第6話 出立

 それから八日ほどした頃。

「ここは紅で詰め気味にして――」

手順を口に出しながら、紫苑は木枠の中心部に糸を潜らせる。卓には朱塗りの木箱が置かれ、中にはほとんど使われた形跡のない裁縫道具一式が入っている。紫苑の側には紅白や金、焦茶や黄緑など、目にも彩な刺繍糸が数巻、雑然と転がっている。

「あ、間違えた。――全くもう、どうにも進まないわね!」

ぐちぐちとこぼしながら紫苑は針と糸との苦闘を続ける。刺繍枠を構える左手の指先には、白い細布が巻いてある。

「まあまあ。――ほら、焦っていたら、また指を怪我してしまいますよ」

え、と手元を見るのも間に合わず、紫苑の指先に鋭い痛みが走る。きゅっと眉を顰めると、阿僑がすぐさま胸元から手巾を取り、差し出した。顔にはいささか苦笑が浮かんでいるように見える。

「もう、何を笑っているのよ」

「いいえ、何でも」

そうは言ったが、続いて薬壺を取ってきた阿僑の顔から含み笑いは消えていない。促されるまま手を預けつつ、紫苑はじとりと阿僑を睨んだ。

「どうせ刺繍は下手だわよ」

「大丈夫ですよ。何せ、芳媛様は刺繍の名手でいらっしゃいましたから。よく手ずから香り袋などお作りでした」

「そうなの。じゃあきっと、お父様のせいね」

「旦那様もああ見えて割に器用でいらっしゃるんですよ。――乾くまで、少しお休みになっては?」

阿僑にあくまで笑顔で優しくそう促され、紫苑はため息と共に刺繍枠と針を置いた。 

 母の祠に手を合わせて後、父と対峙した紫苑が思い切って要求したのが、「鄭家にいくこと」であった。一生こうして囲われた世界で何も知らずに生きていきたくはない。何かが変わるはず――。激しい反対に遭うことを覚悟して言ったのだが、意外にも父は「条件つき」でそれを認めたのだ。

『やっぱり何か、手作りのものを残して欲しいからね。そうだ、刺繍がいいな。柄は――梅の花にしてもらおうか。お前のお母様が一番好きな花だったから』

東克はそう言って、この薄桃色の布地を渡してきたのである。

「はぁ」

先程よりも盛大にため息をつく。昔からどうにも苦手だったものをやっているのだ、致し方ない。

 軽く湯気をたてた茶器を盆に載せ阿僑が戻ってきた。ちゃっ、ちゃっと子気味良い音と共に、茉莉花の香りが漂う。深みのある瑞々しい香りに、紫苑の眉間の皺が少し緩まった。

「甘味でもお持ちしましょうか」

「――大丈夫。少しでも早く終わらせたいもの」

「そんなに外にお出になりたいのですか?」

「もちろんよ。だって、初めてじゃない?お父様が市場以外にも外出を許してくださるなんて」

「それは、そうですが」

阿僑が言い淀み、何かを考えるように口元に手をやった。

「どうかしたの?」

「いえ――ただ、条件つきとはいえ旦那様が引き下がられたのが少し意外だったものですから」

「言われてみれば、確かにそうだわね――」

漆黒の瞳が思索に入る。飲み終えた茶杯の縁を細い指が弄ぶ。これまでは紫苑がどんなに頼んでも、買い出しのため市場に行く以外で東克が外出を許してくれることはなかった。だが阿僑の指摘したとおり、確かに今回は比較的すぐに応じてくれた。刺繍を完成させるという「条件付き」ではあったが。

 紫苑は杯を置くと、刺繍枠を手に取る。中心に浮かんだ梅の花模様はある程度形になってはいるが、縫取りはあまく、お世辞にも良い出来栄えとは言えない代物だ。幾度となくやり直したせいで、布地にはところどころ針を刺した跡が残っている。ひとまず隠せているとはいえ、花弁の縫い取りの下には血痕までついている有様だ。

