第4話 求是①

書斎に入ったはいいものの、二人はだまりこくったまま向かい合って座っている。互いに何から切り出せば良いのか分からず、きっかけを探すかのように落ち着かない目をしている。何よりこの状況は、東克が紫苑に翡翠の腕輪を与えた時と一致している。だからこそ、互いに何も言えず、聞けないのである。

「旦那様、お嬢様、お茶が入りましたよ」

折よく足音が聞こえ、阿僑が盆に茶器を載せて入ってきた。いつも飲む茶とは香りが違う、と紫苑が思っていると、湯を注ぎながら阿僑が答えた。

「龍井茶です。この前夏さんが置いていきました。心を落ち着けるには最適でしょう」

紫苑は澄んだ淡緑色を一口含む。柔らかい苦さが舌を撫でるのに続いてほのかな甘みが馥郁と薫る。

「確かに。落ち着くいい味だわ」

「それはようございました。ーー旦那様もどうぞ。少しは気がほぐれるかと」

「ああ」

東克も杯に口をつける。そうして互いに最初の杯を空けたところで、雰囲気を窺いながら阿僑が東克に言う。

「旦那様、もうよろしいのではありませんか。いずれはお嬢様にお話ししなければならないことです」

「ーー」

「それに、阿僑も存じていないことがありますよね?この先お嬢様をお守りする上でも必要かと」

東克は杯を置き暝目する。刻を凝縮したかのような間を空け、重々しく瞼が押し上げられる。長いまつ毛の下から現れた金色の虹彩が、紫苑を真っ直ぐ見つめた。紫苑は思わず息を飲む。差し込む陽光を受け煌めく様はあたかも宝石のようで、とても美しく思えた。黒目がちな瞳を見開いたまま絶句する娘の姿を見て、彼はすぐにまた普段の漆黒の瞳に戻った。

「やはり、奇怪に見えるか」

自嘲気味に呟いた東克に、紫苑は首を振る。

「そんなこと」

東克は改めて「目」で見ようとしたが、そうはせず少しほっとしたような表情を浮かべる。その様子を見て阿僑は微笑み、茶のおかわりを注いだ。東克は杯を持ち上げ、冷ますようにゆるりと回す。

「さて、どこから話したものか」

しばし逡巡した後、彼は杯を置き、重い口を開く。

「紫苑、『丁』という一族について聞いたことはあるかい」

「丁?確か史書に記述が」

『皇家の危を丁が祓う』建国史に記された一文である。建国から間もない二代皇帝の治世、未だ帰属せぬ辺境の豪族たちが民心の乱れを理由に大規模な反旗を翻しかけたことがあったが、その際皇帝側に立ち平定に尽力したのが丁一族だったとのことである。だが丁の名が出てくるのは確かその一節のみで、それ以外の詳細は不明だ。

「丁一族が反乱平定に尽力したのでしたよね」

「流石だ、その通りだよ。ではその一族がどのようにして協力したか、分かるかい」

「いいえ。史書には記述がなかったはずですわ」

「ああ。表立っては言えない方法だったからだよ」

「どういうことですの?」

「『人心を見通す力』だ。それが何を意味するか、聡いお前なら分かるだろう」

紫苑は予想もしていなかった返答に驚く。と同時に、父の言葉の意味を直感的に悟った。心を読める力。そんなものが実際にあるとすれば、それは間違いなく強大な武器となる。敵将の思考や次の一手を読めるのだから、当然戦況は非常に有利になる。だが一方で、父の言うとおり、その力は「奥の手」として隠しておくことこそ利となりうるものだ。仮に猜疑心の強い皇帝であれば、その力を用いて味方を偵察することも十分に考えられる。皇帝に肚を探られている、などと広まろうものなら、臣下の忠誠心や紐帯が揺らぎかねない。まさしく「諸刃の剣」だ。

