第3話 波紋

 深い森を進む。顔を覗かせたばかりの陽光が朝靄の紗を上げ、木々や鳥が一斉に起き出す。一歩、また一歩。踏みしめる度に森の営みが匂いたち、葉擦れや囀りが鼓膜をくすぐる。どこからか聞こえてきた水音の方へと足を向けると、しばし歩いた後、木立の合間から一本の滝が覗いた。滝の水が滔々と注ぐ泉は砂利の一粒一粒が見える程透き通っている。手を浸けると汗ばんだ肌に水はひんやりと心地良い。風が頬を撫で、滝壺に掛かる紅葉の若葉を揺らす。緑陰が形を変え、濃さを変え、山は今まさに萌ゆる時を迎えている。

「――様、お嬢様。お目覚めのお時間ですよ」

肩を優しく叩かれる感覚。気付くと、少し困ったように微笑む阿僑の顔が上から覗き込んでいる。分かった、と目で合図を送ると、阿僑は洗面や衣装の準備をする。

「ここ数日、よくお眠りになりますね」

気だるげに半身を起こした紫苑に手拭いを差し出しながら阿僑が言う。

「冬だからかしら」

「何だかまるで猫みたいですね」

阿僑はふふっと笑いながら紫苑に上着を羽織らせる。

「そういえば、そろそろ野菜が切れるので買いに行こうと思ってるんですが」

「じゃあ、今から留守にするのね」

紫苑が何の気無しに返答すると、阿僑の動作が止まる。次の瞬間、雷に打たれたかのような顔で振り返り、主人をみた。

「今、何と仰いました」

「え?阿僑はこの後市に行っていなくなるんだな、と思っただけだけれど」

そう返すと、切れ長の阿僑の瞳がみるみる丸くなり、次いで心配そうにまじまじと見つめてきた。

「もしかして、どこかお具合でも悪いんじゃありませんか」

「なぜ?」

「だって、ついこの前まではあんなに市に行きたがってらしたのに。それがいきなり気のないお返事をなさるものだから」

「――なるほどね」

紫苑は手拭いを返しながら独り言のように呟く。

「ほら、この前お父様に心配かけちゃったじゃない。だからもう行く気にならなくなったのよ」

「そうなのですか?まあ、具合がお悪い訳じゃないなら良いんですけども」

阿僑はやや怪訝な色を残しながらもひとまずは納得した様子で、ちょうど運ばれてきた朝餉を卓子に手際よく並べていく。

 紫苑は鏡台の前に腰掛け、真っ直ぐな長い髪を梳く。上半分を後頭部でまとめると、片手で傍らの装身具入れから簪を一本取り出し、きゅっと挿した。淡い桃色の石があつらわれた花弁様の簪は、以前は気に入ってつけていたものだが、やはりあの赤瑪瑙や月長石のものに比べると、いささか幼い風に見える。

「まあ、壊しちゃったのは私なのだから、仕方ないわよね」

石の花弁に触れながら、彼女は独り言を呟く。阿僑に語ったことは確かに嘘ではない。この簪は二年以上は破損していない。にも関わらず瑪瑙や水晶のものはすぐに壊れてしまった。考えうる原因は一重に市場で阿僑と「かくれんぼ」をしたことくらいなので、彼女の行動が招いた結果なのだとわかっている。そう自覚しているからこそ市に行きたいとは思わないのだろう。なぜあれだけ行きたがっていたのか、今となってはよく分からないほどだ。

 身支度を整え、紫苑は朝餉をとる。具沢山の包子を割って食べていると、傍からふわりと茉莉花茶が香る。乾いた口を潤すと、香りが鼻腔に抜けると共に、今朝方の夢での情景が脳裏に蘇る。若葉萌ゆ季節のあの山は、記憶にはないにも関わらず、不思議と懐かしさすら覚えた。

「どうかなさいましたか?」

「何でもないわ――湯を足してくれる?」

「かしこまりました」

阿僑が茶器に湯をゆっくりと注ぐと、再び華やかな香りが立ち上る。紫苑は杯に注がれたばかりの茶を一口嚥下する。熱い液が内腑に沁みいるにつれ、脳裏に浮かんだ深山は鮮やかさを増す。

 阿僑が市に出かけた後、紫苑は部屋に一人残される。書物をめくっていたのも束の間、眠気と倦怠感に襲われた彼女は、一度は畳んだ掛布をもう一度広げ、身を横たえる。目を閉じると眼前にはあの滝と泉が現れ、じき木々の呼吸と鳥たちの囀りが聞こえてくる。