「ねえ」

梅の花に視線を注いだまま、紫苑は阿僑に問いかける。

「どうして、お父様はわざわざ刺繍を選ばれたのかしら」

「と、仰いますと?」

「早く外出したいあまり考えてもみなかったのだけど、お父様が交換条件として刺繍を選ばれたのは何故だと思う?」

紫苑の指摘に、阿僑も考え込みつつ口を開く。

「確か、旦那さまは、芳媛様がお好きな花だったから刺繍してほしいと仰っていましたね。お嬢様が手ずから作られたものが欲しい、とも」

「ええ。けれど、それなら絵や書など、他のものでも良かったじゃない?」

「――そうですよね。現に書画に関しては、誰に教わったわけでもないのに、お嬢様の腕前は大変優れていらっしゃいますから」

「優れているかはともかく、刺繍ほど不出来でないのは間違いないわね」

外に出ない代わりに、紫苑は幼い頃から東克の蔵書を相手に育った。その中には著名な書家や画家の作品に言及したものもあり、紫苑の好奇心を刺激した。詩や画の題材となった場所を見てみたい、と東克にせがむと、彼は代わりにと、夏良起に作品の模写や図録を多数持って来させた。紫苑の飽くなき好奇心は尽きることなく、今度は、自分でも書いてみたいと言い出した。東克が画具や文具四宝を買い与えると、紫苑は作品の模写を始めた。優れた書画ばかりを模写し続けた結果、彼女の蹟は、少なくとも東克や良起が目を瞠るほどの腕前に上達したのだった。ただ刺繍だけは書画と同様にはいかなかった。女の子らしく、衣に施された綾な模様にも興味自体は示したし、書画同様、道具一式や図案集などもすぐさま買い与えられた。しかし、ちまちまと針を刺す作業は詩を写したり色つけをしたりする時のような没入感や達成感は得られず、結局中途で放り出していたのだった。

「図案集やら、色々と散財させてしまったことは申し訳なく思っているけれど――」

続きを言いかけて、紫苑の言葉が止まる。そして頭の中を刹那よぎった考えを探して拾い上げる。

「ねえ――お父様はもしかして、私を外に出したくないから、刺繍をさせているのではないかしら」

「え?」

「だってそうじゃない。お父様のお力について詳しくは知らないけれど、少なくとも、私が刺繍を苦手としていることは把握済みだと思うわ。だから敢えて時間のかかる刺繍をさせることで、なるべく屋敷に留めおこうとしているのよ」

「流石にそんなことはないのでは?いくら刺繍が不得手としても、いつかは完成するのですから」

「だからね、当座の時間稼ぎをしてるってことよ。何のためかは知らないけれど、何かしらの理由があって私をすぐには出したくないのだわ。きっと、そうよ」

一言ひとこと語気を強めながら紫苑は捲し立てる。阿僑は当初こそ半信半疑の表情をしていたが、紫苑が言い進めるにつれ、次第に得心を深めた様子に変わった。

「言われてみれば、確かにそうなのかもしれませんね

「でしょ?」

「はい。でも、だとしたらどうなさるのですか?本当にそのような訳なら、条件の変更をお申し出になったとして尚更変えてくださるとは思えません」

「ならば、やり遂げるだけだわ」

紫苑は闘志を漲らせたような目をして、揚々と応じた。


 同じ頃、書斎にて。

 文机に広げられた巻物に、白銀色の淡い光が注がれている。色鮮やかな草花や、墨の濃淡だけで描かれた山水画など、異なる趣の絵画が巧みに配された四季図である。図面の空いた場所には、これまた荒々しいものから流麗なものまで性向の異なる筆致の五言詩が書き込まれている。