「確かに、敵味方問わず、隠していた方が良さそうですわね」

「はは。やはりお前は賢い」

東克は関心したように言い、茶で口を潤すと言葉を継いだ。

「その力が私やお前に備わっていると言ったら、どう思う?」

「え」

「私もお前も、丁一族の末裔だ。一族の者は一見他の者と変わらぬが、目の色が異なる。見ただろう、黄金の目を。あれこそが証なのだ」

紫苑は目を見張る。話の流れからして薄々勘づいてはいたものの、実際に父の口から聞くとやはり衝撃的である。

「ならば、私にもその力が備わっているということでしょうか」

「その通り」

「ですが私の目は皆と何ら変わりありませんわ」

紫苑は首を傾げる。鏡の中にいつも映るのは漆黒の瞳である。事実、東克や阿僑はその黒目がちな瞳を美しいと褒めてくれていた。少なくとも自分の認識している限り、そこに別の色が混じることはなかったはずだが。

「阿僑、鏡を持ってきてくれる?」

紫苑が阿僑に向かって言うと、彼女は一度瞑目してから静かに口を開く。

「お嬢様。力が目覚めていない限り、瞳の色が変わることはないそうでございます」

「ーー阿僑も知っていたのね、この力のこと」

「はい。黙っていて、申し訳ありません。ですが阿僑も旦那様と同じく、ひとえにお嬢様のことを思ってのことでした」

力なく目の前に跪き項垂れる阿僑の肩に、紫苑はそっと手を置く。彼女の普段の献身を見れば、嘘偽りなどないことは明白である。それに屋敷の主人である東克の言い付けであれば、逆らえなくて当然だ。

「それよりもーー」

阿僑を立たせ、紫苑は改めて東克に対して向き直る。

「なぜ全てを隠していたのですか?確かに驚くべき事実でしたけれど、出自すら偽る必要はあるのですか?どうして商人の家だ、などと嘘を?」

問答を続けていても埒が明かない。そう思い、紫苑は思い切って父に問いかけてみる。東克は東克で娘からの問いを覚悟していたようで、表情を引き締める。

「それはーー私が鄭一族の宗主だったからだよ」

「つまりは、一族の長でいらしたと?」

「ああ。ちなみに現宗主は、先程ここに来ていた碧映だ。私の妹に当たる」

東克は茶を一口飲むと、自らの過去を語り始めた。先先代皇帝の時代、一族の長だった東克は皇帝の思いつきで始められようとしていた西辺境の王領への侵攻を止めたいと思っていたが、弱冠16歳の若すぎる宗主であった彼には良い思案などなかった。そんな折、当時壮齢の皇太子だった先代皇帝が、皇帝を退位させる計画を持ち掛けてきた。計画の成功を予見した東克は、一族を挙げて皇太子に協力することを決めた。事が成就し晴れて即位した先帝の下で、彼はいわば「懐刀」として、治世の安定のため宮廷の内外で暗躍したという。

「その時内廷で出会ったのが、お前の母だ」

東克は一呼吸置くと、徐に瞬きをする。再び現れた黄金の瞳に紫苑は魅入られる。するとじんわりと頭の中に何かの像らしきものが現れる。最初は曖昧模糊としていたが、次第に一人の女性を形作る。と同時に、紫苑の頭の中である概念が嵌合する。

「これが、『お母様』なのね」

生まれて初めて口にするその言葉はほんのりと甘く、喉の奥に融けていく。これまで母という単語自体は当然知っていた。だがその単語には妙に現実感が遊離していた。そのため、誰かが自身の母について話をしても、そこから紫苑自身に母がいないということに思い至ることはなかったのである。

「お綺麗な方だわ」

頭の中にいるその女性は、抜けるような白い肌にくっきりとした黒目がちな瞳をした、梅の花を思わせるとても美しいひとだった。ややぽってりした桃色の唇が清らかな中に一雫の婀娜っぽさを添え、白梅や蝋梅よりも蘇芳色の紅梅という印象である。

「内廷ということは、女官でいらしたのね」

紫苑が呟くと、東克は元の黒い目に戻り、なぜだかバツの悪い顔になる。そして少し押し黙ってのち、答えた。

「彼女ーー薛芳媛は、先代皇帝の妃だったんだ」

紫苑は思わず息を呑んだ。と同時に、朧げながら事の顛末を理解した。朝廷や政治には疎い彼女でも、皇帝の妃と私通することの重大さは分かる。死罪をも免れない事態。だがこうして父が生きながらえ自分も生まれているということは、恐らく「表立っては言えない」手段を講じたのだろう。とすればーー。

