第5話 求是②
再び並んで寝台に腰掛けた二人を、昼下がりの柔らかな陽光が照らす。激情から解き放たれ、部屋は穏やかさを取り戻している。阿僑の表情も普段の和やかなものに戻っている。悩みの消えた安堵の顔。だが紫苑の心中はというと、阿僑とは対照的な状態と言える。平静に戻った頭は思考の速度を早め、色々な可能性が浮かんでは消え、を繰り返す。さしずめ、嵐の前の静けさといった状態である。紫苑は手中の杯を傾け茶を口に含む。冷めてもなお香り高い、極上の茶。これは東克の愛情の証だと阿僑は言う。それが嘘だとは思わない。だが、だからこそ、全てを隠されていたことに対し複雑な気持ちになってしまう。困惑と、怒りと、不信と。色々な感情が混じり合った不明瞭な色が胸中を侵蝕する。
「そういえば、どうしてこれまでお母様のことを黙っていたの?」
胸中を悟られないよう努めて平静を装いながら、紫苑は阿僑に問いかける。母のことも、東克に対する不信感の一要素だ。今となっては不可思議にしか思えないが、東克から説明されるまで、自分には母がいないと気づくことなどなかった。碧映の闖入がなければ、石飾りや母のことを知ることはなかったであろう。
「旦那様のご指示だったのです。事実を知れば、お嬢様がお悲しみになるだろうからと」
「どうしてお亡くなりに?」
「それは」
阿僑は躊躇したが、覚悟を決めたように口を開く。
「相当な難産だったのです。出血が酷くて――お嬢様を産み落とされたのち、程なく」
「そうだったの」
「大変に危険な状態でした。医者から、万一の時には母子どちらを助けるかと問われ、旦那様はお嬢様を救うようお命じになりました」
「――」
「旦那様はずっと悩んでおられました。どちらを選んでも、かけがえのない人を失うことに変わりはないわけですから。双方とも救える余地はないのか、医者に何度も詰め寄っておられました。急遽別の医師も呼び寄せたほどです。だから、お嬢様に対しても、自分の選択によって母を失わせたと、すまなく思っていらっしゃったのです」
俯き加減で語る阿僑の頬を、いつの間にか一筋の涙が伝っている。情に厚く実直な性格の彼女のそんな様に、紫苑の胸中にたちこめる怒りや不安は徐々に薄れていく。
「――お母様のお墓参りがしたいわ」
紫苑はぽつりと呟くと少し上背のある阿僑を上目遣いで見る。
「あるんでしょ、お母様のお墓」
「お嬢様――」
阿僑が紫苑を見つめ返す。その表情は少し泣きそうなものに見えた。彼女の手が紫苑の後ろに伸び、そっと華奢な手を撫でる。
「どうしたの?」
「お嬢様は、既によくお参りされていますよ」
「え?」
「――阿僑がご案内いたしますね」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ、すぐに行きたいわ」
紫苑が立ち上がると、阿僑がさっと肩から外套を羽織らせる。
阿僑に付き添われ、紫苑は庭に出る。そのまま突っ切り、母屋を背に石畳を歩み始める。
「阿僑、もしかして」
途中から薄々勘付き始め、紫苑は阿僑の凜とした横顔を見上げる。阿僑は一つ柔らかな微笑みを返すと、歩みを促す。熊笹の間を抜けると古びた祠が現れる。屋敷を建てる前からこの地にあったという土地神の祠を前にして、阿僑は足を止め跪いた。
「芳媛様」
石畳に手をついて跪拝する阿僑の姿を見て、紫苑は自分の予感が当たっていたことを悟る。
――お母様。
ずっと言えなかった言葉を心の中で呟きながら、紫苑はゆっくりと祠に近づき、祠の屋根にそっと左手を伸ばす。苔むした屋根がひんやりと手のひらに吸い付く。
――お母様、紫苑です。お母様――。
心の中で連呼しつつ、紫苑は目を閉じる。瞼の裏の祠の残像が消えると、手のひらから伝わる心地よい感触が緩やかに全身に回ってくるような気がする。
「芳媛様はお嬢様のご誕生をずっと心待ちにしてこられました。今こうして成長なさったお嬢様の姿に、きっと喜んでいらっしゃると思いますよ」
拝礼を終えてなお跪いたまま、阿僑が言う。紫苑はゆっくりと目を開ける。折しも切れた雲の合間から淡く橙色が溶けた光が差し込み、祠を後ろから照らす。
「――そうね。きっと」
屋根から手を離すと、紫苑は噛み締めるように呟いた。
祠を後にし、二人は石畳を戻る。その先の回廊に佇む長身を目にして、紫苑の口元が引結ばれる。外から戻る度、祠に手を合わせてくる紫苑を、彼はいつもこうして回廊に立って迎えてくれていた。
「紫苑」
二人が回廊に近づくと、東克が少し固い声で言った。阿僑が心配そうな目で窺い見たが、紫苑は大丈夫だというように目配せをしてみせると、回廊へと歩を進める。
「お父様」
紫苑は東克の前までくると、決然とした表情で呼びかけた。娘の声を聞いて東克は少しほっとした顔になり、その場に腰を下ろした。
「まだ、お父様と呼んでくれるんだね」
東克の声に切なさが混じる。いつもと違い見上げてくる格好になった東克は、どこか寄る辺なく、彼自身の傷心の証にも思えて、紫苑はちくりと胸が痛んだ。
「全て聞いたのだね。簪のことも、お母様のことも」
紫苑がこくりと頷くと、東克は伏目がちに深く息をつく。そして掬いだすように呟いた。
「何もかも、私のせいだ。だから、恨むなとは言わないが――」
紫苑は改めて父の漆黒の瞳を見つめ、深呼吸した。丹田に力を籠める。父がしたことを思えば確かに腹は立つし、不信感も募る。それでも自分の記憶の中の父からの愛情を、紫苑は信じたかった。
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