第2話 邂逅
障子窓を開けると、風がひんやりと鼻腔に抜ける。向こうでは、ついこの前まで真っ赤に色づいた紅葉が見る者の目を奪っていたが、今やそれもすっかりまばらになっている。苔の上に朱が散らされている様は殊の外美しかったのだが、先日の雨の後、見苦しくなるからと庭師が早々に掃除してしまった。雨にしとどに濡れれば色合いの濃さが増すから、それはそれで趣深いと思っていたので少し残念ではある。しかし、そう思うのも束の間、徐々に山茶花や椿が咲いてきて、庭は再び華やぎを見せはじめる。
紫苑は窓辺の茶卓で頬杖をつきながら、障子窓越しに珍しい斑入りの山茶花を眺める。白地に濃い桃色の散った花は、今年も変わらず凛とした姿を見せている。見入っていると、扉の音と共に阿僑が入ってくる。茶卓に小さな茶器を置き、手にした急須を傾けると、茉莉花の華やかな香りがふわりと立ち上る。それに釣られて紫苑は花から視線を外し、茶器を手に取る。一口飲むたびに、濃い目の香りが鼻腔に抜け、紫苑の表情が緩む。その様子に阿僑も微笑んだ。
「お嬢様、本当にその茉莉花茶がお好きですよねえ」
「そうね、これだけはね」
屋敷で使用する茶葉は大体市場で仕入れてくるが、東克と紫苑にはそれぞれ別に特別な茶葉を選んでいる。東克には鉄観音茶、そして紫苑には茉莉花茶なのだが、紫苑のだけは市場では買わず、夏良起の部下でもある出入りの茶商から買っている。濃く香りづけされた、ほのかに甘みを伴う極上の品は、市場には到底出回らない代物だ。物価高の今、こんな高級品を普段使いにするのはやめようと進言した方がいい、と分かってはいるのだが、これだけはなかなか出来ずにいる。
「そうだ、今日はまた出かける日じゃないの」
「え?え、ええ。よくご存知ですね」
「別棟に行った時にちょっとね。お野菜がもうすぐ切れちゃうんでしょ」
「はい、鍋の具材も買いたいですから」
そこまで言って、阿僑は苦笑混じりの微笑みを紫苑に向ける。
「じゃあ、私も一緒に」
「そう仰ると思ってました。まあ、旦那様も特に駄目だとは仰っておられないので、いいでしょう」
「やったわ!」
「ただし、呉々も阿僑から離れないで下さいましね」
「心配しないで。分かっていてよ」
市場に着く前から、街に起きつつある異変の陰は見てとれた。皇都を囲む城壁に沿って、野宿をしている人の姿が先日よりも目立つようになっている。馴染みの八百屋の主人が、あれは周辺の街から流れてきた民だと教えてくれた。これから多くの人間が食べ物を求めて皇都にやってくるだろう、とここで長く商いをしている彼はそう嘆息する。
皇帝の直轄領である皇領は帝国のほぼ中央に位置し、西部には広大な穀倉地帯を有している。そこでの収穫物は皇領の真ん中に位置する皇都を経由して各地に流れるため、ここは必然的に食料が集まりやすくなっているのだ。
紫苑は阿僑にくっついて、店の立ち並ぶ通りを歩く。目的の店に着こうという時、通りの向こうに人集りができているのが目に入った。何事かと思っていると、彼女たちの後ろで通行人の会話が聞こえてきた。
「ただで貰えるんだってさ」
「本当かい、じゃあ行くっきゃないだろ」
そう言って、彼らは足早に人の列へと向かっていく。紫苑と阿僑が店で大根を物色している間にも、二人に横目で次々と人が通り過ぎていく。
「ねえ、向こうで何かあったの?」
阿僑が主人と話している間に、紫苑が手伝いをしている息子に尋ねると、彼は恰幅の良い父親の肩越しに紫苑が指差した先を見やり、ああ、と得心したように答えた。