「まさか、駆け落ち?」

紫苑が呟くと、東克は苦笑しつつも首を振った。

「実質的にはそうとも言えるね。けれど一応、陛下からのお許しは得ているよ」

東克の言によれば、大病を得て老先が短いことを悟った先帝が、自分亡き後二十歳にもならない若い芳媛が太妃として生涯宮廷内に囚われとなるのを憐れみ、彼女と密かに恋仲にあった東克と添うことを許したらしい。だがやはり体面があるため、表向きは東克は病のため隠居、芳媛も急死したということにしたという。

「その折に陛下から賜ったのが、この屋敷だった。皇都の外れだから目立たず、かと言って不便でもない。世間では死んだ身となるかと覚悟していたが、功臣だからと最大限の温情を下さったことに驚き、感激した」

「先帝は本当にお優しい方だったのですね」

そう言ってから、紫苑ははたと違和感を覚えた。東克を始め一族の力は「人心を見透す」ことができるはずである。だが今しがたの感じからすると、東克は先帝の心を読んでいなかったことになる。

「お父様、陛下のお心は読んでいらっしゃらなかったのですか?」

「そうか言っていなかったな。昔、一族が皇家に帰順した折、従心の証として宝物を献上したのだ。その宝物には我々の力を制約する作用がある。だから皇帝の心中を読むことはできないのだよ」

「そういうことだったのですね」

すると一呼吸分の間ののち、東克が紫苑に手を伸ばす。

「あの腕輪を出してみなさい」

紫苑は右手首から例の翡翠の腕輪を抜き取ると東克に渡した。彼の瞳の色は変わり、手のひらに載せたそれを真剣な顔つきで凝視する。しばらくして、彼は得心がいったという風にため息を漏らし、腕輪を紫苑に返す。

「どうかなさって?」

「いや、何でも。それは碧映の言う通り、右手につけるといい」

「どういうことなのですか」

訝る彼女に、東克は続ける。

「その腕輪は、皇帝に献上した宝物と同じ材質でできている。この意味が分かるかい」

紫苑は改めて渡された腕輪を見つめる。精緻な文様の彫られた美しい常盤色は、部屋に漏れ込む光を受けて、前と変わらず柔和な輝きを放っている。

「ーー腕輪をつけて私の力を抑えようとなさった、ということですわね?」

紫苑の答えに、東克は哀しげな微笑みを浮かべて肯定の意を示す。

「なぜそんなことを?」

今までそばで控えて黙ったままだった阿僑もここでようやく口を開く。

「お嬢様のことをお考えになってのこととは承知しておりますが、果たしてここまでする必要があったのでしょうか?簪で十分だと仰っていたではありませんか」

その発言に、紫苑は阿僑を二度見する。

「簪?」

阿僑は東克の顔を窺う。それに目配せで応じると、彼は手にした杯を卓子に静かに置く。阿僑を紫苑の横に座らせたところで、東克の金色の瞳が二人に注がれた。

「見せた方が早いだろう」

その言葉に続いて、紫苑たちの頭の中に光景が帯となって流れ込んできた。


ーー

 

 陽光が差し込む書斎で、二人の男たちが卓子を挟んで向かい合っている。歳の頃はいずれも30代前半。卓上には底の浅い平たい箱が置かれている。

「これを見てくれるかい」

奥側に座っている男は東克である。彼は懐中から小さな錦の袋を二つ取り出し、目の前の男ーー夏良起に渡す。良起が無骨な指でそれぞれ袋を開けると、片方からは淡い紫色の石飾りの、もう片方からは桃色の石飾りのついた、それぞれ小ぶりな簪が出てきた。彼はそれを変わるがわる手のひらに載せて観察していく。逞しい腕が時折赤銅色に照らされる。しばらく矯めつ眇めつしてから、彼は神妙な面持ちで顔を上げた。