「旦那様、深貫でございます」

障子越しに人影が映る。東克が入室許可を与えると、普段の守衛姿とは違い軽装の深貫が、滑るように入ってきた。

「どうだった?」

東克は巻物から目を離さないまま問いかける。

「旦那様の予見された通り、だいぶ苦戦されているようです。一瞥した感じでは、あと3日はかかるかと」

「そうか」

「それから、どうやら旦那様の意図に気づかれたみたいです」

精緻な楷書をなぞっていた指先が止まる。次いで口元に苦笑を浮かべると、彼はゆっくりと巻物の続きを開き進めていく。

「やはりな。他には、何か言っていたか」

「いえ。あくまで刺繍の完成を急がれるようです」

「分かった。あと一日、引き続き見張っておくれ」

東克がそう言うと、深貫は怪訝な顔をした。

「一日ですか?」

「ああ。明日の夕方には完成するはずだ。そして、その時間に「迎え」が来るだろうよ」

「――承知しました」

深貫は書斎を出ようとして、主の前に広げられた巻物に目を留めた。

「もしや、お嬢様の?」

「ああ。見事なものだろう。模写を基としているとはいえ、ここまで出来る者はそうはいまい」

「はい。流石は芳媛様の血を引くお方です」

深貫がそう言うと、東克の目尻が和やかに緩んだ。

 人影が音もなく回廊へと消えると、東克は机上の巻物を愛おしそうに一撫でし、丁寧に閉じる。背後の棚を開けると、中には同じような巻物や掛け軸入れが積まれている。手にした巻物を中に戻すと、次いで身を屈め、下方の棚を開ける。中から漆塗りの木箱を取り出し、そっと蓋をとると、中には香袋が入っている。紺色の模様地に縫い取られた蝋梅や紅梅。裏返して透かすように眺めると、紺色の糸で「刻」の一文字が浮き彫りにされているのが分かる。

『ほら、金糸が心なしか、星や天の川みたいに見えるでしょ?』

体調不良を口実に七夕節の宴を中座した彼女を心配して追いかけると、彼女は茶目っ気たっぷりに笑って見せると、袖の奥からこの香袋を取り出して東克にくれたのだった。

『皆が貴方は心を無くした人間だって言うけれど、それは嘘ね。本当は誰よりも優しい人だわ。深い傷を隠すために、そしてこれ以上傷を負わないために、氷の鎧で覆ってるだけだって、私は知ってるわ』

精神に感応する力を具備した鄭一族。彼らは確かに心は読める。だが「共鳴」することはできても、「共感」しようとするものはほんの一握りしかいない。普通の人間に対しては言うに及ばず、身内に対しても、強い力を持つものが力の劣った者を見下し支配しようとする構造が変わることはなかった。その中にあって、余人を持って変えられぬ強大な力を発現させたことは、その構造からの超越を意味した。その一方で、他者からの絶対的な畏怖の対象となり、僅かな例外を除き、東克に近づこうとするものはこれまで以上にいなくなった。無論、傷つかないわけがなかった。心の動き自体は手に取るように分かるだけに、余計に。だが、宗主という立場が感情の表出を許さなかった。その中にあって、芳媛の存在がどれほど渇きを癒し、安らぎを与えてくれたことか。

 掌中の香袋を慈しむようにそっと握ると、東克はそれを再び箱にいれ、棚奥にしまう。文机の下から立ち上がると、一瞬だけ、黄金の瞳を開いた。何かを確かめるかのように小さく頷くと、また元の漆黒の瞳に戻る。そして机に着くと、机の端に積まれた書物に手を伸ばして何食わぬ顔で読み始めたのだった。


 翌日。もうすぐ夕暮れを迎えようという頃、密な金色の光が差し込む中、掛布を羽織った寝台の主は相変わらずひたすら針を動かしている。黒髪は結わずに背に垂らしたまま、上半身の動きに合わせて肩からこぼれた一房が揺れる。白い額はうっすらと汗ばみ、左指先の包帯には少し血が滲んでいる。寝台の傍の腰掛けでは、阿僑が足を組んだまま軽く船を漕いでいる。障子窓に映る椿の花影も、時折風音に合わせて頭を揺らす。 

