかったが、我慢が必要なほどには苦みを感じた。


「何がいけなかったのよ。もっと再現性を上げないといけないんだろうけど」


 腕を組んで考え始めると突然、世界が軋み始めた。空が割れ、大地が裂け、花や動物たちはもれなく地の底に落ちていく。さらには夢を作り出した私さえもその崩壊の渦に呑まれてしまった。


「や、ばい」


 自分の未熟さを憎んだが、夢の崩壊は私が想像したよりも早く進行した。澄み切った青い空や際限なく咲き誇っていた花々は深い闇に呑まれ、今となっては黒一色。生命の在処はもちろんのこと、自分さえ生きているのか疑ってしまうほどの虚無がそこにはあった。夢世界の創造者である私がその夢の崩壊に巻き込まれるなど恥辱以外の何物でもない。


「また失敗? 本当に嫌になるわね」


 大きな舌打ちをした後、頭から落下していく体勢を立て直すため徐々に落下のスピードを緩めるよう想像する。頭と足の位置を逆転させて、五十メートルほど落ちたところで直立のまま浮遊する状態を保った。

 数秒の浮遊の後、私は大地と思しき何かに足を着けた。夢の崩壊は現実世界の帰還を意味する。外界からの強い刺激による目覚めの際はよくあることなのだが、夢の崩壊後も私の意識が現実世界に戻ることはない。数秒、数分経っても漆黒の世界は変わらない。埒が明かないと分かった時点で私は今いる地点から移動を開始した。

 距離にして百メートルほど進んだところでとある変化に気付く。

 最初に感じたのは焼けるような熱量。

 熱を感じた後に変わっていったのは色。黒一色だった世界は全てを無に帰す赤に様変わりする。色と同時に充満したのは鼻を刺す死の臭い。


「また、ここ」


 足元に転がっていた破片の数々は当時の私がよく遊んだおもちゃの為れの果て。燃えカスになり果てていたのは思い出がたくさん詰まった過去の我が家の残骸。懐かしき我が家は爆炎の中、見るも無残な地獄に様変わりしていた。

 今いる世界で存在する生命は自分しかいない、そう自覚すると躊躇いなくその歩を進める。悪夢でしかない光景に臆さず立ち向かえるのは、これが夢ではなく本当にあった現実の出来事だから。夢ならばどれだけ良かっただろうと何度も願った、私が体験した諸々なのだ。

 楽園から地獄への落差は自身の未熟よりも、心の状態が悪いのだと実感する。もしくは自身で暗示をかけた時に記憶の底から呼び起こされた可能性が高かった。まるで「忘れるな」と誰かに言われているようで気分は悪かったが。


「忘れる訳、ないのに」


 むせ返るほどの血と焼けた人肉の臭いは吐き気を催すには十分過ぎた。私は両頬を叩き気持ちを奮い立たせ、吐き気を抑えながら歩み続ける。すると行く手を阻む二つの死体を目にする。死体と判断出来たのは夢ならではで、確実にこの世には存在しないはずの人物たちだったからだ。


「お父さん、お母さん」


 眼に涙を溜め両親の名を発するが、燃えきって消し炭になった死体は人としての判別すら困難だった。それでも私が両親と理解したのは、死体たちが口と思しき穴から「ヒトミ」と口にし続けているからだ。幾度となく死の塊二体は私に接触を図ってきたので、何度か会話を試みているのだが、出る言葉は私の名前だけ。


「まだ、彷徨っているの?」


 答えはない。それらは愛しい娘の名を発するだけの機械のようだった。


「……お父さん、お母さんがどう言おうとも私は決してあなたを許さない」


 父がしでかしたこと、それが原因で私たち家族は永遠に笑い合えないようになってしまった。


「それでも、私は私の幸せをぶち壊した奴らを一人残らず消し炭にしてやる。あなたのためじゃなく私のために」


 二体分の黒ずんだ死体を手で払って消し去る。それは過去を消し去って、今を生きて目的を果たすということを体現したようで、私はどこまでも魔術士になってしまったのだ少しだけ寂しくなった。

 燃える我が家を眺めながら、再び私は暗闇に堕ちて行った。

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