「どうだい?やはり、強いものでは難しいか」

「はい。東克様のご懸念通りかと」

良起の言を受けた東克は険しい顔を更に曇らせ、良起から返された2本の簪を見つめる。桃色の石には何の変化もないが、一方の紫色の石には中にヒビが入っている。

「作用の穏やかな石はこの子の力に干渉することもできない。だが、干渉しうる強い石を使うならば、力に耐えうるほどのものなければならない、ということか」

「残念ながら、その通りかと」

東克は改めて濃い紫の石飾りを見つめる。元来穏やかな性質の紫水晶ではあるが、色が濃くなればなるほど力はより強力になるという。

「もっと濃い色のものはないのか」

東克が紫水晶の簪を良起に渡しながら言う。良起は改めて石を見てみるが、再び東克に向き直った時には、難しい顔になっていた。

「あるかもしれやせんがーー」

「どうした」

「この水晶ほどの濃さを持つものは、10年に一度出るかどうかです。この先出ないとは限りやせんが」

「ーー」

東克は黙ったままこめかみに手をやり、考えを巡らせる。性質のきつい石を使えば、下手をすれば娘から漏れる力に干渉し衝突することで、かえって彼女の力を目覚めさせることになってしまうかもしれない。だから性質が穏やかでありながら、ある程度確たる力を持つ紫水晶にかけていたのである。だが成長につれてそれも限界が見え始めているのも事実だ。

「あのう、東克様」

厳しい表情のまま思案を続ける東克を見かね、良起が窺うように声をかける。

「ーーどうした」

「俺が口を出すことではないかもしれやせんが、やはり、お嬢様の力を封じるというのは難しいのでは」

「良起」

「お嬢様に対する東克様のお気持ちは重々承知しておりやす。だからこそ、きつい石を使うのは避けてこられたんでしょう?」

「ーー」

「俺は長さまのように、力自体を直にみることはできやせん。でも感じることはできる。あれほど強いのは、東克様と碧映様くらいで」

「その名は口にするな!」

東克の周りの空気が一変する。鋭い眼光で一睨みされ、良起は蛇に睨まれた蛙のように身を縮こませた。

「申し訳ありやせんーー」

屈強な体躯が消え入りそうな声を絞り出すと、ようやく刺すような冷気が緩む。

「さてと」

東克は肘をつき、両手の長い指を交差させると、感情を排したような目で思案を始める。穏和な石は、もう使えない。だからと言って強い石を使うのは、危険が伴う。だがそれでもあの子を守れるのなら、それも仕方のないことなのかもしれない。

「良起、鳳凰山の翡翠はどうなっている?」

鳳凰山、という単語に、良起の太い眉が跳ねる。

「あの翡翠ですか?あれなら、皇帝への献上品とするため研磨の最中ですが」

「そうか。なら本家には、細工途中で割れてしまったと報告しておきなさい」

「へ?」

良起のぎょろりとした目が見開かれ、間抜けな声が漏れる。そんな反応には構わず、東克は続けた。

「どのみちまだ本家から皇帝への報告はまだだろう。あれは慎重な性質だから、加工が全て終わってからしか報告しないだろうからな」

「東克様?」

良起の怪訝な顔を、東克は凪いだ目で見る。良起の背を、瞬時に変な汗が伝った。端正で雅やかな風貌の主人が、時にそれとは不釣り合いな雰囲気を醸し出すことを、良起は知っている。血の臭いなど一切しないのに、人を殺めた直後特有の凄みのようなものが良起を気圧してくる。

「良起、お前なら良い腕輪が作れるだろう?」

威圧感はそのままに、東克はあくまで淡々と告げる。

「腕輪、でございやすか。確かに献上品も何度か作りましたが」

そこで良起ははっと東克の意図に気づく。

「もしや、その腕輪をお嬢様にと?」

「よく分かったね。あの翡翠であれば、あの子の力を完全に埋めることができるかもしれない」

淡々と言葉を発する口元にはうっすらと酷薄な笑みさえ刷かれている。その異様な様子に、良起は目を剥いて大声を上げた。

「お待ちくだせえ!そんなことをすればどうなるか、東克様ならよくご存知のはず。あれは怨霊の封印などにも使える石。だからこそ、鄭一族の強い力を通さないためにいつの代かの皇帝に献上したものではありませんか」