――ずっと、ここにいられたらいいのに。

夢と現の狭間で、ふと彼女は願う。それと呼応するかのように、左手首から、羽毛ですっぽりと包まれるような温かさが、胸へ、脚へ、そして右半身へと広がっていく感覚がする。こんなに温かな気持ちになったのは、いつぶりだろうか。

 紫苑は心地よい温もりに身体を丸ごと預けようとする。

 その時だった。

 爆竹のような音が静寂を裂く。何事かと彼女が起き上がり、戸口の方を見やったその時、弾け飛ばんばかりに扉が開いた。

「一体、何が――」

紫苑は深山の残像を振り払うと寝台から降り、戸口に近寄る。扉の影に隠れて恐る恐る顔を覗けると、目の前に狐の白面が現れた。紫苑が驚いて腰を抜かしてしゃがみこむと、狐面の人物が彼女の左手を掴んだ。瞬時に山の残像が霧散する。

「終わったか」

狐面の背後から、凛とした声が近づいてくる。

「差し当たっては問題ないかと」

「そうか。ご苦労だった。もう戻って良い」

「はい、宗主様」

狐面はそっと紫苑の手を放し、身を翻す。代わりに細身の頭巾姿が鷹揚な足どりで近寄ってくる。

「どなた」

「何、怪しいものではない」

「男」は紫苑とあと一歩の距離にまで近寄ってかがみ込むと、紫苑の顔を見ながら頭巾を外す。その容貌に、紫苑は眉を上げた。整ったその顔立ちは、父・東克によく似ていた。だがほっそりした顎に形の良い紅唇、三日月型の眉は明らかに女性のものである。

「あなたは一体――」

当惑し座り込んだままの紫苑に向かって、「男」は白い細腕を差し出した。その袖口からは透明な腕輪が覗き、冴え冴えと冷たい煌めきを放っている。

「私は鄭碧映。そなたの父・東克の、妹だ」

「お父様、の?」

「ああ。そなたを救いに来たのだ。さ、立ちなさい」

細い、けれども力強い手が、紫苑の左手を掴む。立ち上がった紫苑は改めて目の前の女を見る。頭二つ分背の高い彼女は男物の白い衣装を纏い、飾り紐で一つにくくられた長い髪が風になびいている。麗しさと凛々しさが共存した中性的な美しさだ。女が目線を上げると、深緑を思わせる透き通った瞳が紫苑を捉えた。

「さ、そろそろ行こうか」

碧映は一つ微笑むと、紫苑の手を引こうとする。とその時、軽い風切り音が鳴ったかと思うと、二人の間の柱に鏢が突き刺さる。思わず小さく悲鳴を上げた紫苑に対して、碧映は眉ひとつ動かさず飛ばしてきた主の方向を見やると、口の端を上げた。

「来たか」

「――その子から離れろ!」

裂帛の気迫とともに、東克が庭から一足飛びに距離を詰める。そして紫苑の細腕を掴むと、自分の背後に庇った。

「何しに来た。ここは私の屋敷だ、即刻出て行け」

感情の読めない顔に冷徹な眼差し。普段の父からは想像もつかないその表情には覚えがある。そう、紫苑に翡翠の腕輪をくれた日と同じ表情だ。普通の人間ならすぐさま震え上がりそうなほどの気迫だが、碧映は小揺るぎもしない。それどころか、口の端の笑みを一層濃くし皮肉の色すら滲ませている。