「何でも、お上が食糧の配給をしているらしんですよ」
「食糧配給?」
「お嬢さんも見たでしょ。周辺の街は食糧不足で、みんな食べ物を求めてここに流れてきてるんですが、ご覧の通り、ここは物価高ときてる。だから金持ち以外はみんな腹を空かせて野宿、ってことになっているんです」
「それで、食糧配布が始まった、ってこと?」
「俺も詳しいことはさっぱり。今朝方からかなあ、ちらほら聞こえ始めて知ったんです」
「お触れが出たわけじゃないの?」
「どうでしょう。親父なら知ってるかな」
「そう、なのね」
紫苑が考えこみはじめた時、阿僑は野菜を選びおえて主人に代金を払ったところだった。大根片手に紫苑の顔を振り返ると、紫苑が難しい顔になっているのを認めた彼女は、途端に鋭い目を息子に向けた。
「お嬢様と何の話を?」
「いや、俺はただ、向こうの人だかりが何なのか聞かれて――」
阿僑の厳しい声色の聞きつけて、奥に引っ込もうとしていた主人が戻ってきた。彼は一寸やり取りを聞いて、口を開く。
「向こうの食糧配給の話ですかね?あれは、確か三日ほど前でしたか、布告板に張り紙があったんですよ。それで流民が大勢行ってるみたいですな」
主人の言葉に紫苑が即座に反応する。
「食糧って、何を配っているかご存知?」
「布告板にはただ、食べ物としか書いていなかったですからね。大方、米やら砂糖やらってとこでしょうな」
「なるほどね、どうもありがとう」
朗らかな声で礼を述べた紫苑を見て、阿僑が途端に渋い顔になる。
「――まさかと思いますが、ご自分の目で確かめようなんて思ってらっしゃらないですよね」
「流石は阿僑、よく分かってるじゃない。百聞は一見に如かず、って言うわよね」
「駄目に決まってます。流民なぞがいる危ないところに、お嬢様を行かせられません」
あくまで自邸の方向へ連れ戻ろうとする阿僑に、紫苑は頬を膨らませる。
「そういうことなら、私、また逃げ出しちゃおうかしら」
「逃げられませんよ。阿僑は決して手を離しませんので」
「ふうん、じゃあ――」
紫苑は策士のような笑みを浮かべると、思いきり息を吸い込み、そして、きゃああっ、と金切り声を上げた。思わぬ反撃に瞬時に青ざめた阿僑は、慌てて紫苑の口元に手を当てる。しかし既に叫び声を聞きつけた市場の人々が顔を覗かせているところだった。何事かとざわめき始める様子に、紫苑は阿僑の耳元に顔を寄せ囁く。
「ね?妙な疑いがかかるくらいなら、私と一緒に行った方が得策じゃないかしら」
阿僑が渋々口から手を離すと、紫苑は我が意を得たりと小さく笑みを浮かべた。
「ああっ、もう!こんなところに変な虫がいるなんて!もう取れた?」
「――はい、もう大丈夫です。ご心配要りませんよ」
口裏を合わせるように阿僑が紫苑の袖口や肩を払う仕草を見せると、衆目も散っていった。ため息をついて苦笑いする阿僑に、紫苑はにっこりと微笑んで、広場の方へと手を引いて行った。
記憶の中ではいつも比較的のんびりとした広場なのだが、今日はたくさんの人が列を成している。列の先には天幕が数戸並んでいて、そこから人々が麻袋のようなものを抱えて出てきている。白煙が立ち上っている天幕は、恐らく炊き出しの類だろう。そこからは遠目にもやつれた様子の人々が、椀を大事そうに持って出てきていた。
「お嬢様、ほら、これ」