「ーーそうだな」

「以来、あれに匹敵するほどのものは見つかっていなかった。でもようやく、しかもまたあの鳳凰山で見つかったんです。それがどれほどの力を有するか、東克様はご存知のはずです!」

「ああ。無論、知っているとも」

「じゃあ、なぜ!?下手をすれば、お嬢様が一生心を病んだままになる可能性だって!」

「承知の上だ」

良起が詰め寄ろうとも、熱弁を振るおうとも、東克はまつげの一本すら動かさない。むしろ詰め寄られるにつれ、却って薄寒いほどの静けさを保っているように見える。凪いだ目のまま、東克は更に続ける。

「献上した宝物は、皇帝側に作用するものではなく、我々の力を弱めるものだ。しかもその対象は歴代の宗主。強い力を持つものに対してこそ効力を発揮するらしい。私自身も体験して分かった。だから、その原理を応用するんだ」

「応用?」

「これまでは、術者から放たれた力が弱化の作用を受けていた。だからこれを、術者本人に身に着けさせれば、本人の力を体内の奥深くに留めることができるだろうと思うのだ」

「そんな、ことが」

「長どのに訊いてみるといい。恐らく可能なはずだよ」

そう言うと東克は、静かに両手の指を組んで瞑目する。良起は何か言いたそうな様子だったが、とりつく島のない東克を見て口をつぐんだ。

 

 そのひと月後。


 昼下がり。東克の書斎を木箱を捧げ持った夏良起が訪う。剛毅な顔を神妙な面持ちにして、彼は黙ったまま東克の前に木箱を差し出した。東克は木箱の上に手をかけると、ふうっと一つため息をつき、徐に蓋を取る。中からは螺鈿細工の施された小箱が出てきた。

「どれ」

東克の瞳が黄金色に変わる。全てを透徹するような視線が見守る中、小箱の蓋が開く。長い指が幾重の紗を取り払うと、ついにその中身が現れた。森林を思わせる深い緑色の腕輪

を目にし、東克は思わず息を呑む。

「これが、鳳凰山の翡翠か」

東克は右の手の平に腕輪を載せると、一層鋭い視線を注ぐ。周りの空気は一気に硬直したように冷たくなり、良起はぞくりと身震いした。

「ーーやはり、半々か」

張り詰めた雰囲気を破ったのは、諦めにも似た東克の吐露だった。

「何か、問題でも?」

恐る恐る良起が尋ねると、東克は元の漆黒の瞳に戻り腕輪を慎重に小箱に戻した。

「いや。よく出来ている。感謝するよ」

「ならば良かったですがーー」

「だが、やはりこれをつけても、あの子の力を抑えられる可能性は半々だろうな」

難しい顔のまま、東克は呟いた。そんな東克を良起は理解に苦しむという顔で見る。

「ーーあのう、本当にお嬢様に着けさせるつもりなんですか」

良起の問いかけに、東克はふっと自虐的な吐息を漏らした。

「紫苑をあの一族に巻き込むわけにはいかないんだよ。あの家で、俺がどんな生き方を強いられてきたか」

「ーー」

「あの子の内に秘められた力が如何ほどのものか、石を扱えるお前なら分かっているだろう?一族がそのことを知れば、間違いなくあの子は巻き込まれてしまう」

「東克様のお嬢様への思いが人一倍深いことは分かっておりやすーーそれでも俺は、やっぱり賛成できません」

「だろうね。普通の人間だったら、こんなことはしないのかもしれない」

「だったら!」

詰め寄った良起に向かって、東克は口元に淋しげな笑みを浮かべる。そしてまた、あの、感情を排した目になって虚空を見つめて呟いた。

「私はね、良起。あの子を守るためだったら何でもやると、芳媛に誓ったんだ。あの子を一族の宿命から解き放ってやれる可能性が少しでもあるなら、何だってやるさ。たとえ苦痛を与えることになったとしても、苦難の道を歩ませずにすむ」