 しばらくすると、歓喜の声と共に、華奢な背で大人しくしていた黒髪がしなやかに跳ねた。声に驚き、阿僑もびくんと目を覚ます。紫苑は手にしていた鋏を寝台に放り、徹夜明け特有のぎらぎらした眼を阿僑に向けた。

「ふふふ。やっと、やっっと、出来たわ!」

阿僑は紫苑の勢いに気圧されながらも、突きつけられた物をまじまじと見る。確かに、縫い目が不揃いな部分や、糸が余分に重複している箇所などはあるが、それでも図案全体としてはよくまとまっている。何より――。

「あと半分、夜を徹してでも一日で仕上げる、と仰っていましたけれど、まさか本当にやり遂げられるとは」

「ふふ、これぞ有言実行でしょ」

紫苑が血走った目で不敵にわらう。そんな彼女に阿僑は目を細めると、労わるように肩に手を伸ばし、そっと撫でた。紫苑はしばし達成の余韻に浸っていたが、急にはっとした様子で寝台を立った。

「お嬢様?」

「阿僑、こうしている場合ではないわ。早くお父様に渡しにいかないと」

「え?今からお行きになるんですか」

阿僑は慌てた顔で立ち上がると、部屋の入り口へと向かう。扉を開けて一寸辺りを確かめてから戻ってくる。

「お嬢様、直に日が暮れます。それでなくても根を詰められてお疲れなのですから、お渡しは明日になさっては?」

阿僑はそう言ってやんわりと促したが、紫苑は頑とした眦は変わらない。

「思い立ったが吉日、と言うじゃない」

「ですが、旦那様が外出をお許しになるのは、どのみち日が変わってからですよ」

「そうだと思うわ」

でも、と紫苑は言葉を切ってから、どこか遠い目をして続ける。

「何となくだけれど、今日お渡しすべきだという気がするのよね」


 その頃書斎では、東克がひとり机に着いて瞑目していた。卓上に置かれた手は緩く組まれ、静かに時の流れに身を委ねている。

「旦那様」

東克が応えると、深貫が入ってくる。

「動いたか」

「はい。先程完成されて、これから旦那様に渡しに来られるようです」

「そうか。――あれは変わりないね?」

「はい、以前のままです」

「分かった。では言ったとおりに」

「承知」

深貫の背を見送ると、東克は居住まいを正し瞑目する。深呼吸して、ゆっくりと長い睫毛を押し上げると、その下から黄金の瞳が覗いた。

「もうじき、か」

そう独りごちた後には、瞳はまたいつもの漆黒に戻っている。彼は徐に立ち上がると、書斎を出て行った。

 

 手巾に火熨斗を当て終わった時には、既に燭台の明かりには橙の西日が溶けていた。熱を残した手巾を袖奥に収めると、紫苑は立ち上がって伸びをする。首が小気味よい音を鳴らした。

「大丈夫ですか?やはり少し休まれた方が良いのでは」

卓を片付け終えて戻ってきた阿僑が気遣わしげに言うが、紫苑は意に介さず、朗らかに笑みを返して入り口へと向かう。戸を開けると、門の方から何か言い争うような声が耳に飛び込んでくる。何事か、と紫苑と阿僑は顔を見合わせると、足早に声の方向へ向かっていった。

 母屋の端から紫苑たちが顔を覗けると、門扉のところで東克と、見覚えのある女性がその前で押し問答をしている。 

「表から堂々と入れば通してもらえるとでも思ったのか?」

東克の氷のような目がじろりと碧映を見やる。しかし彼女はこゆるぎもせず、涼やかな顔で東克のそばに歩み寄る。そして、耳元に顔を近づけた。

「兄上、白の長殿から伝言だ」

そう言ってほんのり紅い唇が何事か囁くと、東克の顔が瞬時に強張る。

「――!」

「だそうだ。しかと伝えたぞ、兄上」

くっと目元を引き攣らせた彼を横目に、碧映は悠々と門をくぐった。そして回廊のすぐそばで成り行きを見守っていた紫苑の前に歩み寄る。悠然と微笑むと、彼女は白い手をすっと紫苑の方に差し出した。