広場に足を踏み入れてすぐに阿僑が言った。指さした先には、大きな告示版に一枚張り紙がしてある。そこには、今しがた八百屋の主人が言っていた通りの内容が記されていた。
「皇都の周辺で食べ物が不足している、というのは本当のようですね」
「対策をしなくちゃならないくらいに流民が増えているってことだわね」
紫苑はしばし遠くの行列を眺める。椀を手にした人々は、疲れきったような様子で広場の境界の城壁にもたれかかり、一心に椀の中の粥を貪っている。食べ終わると彼らの顔には一縷の安堵の色が浮かび、その様子に紫苑の表情も和らぐ。だが次に配給の麻袋を担いで広場を後にする男たちを見て、彼女の顔はたちまち曇った。というのも、彼らの様子は、炊き出しに並ぶ人々のそれとは違って明らかに健康そうだったからだ。少なくとも、食うや食わずで何日も過ごした人々には見えない。
「ねえ、変だと思わなくて?」
紫苑は阿僑の方を振り向いて言う。
「変、と申しますと」
「だって米袋か何か持っている人たち、食べ物に困っているようには見えないんだもの」
紫苑の指摘に、阿僑も集まった人々をじっと眺めた。ややあって彼女も不審そうに眉根を寄せる。
「確かに妙ですねえ」
「でしょ?ほら、あの人たちなんて、まるで夏おじさんみたいだわ」
紫苑が指さした先には、4、5人の屈強そうな男たちが、受け取った麻袋をいくつも肩に担いで、広場を後にしようとしていた。彼らの後にも、続々と鍛えられた男たちが袋を手に出てきている。
紫苑は真剣な眼で阿僑を見上げる。
「ねえ、これってただの炊き出しなのかしら」
「――確かに、流民救済の炊き出しにしては腑に落ちないところがありますね」
そう認めたところで、阿僑ははっと我に帰り、浮かんだ疑念を振り払うかのように首をふった。
「お嬢様、絶っっ対ダメですからね!」
「あ、分かっちゃった?」
「ええ分かっておりますとも。阿僑は広場に行くこと自体は承知いたしましたが、中の様子を見てみるなどということは承知しておりませんよ。さあ、お屋敷に戻りましょう!」
阿僑は問答無用とばかりに紫苑の肩を抱いて踵を返そうとしたが、紫苑はふっと口角を上げた。
「そういうことなら、もう一度叫んでみせるだけね」
「同じ手が通用するとお思いですか。無理ですよ、こんなにざわめいているんですから、叫び声なんてかき消されてしまいますよ」
「衛兵がいても同じことが言えて?」
衛兵、という言葉に反応して阿僑が辺りを見回すと、さほど多くはないながらも確かに衛兵が点在して警戒にあたっているのが分かった。阿僑は特大のため息をつき渋々紫苑の肩から手を離した。
二人は炊き出しの天幕に向かって歩き出す。近づくと、遠目で見るよりもずっと多くの人々が食糧配布や炊き出しを受けている。しかし近づけば近づくほど、どうにも違和感を覚える。疲労困憊した人々と、元気そのものといった具合の人々とで、陰陽がくっきり分かれている。麻袋目当てに並ぶ人々の中には女性もいる。だがよく見ると、一般的な女性よりも背は高く、肩幅も広いような気がした。
「もっと近くで見てみましょ」
列に並ぶ男たち、そしてその先のテントに焦点を合わせたまま、紫苑は阿僑の袖を引く。
その瞬間だった。
目の奥で何かが爆ぜる感覚。青色の閃光が視界に雪崩れ込んできたかと思ったら、しばらくすると、それらは藤色のしっとりとした淡い光を帯びて、雪がしんしんと降り積もるように、目の奥へ沈む。
「――様!お嬢様!」
肩や腕を強く揺さぶられる感覚がして、紫苑は我に返る。今のは一体、何だったのだろう?