ーー


 眼前の映像が揺らぐ。紫苑が顔を上げると、少し不安げな目で見つめる東克の漆黒の瞳があった。

「これが、お前にあの腕輪を着けさせようとした理由だ」

紫苑は言葉を返すことができない。今しがたのあれは、本当に事実なのか。まるで当てのない夢に迷い込んだようだ。夢の中、東克や良起の会話は、これまで自分が見ていた世界を覆すのに十分なものだった。自分が知っている、娘を溺愛しその装身具を選んで買い与えるのを悦びと言って憚らない数寄者の父と、その父に代わって家の「商売」の一切を取り仕きり珍しい宝石や茶を持参して度々出入りしてきた良起。

 けれどその姿は表面のものにしか過ぎなかった。

 当惑し黙ったままの紫苑に、東克が手を伸ばす。やや骨ばった指の長い大きな手。今までは優しい父の温かな手だとしか思わなかった。だが今はもう、それすら根拠のない夢想のように思える。

「ーー」

困惑した表情で何の反応も示さない娘の様子を見て、東克は差し出した手を引っ込めると、口元に乾いた自嘲の微笑みを刻む。

「旦那様、ひとまずお嬢様を部屋にお連れしてよろしいでしょうか」

黙ったまま二人の様子を窺っていた阿僑が、椅子を鳴らして立ち上がり、澱みかけの空気を破る。

「ーーそうだね。よく休ませてやりなさい」

「かしこまりました」

阿僑は半ば茫然自失の体となっている紫苑の腕をそっと引き、立ち上がらせる。力なく書斎を後にしていく娘の背を、黄金の瞳が祈るように見つめていた。


 乾いた冬の空に甲高い鳥の声が響きわたる。紫苑は寝台に腰掛け、障子窓に映る庭の椿の影をぼんやりと眺める。椿の花は原型を保ったまま美しく落ちる。縁起が悪いと忌む人もいると聞くが、木の根元に大小の紅が点在する様を、紫苑は昔から美しいと思っていた。東克もそれを承知しており、だから離れ付近の一角には椿が多く植えられている。窓に映る椿なぞ、斑入りの珍しい品種をわざわざ良起に取り寄せさせたものである。どれも自分に対する父の愛情の証左だと思っていた。

「なのに、どうして」

力ない呟きは火鉢の炭が爆ぜる音に押しやられる。そっと戸を叩く音がして、阿僑が盆を手に入ってきた。寝台脇の卓上に茶器を置くと、彼女は行火をそっと紫苑の膝に載せ、いつもと変わらぬ手際の良さで茶を淹れる。たちまち芳しい茉莉花の香りが辺りを包む。

「さ、どうぞ」

差し出された茶を少しずつ口に含むと、青白かった紫苑の肌は徐々に生気を取り戻す。

「少しは落ち着かれましたか」

紫苑がこくりと頷くのを確かめて、阿僑は紫苑の隣に腰を下ろすと、そっと背を撫でる。

「ーー阿僑」

慣れ親しんだ感覚の心地良さに、紫苑は乾いて毛羽立った心が徐々に潤いを取り戻していくのを感じた。物心ついたころから彼女はずっとそばにいてくれた。幼い頃、暗闇が怖くて寝付けなかった紫苑を、彼女はよくこうして落ちつかせてくれたものだ。