「俺が本気で怒らないうちに早く立ちされ」

「それはできない相談だな。鄭家宗主として、後継となりうる才が埋められようとせんのを見過ごすわけにはいかない」

「何だと」

「ふふ、流石の兄上も、娘のこととなると冷静を欠くようだな。「予見」がずれたことに焦っているのであろう?」

「結界を張っているのに、何故入って来られたのだ?」

「そうだな、確かにこれを形代にしなければかなわなかっただろうよ」

碧映は袂から小さな巾着を取り出すと、中から小さく光彩を放つ何かをつまみ出した。

「この前炊き出しの広場で拾ったのさ。紫苑よ、覚えがあるであろう?」

その言葉に紫苑はハッとする。広場に行ったあの日つけていた簪の、割れた水晶の破片だったからだ。

「娘のことを思って強力な水晶を使ったことが仇となったな。弱い石であれば到底無理な芸当だったろうよ」

碧映が高らかに言うと、東克の背が瞬時に殺気を帯びる。

「ふん、例えお前がきたところで、もう埋めたあとだ」

「ああ、それなら問題ない。先程白の長に手ずから掘りおこしてもらった」

碧映はそう言うと、いつの間に抜きとったのか、先程まで紫苑がはめていた翡翠の腕輪を手に掲げてみせる。そして紫苑をしっかと見つめて高らかに告げた。

「我が一族の娘紫苑よ、しかと聞くが良い。そなたの父はな、この腕輪を使ってそなたの力を埋めようとしたのだ」

「黙れ!」

「腕輪をつけてから、山中の夢を見たであろう?心地良すぎて、一生この中にいたいと願ったかもしれぬ。だがそれは、腕輪が見せる幻だ。こなたが来るのがもう少し遅かったら、そなたは生涯囚われの身になっておったかも知れぬぞ」

「やめろ!――紫苑、聞くんじゃない。全部戯言だ」

振り返った東克は見たことのないほど必死の形相だった。

「紫苑、あの女の言葉に耳を貸してはいけない。さ、お前は私の書斎に籠っていなさい」

半ば哀願するような父の目に、紫苑は頷いて書斎の方へと歩き出そうとしたが、その背には矢継ぎ早に凜とした声が掛けられる。

「聡明なそなたなら、今ならわかるだろう。そなたはずっと外に出たかった。だからしきりに市に行きたがった。だが、この腕輪をはめてから、そう思うことすら無かったのではないか?」

ぴたりと紫苑の足が止まる。そうだ、言われてみれば、今日だって阿僑が市に出かけると言っていたではないか。なのになぜ、自分は留守居すると言ったのだろう。今だって、外出したくて仕方がないほどだ。なのに、どうして。

「お父様、一体どういうことなのです?」

荒唐無稽と片付けるにはあまりに思い当たる節のある話に、紫苑は父を振り返る。こちらを見やる父の横顔には苦悶の表情が浮かんでいる。

「紫苑――」

「答えて下さい!お父様」

その時、屋敷の門から数十人のお抱え衛士たちが駆け寄ってきた。

「旦那様!申し訳ありません!」

老守衛の深貫が叫びながら先陣を切り、東克の前に割って入る。そのまま大槍を構え攻撃態勢を取ったが、切先の方向に佇む碧映を見て、少なからず驚愕の色を浮かべた。

「碧映様!何故ここにおいでに――」

「深貫か、久しいな。屋敷から姿を消したと思ったらやはりここだったか。戻ってきて息子と共に働いても良いのだぞ」

「ありがたい言葉なれど、我が主は東克様のみでございます」

「深家は鄭一族の宗主に仕えるのではなかったか?」

「その務めは愚息が果たしておりますゆえ、家則に反してはおりませぬ」

「そうか、残念だな。老いてなお、うちの手練れを退けるほどの腕というのに」

「!あれはあなた様の差金か」

深貫の槍を構える手に力が入った。

 紫苑は当惑を隠せない。鄭一族の宗主?彼女が知る限り、東克は商人の二代目で、子飼いの部下に商売を任せきりにして悠々自適に暮らす数寄者であり、娘を溺愛する過保護な父親である。兄弟姉妹や親戚などいないと聞いていた。だが、柱に半身を預けて悠然と微笑むあの女性は、父の妹だと名乗った。鄭一族の宗主だとも。何よりあの手中の腕輪について、何故深山の景色を夢想していると知っているのか。偶然にしては的確すぎる。加えて武芸者を差し向けたこと。もし自分や東克を害する気ならば、今こうしている間にとっくに殺しているはずだ。だが彼女は腰の佩剣に手をやりもせず、ただ話をしているだけだ。考えれば考えるほど不可思議で辻褄が合わない。

 しばし思案したのち、紫苑はさっと深貫の前に進み出た。深貫はすぐさま下がるよう紫苑に言ったが、彼女は応じず、東克を見上げて言った。

「お父様、本当のことを教えてください」

「紫苑。この父ではなくあやつの言うことを信じるというのか?」

切々と哀願するかのような東克の目を見ると、流石の紫苑も決意が揺らぎそうになる。分かった、と折れかけたその時、後ろから碧映の声が飛んだ。

「『お母様』」

直後、声の余韻が消えぬ間に、目の前にあったはずの父の姿が消えた。当惑した紫苑がきょろきょろと見回すと、碧映の首筋に短剣を突きつけている父の姿が飛び込んできた。

「お父様!なんてことを!」

堪らず紫苑は叫ぶが、東克の耳には届かない。立ち昇る殺気が全身を覆う様は書物で見たことのある夜叉を思わせる。普段とは別人のような父を、彼女は初めて心の底から恐ろしく感じた。