阿僑が何度も何度も腕を引く。引っ張られる方向に行くべきだということも、頭では分かっている。だがどうしても、足はそれとは反対の、広場中心部へと向かってしまう。――そう、ちょうどあの天幕のある場所へ。
阿僑の制止も聞かず、紫苑は「目指す場所」に向かって、一歩また一歩と近づいていく。仕方なく阿僑が実力行使に出ようとしたその時、紫苑の目の前に衛兵が一人躍りでて、行手を阻んだ。長身に視界を遮られて「目的の場所」を見失う。
「っ!!」
しかしその瞬間、目の奥から脳幹へと突き動かすように働いていた作用が、ふっと途切れた。紫苑はその場に惚けたように立ちどまる。
「お嬢様!」
阿僑はすぐさま一歩踏み込むと、長身の男から庇うように紫苑の前に立つ。彼女が睨みつけると、男はふっと不敵な笑みを浮かべた。
「なんだ、やれるものならやってみるんだな」
そう言うと、男は逆にこちらへにじり寄ってくる。阿僑の顔がくっと歪み、紫苑を護るように伸ばされた手には力がこもる。その様子を見て、男はやや驚いたように眉を上げたが、すぐに元のふてぶてしさを覚える顔に戻った。
「なるほど。確かにそれなりに腕は立つようだが、体格差のある俺とは、まあ無理だろうな」
よく通る低音で挑発するかのような発言に紫苑の眉間に皺が寄る。格好からして一介の衛兵に過ぎないのに、どうしてこうも横柄な態度を――。一気に苛々が噴き始めた紫苑は、阿僑の隣に歩み出た。
「貴方、いきなり人の行く手を阻んでおいて、その態度はないのではなくて?」
ぎょっとした顔の阿僑を横目に、男は今度は紫苑の方に視線を移した。研磨された黒曜石を思わせる鋭い瞳には、先ほどの軽薄な言動とは裏腹に、虚飾や侮蔑のような要素はないように思える。紫苑より頭二つ分以上長身の男は、阿僑が動く間を与えず、紫苑の至近距離に近寄る。紫苑はごくりとつばを飲み込み、体側で拳を握ると、真っすぐに、男のどこか得体のしれない鋭さを孕んだ瞳を迎え撃つ。
「へえ、どこの深窓の姫君かと思ったら、意外と気骨があるんだな」
「そんなこと、どうでも良くってよ。それより道を空けてくださらない?」
「残念ながら、それはだめだな」
「あら、どうしてかしら。炊き出しと配給をしているのでしょう?民草には皆行く権利があるのではなくて?」
可憐な見た目に反して言いすがる紫苑に、男の目がおもしろそうに光る。そして紫苑を頭からつま先まで眺め回す。
「お前が?炊き出しを要するようにはとても見えないが」
男がそう言うと、紫苑は我が意を得たりと口の端を上げた。
「じゃあ、あの麻袋を担いだ人達も、配給なんて要らなさそうだわね。見るからに健康で丈夫そうだもの。どうして彼らが配給を受けられるのか、衛兵さんならご存じではないかしら」
男はやや目を瞠り、面白げな色を濃くして応える。
「どうしてだと思う?」
紫苑は改めて、不敵な笑みを刷いて見下げてくる男をまじまじと見た。彫りが深めの整った顔立ち。くっきりとした二重の瞳は、虹彩の色と相まって威圧感がある。目線を下に移すと、首からは細い銀鎖が提げられ、襟元から深緑色の大ぶりな勾玉が覗いている。恐らくは翡翠の石飾り。この深い色の翡翠には見覚えがある。見立てが正しければ、紫苑も昔、父の書斎で遊んでいたときに、同じ素材の腕輪を見つけたことがある。精緻な文様が施された美しい腕輪は、螺鈿細工の小箱の中に、薄布に幾重にも包まれて丁寧にしまってあった。たちまち気に入り、すぐに着けたがった紫苑に対し、東克は、いつか時が来たらあげようと言い、大事そうに元の箱にしまったのだった。当時はまだ幼く分別がなかったが、後に、深い色の翡翠は家が建つ程高価なものだと知った。だから、一衛兵が普段使いできるようなものではありえない。
「貴方こそ、本当に衛兵ですの?その翡翠、貴方の給金で買えるほど安くはなくってよ」
紫苑が首飾りを指差して言及すると、男は一瞬虚を突かれた様子を見せ、感心したように口元を緩めた。
「お前、これの価値が分かるんだな」
「やっと認めたわね。衛兵ではないと分かった以上、私たちに構うのはよしなさい」
「ほお。ではお前も認めることだな」
「何ですの」
「炊き出しを受けるような者ではないという事をな。この翡翠は普通には出回らない代物だ。一般の者が見分けられようはずもない」