「ありがとう。もう大丈夫よ」

紫苑がそう言うと、阿僑は安堵した顔になる。だがそれも束の間、すぐに申し訳なさそうな表情になって立ち上がり、紫苑の足元に平伏した。

「阿僑!?」

驚いた紫苑は慌てて身を屈め、立ち上がらせようとする。だが、阿僑は頑として頭を上げようとしない。

「急にどうしたというの!早く立って頂戴」

「お嬢様ーーどうか、私を罰して下さいまし」

「罰するだなんて。阿僑は何も悪いことはしていないじゃない」

「いいえ。私がお嬢様にしたことは、決して許されることではありません。どうか、罰を」

阿僑はそう言って頑なに罰を乞い続ける。一度言い出したら梃子でも動かない性質であることを、紫苑はよく知っている。

「分かったわ。じゃあ、罰として、知っていることを全部話して頂戴」

「それは無論そうするつもりでございました。だから他の罰をーー」

阿僑は額を擦りつけんばかりに懇願する。紫苑は寝台から立ち上がると、平伏を続ける阿僑の傍にしゃがみ、その手を取った。阿僑がはっと顔を上げる。

「阿僑。あなたが私のことを何より大事に思ってくれていることは分かっているわ。私に良かれと、お父様の命に従ったのでしょ?」

「ーーですが、結果的にお嬢様を害してしまったことに変わりは」

ぱっちりとした鳶色の目が潤む。溢れ出した涙を紫苑は自分の袖で拭ってやる。

「もう過ぎたことよ。私は大丈夫だったのだから気にしないで」

「ーーお嬢様」

「私は、阿僑が悲しい顔をするのが一番寂しいわ。これからもずっと側にいて頂戴」

「ですが!」

「ほら、まずは立って。罰として全て話してもらうって言ったでしょ。立ってくれないと話もできないわ」

紫苑は阿僑の腕を引き、立ち上がらせると寝台に腰掛けさせる。杯に新たに茶を注ぐと、阿僑に渡した。

「ほら、飲んで」

「そんな勿体無い!とても頂けません」

「じゃあ、命令よ。飲みなさい」

悪戯っぽく笑って紫苑が茶杯を押し付けると、阿僑は困ったように笑い、杯に口をつける。

「美味しいです」

「いつも私ばかり淹れてもらってすまなく思っていたの。良かったわ」

「お嬢様は本当に優しいお方ですね」

杯を口元に運ぼうとして、阿僑はふと思い留まり、手中に揺れる澄み切った黄緑色を見つめた。

「阿僑?」

紫苑が問いかけると、阿僑は神妙な面持ちで彼女を見た。

「お嬢様、この茶葉が特別なものだというのはご存知ですか」

「え?ええ。夏おじさんから特別に仕入れてもらってるのだったわね」

「はい。市場では決して出回らない品です」

「きっと相当高級なのね。このところ物価高が続いていることだし、そろそろ仕入れをやめてもらうよう言うべきところだったのだけれど」

紫苑がそう言うと、阿僑は飲みかけの茶杯を卓に置き、改めて真剣な表情になった。

「この茶は、石飾りから受ける様々な影響によるお身体への負担を軽くするために、特別に作られたものなのです」

「え、それは一体どういう」

「ーーでは、先程の「罰」ということで、ここからお話しいたしましょうか」

きょとんとした顔の紫苑に対し、阿僑は一つ優しい微笑みを向け、語り始めた。

「東克様がしょっちゅうお嬢様に簪を買っておられたのは、お嬢様のお力を少しでも長く内に留めるためでした。」

「もしかして、毎度毎度石飾りが違うのはそのせいだったの?」

「はい」

紫苑はふと思いついて立ち上がる。鏡台の引き出しから簪入れの箱を取って戻ると、開けてみせた。中には淡い緑色や乳白色の混じった黄色や鮮やかな青緑色など、様々な石飾りが使われた簪が幾つも入っている。どれも、東克が嬉々として渡してきたものだ。

「これが全部そうなの?」

「そうです。ちなみに、途中で壊れてしまったものもあったこと、覚えていらっしゃいますか」

「ーーこの前の赤瑪瑙みたいな?」

阿僑が頷き、紫苑は記憶を辿る。東克が何かにつけて新しい簪を買い与えたせいで忘れかけていたが、言われてみれば、修理中の赤瑪瑙や月長石、水晶の他にも、破損して取り替えたものは多くあった。赤瑪瑙の前に気に入っていた瑠璃石も、またその前の気に入りだった濃い紫水晶も、自分では気づかないうちに飾りが割れてしまっていた。その度に東克が代わりのものを渡した。気に入っていたものに限ってすぐ壊れてしまっていたようにも思える。