「それ以上何か言ってみろ、俺はお前を許さない」

だが、一睨みで射殺せそうな視線でも、碧映の態度が変わることはなかった。それどころか笑みは清艶さを増しているように見える。

「ふふ。冷静冷徹、万事無双だと謳われたあの兄上が、このように取り乱すとはね」

「黙れ!」

「でも良いのかな。あのことを黙っていてほしいだろう?それに兄上も分かっているはずだ。あの子の力は最早石だけで抑えきれるものではない。逆に精神に異常をきたす可能性さえある」

「――」

「遅かれ早かれだ、兄上。何人たりとも宿命からは逃れられない。それは兄上が一番よく分かっていることだろう?」

碧映の言葉に、東克の周囲で渦巻いていた殺気が静まる。東克が短刀を下ろすと、固唾を飲んで成り行きを見守っていた深貫が安堵のため息を漏らした。

 立ち尽くす東克を横目に、碧映は軽やかに紫苑の方へとやってくる。そして手中の翡翠の腕輪を彼女に差し出した。

「当分は着けないほうが良い。今度、正しい使い方を教えてあげよう」

「正しい?」

「直に分かる。きっとそなたの父上は教えてくれないだろうから。大切にしなさい。近いうちに、また会おう」

そう言うと碧映は背を屈め、紫苑の目をじっと見つめた。東克に似た切れ長の瞳は、深い森を思わせる澄んだ緑色をしている。何かを見透すように見つめた後、彼女は会心の笑みを浮かべる。

「うん、いい目だ」

そう満足げに呟くと、碧映は裾を翻し、悠然と門へと去っていった。

 

 紫苑は半ば呆然と庭に立ち尽くす。常に清浄で静謐な庭ではあるが、今は時すら止まったかのように思える。とそこに、ぱたぱたと慌ただしく足音がこちらにかけてくる。

「お嬢様!ご無事でいらっしゃいますか!?」

紫苑がゆっくりと振り返ると、こんもりと白菜らしき野菜が入った紙袋を縁側に放り出して阿僑が駆け寄ってきた。

「――阿僑」

「良かった、お嬢様!怪我などないですよね!?」

そう言って阿僑はぺたぺたと紫苑の肩やら手やらを触って確認しはじめる。

「ああ良かった、何事もないようですね」

ひとまず安堵した表情を浮かべるが、瞬時に怪訝な顔になって、彼女は離れに続く回廊で佇む東克の方を向いた。

「旦那様、先程、碧映様が門から出て行かれるのを見ました。一体何があったんですか」

阿僑が半ば詰め寄るように問うと、東克はようやく平素の落ち着きを取り戻す。そしてゆっくりと紫苑の方へと歩を進めつつ答える。

「言いたいことは分かる。簪の水晶の破片を形代に取られるとは思わなかった」

「簪の――もしや、先日の市での」

「そうだ」

「でもただの簪では?」

「特別な石を誂えていたからね。まさか『予見』が狂わされるとは誤算だった。仕掛けてくるのは分かっていたが、予定では明後日だったからね。前後1日と見て、それまでに籠城できるようにすれば良いと思っていた。とにかく、本当にすまない」

東克は紫苑の前で立ち止まる。恐る恐る見上げてくる娘の視線を、東克は苦悩の滲む顔で受け止める。互いに言葉はない。動揺と当惑、そして芽生え始めた疑念の色。言葉にしきれない感情が彼女の体内でとめどなく湧き起こる。ともすれば発露してしまいそうになるのを、彼女が小さな身体で必死に押し留めていることは、力を使うまでもなく明らかだった。

 どう切り出せば良いか分からず、東克はそろりと愛娘の肩に手を伸ばす。指先が触れた時、彼女は一瞬ぴくりと肩を震わせたが、拒むことはなかった。

「外は冷える。中に入ろうか」

返事の代わりに紫苑が小さく頷くと、東克の表情は少しく和らいだ。

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