「こなたの手を取りなさい。そうすれば、本来のそなたらしい人生を取り戻すことができよう」

差し出した方の手首には、氷のように冴え冴えと澄んで透明な腕輪が煌めいている。よく見ると、その表面には何か、紋様のようなものが刻まれている。既視感を覚え、紫苑が記憶を辿っていると、碧映が口元をふっと綻ばせる。彼女は差し出した腕を一旦引っ込め、手首から腕輪を外すと、紫苑の目の前に差し出した。

「見覚えがあるだろう?」

紫苑は目を凝らし、彫られた紋様を見つめる。透明な石の狭い幅に刻まれた、蔓が絡み合ったような模様。紫苑の脳裏に深緑の山の景色が映る。

「もしかして」

はたと思いあたり、紫苑は腰に付けた巾着に手をやる。そして錦の袋から、常盤色の翡翠の腕輪を取り出す。思った通り、その表面には同じ模様が刻まれている。

「気づいたようだな」

「どうして同じ模様が――」

「知りたいかい?」

碧映の笑みが深まる。東克と酷似した容貌だが、三日月型の細眉と強い光を放つ緑の瞳が、才気煥発で勝気な印象を与える。

「はい」

「ならば共に来るがよい。そなたの父上も知ってはいるが、正しい使い方までは教えてくれないだろうから」

正しい使い方、という言葉に、紫苑の眉がぴくりと上がる。

「それ、前にも仰ってましたけれど――どういうことなのです?」

紫苑は手中の腕輪を改めて見つめる。東克の言付けで嵌めさせられていた時は、こうして手に載せているだけで、どこか森や山の中へと吸い込まれていくような感覚になったのだが、今は何の感覚も湧いてはこない。

「今は詳しく言うことはできないが」

そう前置きして、碧映は凜とした目で紫苑を見つめた。

「こなたのもとにくれば、いずれ分かるようになる。必ずや、そなたの先々の道標になってくれよう」

右手首に腕輪をはめ直し、碧映は改めて曇りのない目を紫苑に向ける。そこからは嘘偽りなど感じられない。

 紫苑が迷い始めたその時、左肩ががっしりと掴まれる。はっと振り向くと、苦悩の表情をした東克の目とぶつかる。彼はそのまま紫苑を背に押しやると、碧映を睨みつけた。

「どうしても、この子を巻き込まねばならないのか」

「それが不可避であることは、兄上が一番よく分かっているだろう?」

碧映は対照的に穏やかな笑みを湛えて受けると、右腕をかかげ、手首にはめた腕輪に触れる。

「この紋様――唐草のいわれを聞いたことはあるかい?」

紫苑が首を振ると、碧映は紫苑の細い指先が模様をなぞるのを見ながら、悠然とした口調で語り始める。

「人が生きていくのと同じように、因果もまた、続いていく――そんな意味が込められた模様だ」

「まるで蔦ですね。蔓を伸ばし、互いに絡まり合っていくような」

「その通り」

紫苑の言葉に、碧映は笑みを濃くする。そして腕を戻すと、改めて東克に向き直った。

「一族に生まれなければ宗主とはなり得なかった。宗主となり先帝に仕えることなくば、芳媛殿と出逢うことも、この子と見えることもなかった」

「――」

「全ては繋がっている。それが天の摂理なのだよ、兄上もお分かりのとおりにね」

「そんなものは、信じたくもなかったがね」

「お父様」

紫苑が呼びかけると、東克の纏う冷徹な雰囲気が揺らいだ。

「お父様が私のことを思って下さっているのは重々承知しておりますわ。けれど、私はやはり知りたいのです、自分が何者なのか。そして、試してみたいのです、自分の可能性を」