「言われてみれば、色々あった気がするわ」

「はい。で、その石飾りが壊れた理由については、大方、活発に動いたからだと言われていたのではありませんか」

「ええ、そうよ。大人しくするよう口酸っぱく言われたわ」

「ーー実は、それは、お嬢様自身のお力と石が衝突したからなんです。私も詳しいことは分かりませんが」

紫苑は先程東克に見せられた映像を思い出す。石の強さがどうだ、などという発言が、多分そうなのだろう。石にそんな力があるとは考えたことも感じたこともなかったが、東克と良起の真剣な様を見れば、信憑性はあると思える。だがいくら考えても、なぜ東克がそのことを自分にひた隠しにしてきたのか、理由は分からない。確かに、母と結ばれた経緯からすれば、世間の目を憚らねばならない面もあるだろう。しかし、先代皇帝からはあくまで「療養」の体でここに住むことも許されていた訳である。仮にそうでなかったとしても、「力」を封じることを当人に話すか話さないかはまた別の話だ。東克が自分を溺愛してくれているのは重々承知している。だからこそ、仮に事実を知った上で「力」を封じるという選択を迫られたていたとしても、父への愛情を信じ受け入れていただろうと思うのだ。

「旦那様のこと、やはり許しがたく思っていらっしゃるのではありませんか」

阿僑の心配そうな顔が、紫苑を思索の海から引きあげる。

「確かに、これほど長きに渡って隠し続けこられたことに対して責める気持ちがないとは、阿僑としても言えません」

「阿僑」

「使用人に過ぎない自分が口を挟むようなことでないことは承知しております。ですが、旦那様の全ての行動は、お嬢様を思ってのことだったとの言うことだけは信じていただきたいのです。でなければ、こんなに手間暇のかかるお茶の開発などお命じにはならなかったでしょう」

そう言うと阿僑は新たに淹れた茉莉花茶を紫苑に差し出し、その来歴を語った。種々の石の影響を懸念した東克は、良起を使って影響を最小限に留める方策を探った。その中で最も継続しやすく有効性の高い方法として選んだのが、特定の地域で栽培された茶を飲用することだった。良質の貴石が多く採掘される鉱脈近郊の土地は痩せているが、貴石から放たれる気を直に受け、その地で採れた薬草は僅少である代わりに効能も絶大だと言われる。そこで東克は莫大な資産を投じて同地を買い茶を栽培させ、更に精神安定の効能のある茉莉花の香りを付させた。

「現地に足を運ばれることも度々でした。どれもこれも、お嬢様のお身体を考えてのことでございます」

「それは、そうかも知れないけれどーー」

紫苑がなおも納得いかないという顔をしていると、阿僑は寝台から下り、再び紫苑の足下に膝をついた。驚いた紫苑に対し、阿僑は懇願する。

「どうか、旦那様を許しておあげになって下さい!それが奥様ーー芳媛様の願いでもあるはずです!」

紫苑は手を伸ばして彼女を立ち上がらせようとするが、阿僑は頑として譲らず話し続ける。

「芳媛様は、旦那様のことを大変愛しておられました。旦那様とお嬢様を頼むーーそれが

芳媛様の最期の言葉でした。私は芳媛様にずっとお仕えしてまいりました。たくさんのご恩があります。主の願いを守ることがご恩返しに繋がるのなら、私はどんなことでも致します」

「阿膠!分かったから、頭を上げて頂戴。何もあなたが謝ることでは」

「いいえ。旦那様の意図を知りながらずっと隠してきた私にも責任があります。ですから、お怒りはどうか、この阿僑にーー!」

そう言うと、阿僑は本当に床に額を打ちつけ始めた。ぎょっとした紫苑は慌てて、分かったと言ったが、阿僑はやめない。

「分かったわ、もう絶対にお父様を疑うようなことはしないから!約束するからどうか立って頂戴!」

紫苑の細腕が阿僑の頭を抱く。しばらくそうして落ち着かせてから、紫苑は腕を解く。腕の中から現れた阿僑の額にはすでに赤い打痕ができていた。紫苑の細い指が痕をそっと撫でると、阿僑の鳶色の瞳から涙が溢れた。

「何もあなたがそこまでする必要はないのに」

やや困惑したような表情の紫苑に、阿僑は泣き笑いのような顔を向ける。

「これで、ようやく全て言えました」

そう言って阿僑はまた涙を流した。肩の荷を下ろした安堵の表情を浮かべた彼女は、ややあどけなくすら見えた。

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