逆落とし/転生義経は静かに暮らしたい

田井ノエル/角川文庫 キャラクター文芸

逆落とし

 険しい斜面を、三頭の馬が駆けおりてゆく。

 斜面と言っても、ほとんど真っ逆さまで、崖と相違ない。否、崖である。案内の者

いわく、「野生の鹿ならば通るが、馬は通らぬ」という話だった。

「鹿が通れるならば、馬が通れぬ道理はないだろうよ」

 そう笑ってのけたのは、若武者であった。

 大鎧をまとい、騎乗している。視線はやじりの切っ先にも似た鋭さをはらみ、一見、怜悧れいりな印象を与えた。しかしながら、笑みは無邪気な少年のようでもある。不思議な空気をまとった男であった。

 愉しんでいる。と、源九郎義経みなもとのくろうよしつねは自覚していた。

 これから成そうとすることが、愉しみで仕方がない。そういう感情が全身からあふれ出てしまっていた。

「ほら見ろ。おりたぞ!」

 落とした馬が、崖を見事に駆けおりたのを確認して、九郎義経は指さした。傍らに控える従者、武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいは、硬い表情で「そうでござりまするな」と、肯定する。

「もっとよろこべ。待ちに待った戦さではないか」

 義経はこの合戦において、搦手からめての大将をまかされている。

 平家を討つ策を講じる際に、義経は迷いなく「ここを下って奇襲をかける」と宣言した。が、兵たちは崖の険しさに恐れをなして動こうとしなかったのだ。

 なぜだ。平家の背後にそびえる崖を下って奇襲をかければ、必ず成功するというのに。義経は面白くなかった。

 下では、大手軍を率いる兄の範頼のりよりが平家軍と戦っている。五万の軍勢がいながら、決め手に欠けた状態だ。今、義経が動かねば勝敗はわからぬ。

 恐れをなして動かぬ兵たちを納得させるため、弁慶が馬を崖から落とすことを提案したのだ。馬が無事におりれば、奇襲を敢行する。

 結果、見事に無人の馬が下まで駆けおりた。乗り手が注意して下れば、馬は傷つくまい。

 だのに、まだ兵どもはおののいている。なにを恐れる必要があるか。平家を倒すと息巻いて挙兵した者どもではないのか。

「悦んでおりますとも。ただこの武蔵坊、あなたの策に驚嘆しているのです」

「それは嬉しいが、評価は成功させてからにしてくれないか。お前には、一番の働きを期待しているよ」

「無論ですとも」

 弁慶とは元服前、牛若うしわかと名乗っていたころよりのつきあいであった。

 決断が早く、実に気持ちのいい男だ。同時に、九郎が思いつきで事を成そうとすると、周囲が納得できるよう、調整するのも彼の役目だった。猪突猛進に見えて、馬鹿ではない。そういうところが大変好ましい。

「ではこう。儂が先頭だ。九郎義経を手本とせよ!」

 叫ぶ口元は笑っていた。

 胸が高揚してやまぬ。

 義経は強く自覚しながら、愛馬である太夫黒たゆうぐろの腹を蹴った。

 苔生こけむした大きな岩盤が幾つも垂直に切り立っている。後戻りはできず、ただ落ちるか、駈けおりるかのみ。

 あまりの無謀に、手綱を控える者もいよう。視界の端で、馬を人が背負って降りる者の姿があったが、あれは畠山重忠はたけやましげただか。大した漢だ。

 が、義経は先頭を駆けた。あとに続く者の気配も感じる。軍馬のいななきと、猛る風が耳を塞いだ。

 下までは、あっと叫ぶ間であったろう。なにごとかを考えるいとまなどあるはずもなかった。

 だのに、義経の脳裏には、ある日の情景が浮かんでいる。

 黄瀬川きせがわの陣で、兄である頼朝よりともと対面した。子供のころは、まだ自分は赤子であったため、実質、あれが初対面となる。

 兄は義経を迎えてくれた。涙を浮かべながら、肩を抱いて。

 義経も喜んだ。母親が違うとはいえ、やっと会えた兄弟である。物心ついたときより家族のいなかった義経にとって、なによりも求めた肉親だった。

 無論、頼朝の打算も心得ている。

 兄が義経を迎えたのは、奥州おうしゅうで過ごしていたからだ。北方において強大な力を誇る奥州を味方につけるのは、頼朝にとって利益である。少なくとも、同盟を結べば北から鎌倉に攻められることはない。

 同時に、その援助を受けられぬと知ったころから、兄弟の隙間も感じはじめていた。

 もはや、源氏の血筋と奥州の繋がりだけでは、義経は頼朝の役には立てぬ。平治へいじの乱で平家に討たれた父の無念を晴らし、平家討伐の大願を成就させることこそ、義経の役目だろう。

 義経はどうしても戦さに出たかった。

 戦さで、勝ちたい。

 それ以外に、自分が兄に渡せるものはないのだから。平家を破り、源氏の悲願を成す。この戦さも、なんとしてでも、勝つ。

 その決意が義経を前に進めた。


 寿永じゅえい三年。

 いちたにの合戦において、源義経は搦手の大将に任ぜられる。平家軍の背後の崖より、わずかな手勢で奇襲をかけ、大勝利をおさめた。いわゆる、鵯越ひよどりごえ逆落さかおとしである。

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