「――紫苑」

東克が言葉に詰まっていると、碧映が泰然とした笑みを浮かべながら二人のすぐそばまで近づいた。

「やはり芳媛殿の血を引くだけある。気概があって、兄上よりもよほど大人だな」

「碧映、お前」

「兄上とて、もうお分かりなのだろう?どんなに手を打っても、今日というこの日は訪れてしまったわけだ。皮肉にも「予見」通り、ね」

泰然とした微笑みの主が、半歩、東克に近づく。紫苑は少しく緊張した面持ちで身構えたが、碧映は大丈夫だと言うように目配せをしてみせる。そして、東克の目の前まで踏み込むと、また静かに口を開く。

「もう一度言おう。分からないふりをしておられるだけではないのか?兄上がどのような手段を講じても、こうして「予見」は実現してしまったのだから」

東克は硬い表情のまま押し黙る。すると碧映は今度は、東克にそっと両手を差し出し、何も言わずに真っ直ぐ彼を見つめた。東克は一瞬躊躇する気配を見せたが、碧映の手に自らの手を重ねた。金と碧、それぞれの眼差しが交錯する。茜色の夕陽に包まれた二人の様子は実に神秘的で、紫苑は固唾を飲んだ。

 やがて、金色の瞳が元の漆黒に戻る。東克が手を離すと、碧映は何か確かめるかのように頷く。そして紫苑に向き直り、にこやかに微笑む。

「話は終わったよ。じゃあ、兄上に手巾を渡して、共に行くとしようか」

「え?」

「大丈夫。此方の意は今しがた兄上に伝えて承知して貰ったから」

碧映が目配せをすると、東克は小さくため息をつく。そして紫苑の前に手を出した。

「約束通り、手巾を渡してくれるね」

東克の顔から、先程まで厳格に刻まれていた眉間の皺は消え、見慣れた温和な面差しを取り戻している。父の変化に戸惑った紫苑が躊躇していると、横から碧映が肩に優しく手を載せる。

「大丈夫だよ。さあ」

二人に揃って促される形となり、紫苑は胸中に当惑を残しながらも、袖口から取り出した手巾を差し出した。畳まれきちんと火熨斗の当てられた手巾の角が触れると、東克の骨ばった指先が震える。だがそれは一瞬のことで、彼はすぐにしっかりと手巾を掌中に握った。

「交渉成立かな?では、我々は行くとしようか」

碧映は紫苑の手をとる。

「え、今からですか?まだ準備も何も――」

「生活に要するものは全て此方の方で用意してあるから、何も心配いらないよ」

碧映はそう言って紫苑の手を引き、門へと誘おうとする。

「お待ち下さい。何もこんな夜にお嬢様をお連れにならずとも」

距離をおいて成り行きを見守っていた阿僑が一足飛びに駆け寄り、紫苑の肩をしっかと掴んだ。碧映はそんな阿僑の姿に、にっこりと美しい笑みを浮かべた。

「相変わらずの忠誠だね、阿僑。主が心配ならそなたも共に来るが良い」

阿僑は頷きかけたが、瞬間思いとどまり、もう一人の主人である東克の方を見た。東克は、感情を殺したような顔で、声を絞り出す。

「――頼んだよ、阿僑」

「承知しました」

「交渉成立かな。では、我々は失礼するよ。今宵は朔夜だからね」

そう言って、碧映は紫苑たちと連れ立って今度こそ門へ向かう。楼閣をくぐろうとしたとき、紫苑が後ろを振り返る。夕闇が濃さをます中、その表情は些か判然としない。

――ごめんなさい。

紫苑は心の中で呟き、再び前を向くと敷居を跨いだ。


 愛娘の小さな背が薄暮に消えてなお、黄金の瞳はその残像を追い続ける。彼女の去り際の呟きが胸中に去来し、身体の奥深くに閉じ込めた感情を揺さぶる。

 ふと、肩にほっこりとした質量を感じる。振り向くと、守衛装束で槍を脇に抱えた深貫が、気遣わしげな目を向けていた。

「ありがとう。私は大丈夫だ」

「旦那様」

東克は一面藤色に染まった空を見上げる。あともう少しすれば、あれがより動きやすくなるはずだ。

「今しばらく、独りにしてくれないか」

「――はい」

心配そうな顔のまま、深貫はそっと主の肩から手を外し、門の外へと出ていく。東克は回廊から書斎に入ると、静かに椅子に腰掛ける。黄昏の終わりのほのかな明かりが影を包む。

『運命は変えられぬ。受け入れてこそ道を得るのです』

瞑目した東克の頭の中を、碧映からの伝言が巡る。と同時に白髪の、小さな老婦人の姿が瞼の裏に浮かんだ。その能力のためか、比較的短命な者の多い白一族の中で、彼女だけは例外で、齢80を越えようかという今なお健在だ。

「相変わらず、だな」

東克は自嘲気味に嗤う。出生時の「姿見」といい、冷遇から一転厚遇された時といい、宗主時代といい、彼女には色々な意味で世話になりっぱなしだ。自分の「予見」の力も、彼女の言葉なしには見抜かれも覚醒もしなかったのだから。

『長殿、どうしてありもしない力のことを父に話したのですか。あなたが言いさえしなければ、私も普通の暮らしが送れていたはずだ。なのに、どうして』

 まだ離れに閉じ込められていた頃、鄭家の屋敷を訪っていた彼女にぶつけたことがある。碧映のような力が戻れば出してやる、と言われたものの、幼い頃には確かにあったはずの力は取り戻すどころかどんどんと薄れていく。父が白家の長の言に拘泥しなければ、過度な期待を受けることも、そしてその反動により苛烈な仕打ちを受けることもなかった。優れた力を持つ碧映を後継と定めることで、全ては丸く収まったはずだった。

 自己嫌悪とやるせなさで爆発しそうな気持ちを必死に抑えていた東克に対し、彼女は目深に被った頭巾を押し上げ、凪いだ赤い瞳を向けると、静かにこう言ったのだった。

『運命なのです。偽りを言うことはできません』

 椅子に一層深く身体を沈ませると、東克は疲れを滲ませた顔を天井に向ける。ふうっと大きく息をついた時、東克はようやく、渡された手巾を手にしたままだったことに気づく。固く握った左手は痺れ、火熨斗をかけられていたはずの手巾にはすでに幾つも線が入っている。急いで手巾を開くと、真ん中に大判の図柄が現れる。

「――」

一瞬押し黙ると、東克は指の腹でそっとその表面をなぞる。自分が所望した、紅白の梅の花弁。時折不揃いな縫い取りが触れ、目尻がふっと緩んだ。

『それが運命ならば、私は喜んで受け入れますわ』

不意に、鈴の音のような澄んだ音が重なる。

「芳媛、君もそう言うのかい」

残雪に陽光が跳ねる早春のある日、内廷の奥の梅林で見かけた高貴な女性。むせ返りそうな濃密な香りの中、彼女は髪飾りを全て外し、純白の舞装束に身を包んで軽やかに舞っていた。春の訪れを寿ぐ、歓喜の舞。だがふとした風が長い漆黒の髪をかきあげたとき、彼女の瞳から溢れる涙に、身体の奥深くに忘れた何かが動いた。濡れた頬を乾かすために躍動しているかのような姿に、ひたすら目を奪われた。爾後、その彼女が妃嬪だと知り、自分が抱いている感情が情愛の念だと分かり、先帝の計らいにより「病死」扱いと引き換えに出宮が許された。妃嬪の地位という栄華を捨て、建前とは言え亡き者とされることに対して、恨んでいないかと尋ねた時、彼女は匂いたつ紅梅のような美貌に極上の笑みを浮かべ、それが運命なら喜んで受け入れると言った。紫苑が生まれたあの夜も、そうだった。

 不気味な夏の夜だった。どこを探しても雲間は見えず、稲光が雲を赤黒く照らす。一体どれほどの時間回廊を行ったり来たりしたか分からない。回廊奥の産室から女性のいきむ声が漏れ聞こえてくる。時折大きな呻き声が響く度、爪が食い込む程に両手の拳をぎゅっと握りしめた。中途でついに雷雨に見舞われ、甲高い叫び声はかき消される。吹き込む雨で衣服がずぶ濡れになり、深貫が着替えを促しても、構わず居続けた。辺りが一瞬閃光に吞まれ、喉の張り裂けんばかりの金切り声が雷鳴にのまれた時――気付けば自分は産室の前にいた。侍女や深貫たちが縋って止めるのもふり払って、産室の戸を開けた。生温い臭いが充満するなか、中に入って、そして――。


 ふう、と再び深いため息をつくと、東克は徐に立ち上がる。書斎を出て回廊に立ち、指笛を鳴らす。鋭い高音が夕闇の迫る藤色の空を裂くと、しばし後、何処からともなく鳥の羽音が飛んでくる。東克が腕を伸ばすと、舞い降りてきた漆黒の隼は大人しくその腕に止まった。

「久しいね。元気だったかい」

東克が頭を撫でると、隼はくすぐったそうにぱっちりとした青い目を細め、胴を擦り寄せる。黄金色の瞳になった東克は、隼の頭を包むように手を載せる。隼の円な瞳がぱち、と見開かれる。そして優雅に片足を上げると、東克の目の前に差し出す。

「いい子だ」

東克は袖をまさぐると、紫苑から手渡された薄桃色の手巾を取り出す。骨ばった長い指がやや不揃いの紅白の梅をそっと撫でる。しばしのち、彼は手巾を開き、差し出された隼の足にゆわえた。

「じゃあ、頼んだよ。長どのによろしく」

再び腕を空中に伸ばすと、隼は桃色の残像とともに勢いよく飛び立って行った。

 彼方に消えた羽音を見送り、東克が踵を返すと、回廊の向こうから静かに深貫が近づいてくる。

「ずっとあれの世話をしてくれて、ありがとう、深貫」

落ち着いた眼差しに、深貫は少しくほっとした表情を見せた。

「そんな。アオ様をお世話できるのは光栄なことでございます」

「あれは他には懐かないからね。――生まれた時、私の側にいたお前のことも親だと思っているのだろう」

東克は遠い目で隼の去った空を見つめる。父の心無い言葉に、絶望の淵まで追い詰められた日。深貫の腕の中で、ようやく泣くことを思い出しひたすら涙を流し続けたあの日。涙が枯れた時、金色の瞳と共に生まれたのがあの隼、アオだった。東克と深貫にしか懐かないアオは、東克の意思を伝える「使役鳥」として宗主時代を支えた。芳媛と暮らし始めてからは、鄭家との繋がりにけじめをつけるためだと、深貫に預けっぱなしにしていたのだった。

「久しぶりにお側に戻れて余程嬉しかったんでしょう。口笛が聞こえるやいなや、矢も盾もたまらずすっ飛んでいきましたから」

返答の代わりに、東克は口元に自嘲気味に笑みを刻む。けじめをつける、などと格好の着く言い訳をつけていたが、実際は、「分身」を目にして過去と向き合うことが嫌だっただけなのだ。

「これで良かったのだろうか」

呟きは濃紺の帳の下りた空に消える。この言葉をこれまで何度口にしたことだろう。口にして、迷って、行動しても、結局彼女と鄭家の縁を切り離すことはできなかった。ならば今からは、彼女の望みをかなえる後押しをしてやることが、親として、せめてもの罪滅ぼしになるかもしれない。

 東克は濃紺の空の彼方を祈るように見つめると、書斎へと戻っていった。

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