「それは――」
紫苑は返答に詰まる。その隙に、背後から阿僑が腕を引き、肩を抱きよせた。もう帰りますので、と言い捨てると、力づくで紫苑を引っ張っていく。
「ちょっと阿僑!何を」
「お嬢様、申し訳ありません。ですが、もう帰らねば」
いつの間に来ていたのか、広場の入り口には馬車が止まっている。御者台には深貫が座っていて、こちらに手を挙げている。いつの間に呼んだのか、と思う間もなく、彼女は阿僑に半ば押し込まれるようにして馬車に乗り込んだ。深貫の鋭い掛け声に続いて鞭が鳴り、馬車は一路、屋敷に向かって通りを疾駆していく。
轍の余韻が残る中、壁影からするりと人影が立ち上がった。一陣の風が束ねた長髪と飾り紐を攫う。しばし馬車の去った方角を見やると、石畳に、陽光に反射してきらりと光るものが落ちているのに気づく。手を伸ばすと袖口からほっそりした手首と、氷のような透明な腕輪が覗いた。
「――見つけた」
形の良い唇が左右に上がり、鋭い眼光が手中の透明な破片を見据えた。
自邸に着き、馬車から下りた紫苑は、如何にも不服そうな顔をしていた。あと少しで何か掴めそうだったにも関わらず中断され、それもこのような強引な形で遮られるのは初めてなのだから、仕方のないことではある。それを阿僑に宥められつつ、屋敷の門をくぐると、彼女は庭の石畳を踏みしめると庭の端の祠に向かう。どんなに腹が立っていようとも、これだけは忘れてはいけない。いつもと変わらずやや苔むした社の前で一つ深く深呼吸すると、紫苑は辞儀をして手を合わせる。
しばしの後、幾分か落ち着きを取り戻した彼女が離れの自室に歩を進めかけた時だった。母屋の縁側の扉が音を立てて開く。何事かと顔を向けた紫苑の前に、中から東克が飛び出してきた。その表情は普段の柔和さとは打って変わった険しいもので、紫苑は驚いて足を止める。
「お父様?どうなさったの」
「紫苑、こちらに来なさい」
「え?」
「いいから――来なさい」
知っているはずの穏やかな声音とは似つかぬ、鋭く、威圧感を感じさせる声だ。有無を言わさぬ調子にややたじろぎつつ、紫苑は縁側に仁王立つ東克のもとに近寄る。長身が紫苑の頭上に影を落とす。
「お父様、何かおありになったの?」
東克は無言のまま、しばらくそのままの姿勢を保持していた。そして紫苑の頭上の影が離れたかと思ったら、東克は次いで射抜くように紫苑の目をじりじりと見つめ、問いただした。
「紫苑、お前今日、何をやったんだ」
「え、何をって――ただ阿僑と一緒に市場に買い物に行っただけだわ」
「そうかい」
東克の短い返答に、紫苑の背筋がピリついた。先程の様子と今の声といい、自分の知っている父とは明らかに違っている。阿僑の報告でも聞いたのだろうか。いずれにせよ、怒っていることは確かだろう。
「ごめんなさい。でも、少し変なことがあって」
「そうかい。いいからこちらに来なさい」
広場でのことを説明しようとした紫苑に対し、東克が有無を言わせぬ口調で返す。紫苑は驚いて思わず東克をまじまじと見る。記憶にある限り、父が人に対してこれほどまでに厳格な態度で臨むことはなかった。使用人が面前で粗相をした時でさえ、怒ることなく、むしろ気にしないようにと慰めるような人だ。なのに一体どうしたことか。
「お父様?」
「話は後で。まずはこちらに来なさい」
感情を削ぎ落とした目。紫苑は様子を窺うように父の元に近寄った。父の手が後頭部に降りてきて、その指が簪に触れる。
「割れているね」
「何が、ですの」
「自分で確かめてみなさい」
紫苑は簪に手を伸ばす。指先でなぞると、確かに亀裂のようなものが触れた。え、と思わず紫苑が声を漏らすと、東克は嘆息して言った。
「私も分かっているよ。今日は逃げ出したわけではないようだね」
「阿僑からお聞きになってらしたのね。じゃあなぜ割れてしまったのか」
「その訳はまた話してあげよう。取り敢えず、部屋に入りなさい」
疑問符が残りつつも、促されるままに紫苑は父の書斎に入る。彼女が文机の前の椅子に腰掛けると、東克は本棚の下の戸棚を開け、中から木箱を取り出してきた。木箱を開けると、中から見覚えのある螺鈿細工の小箱が出てきた。東克から手渡されたその小箱を、紫苑は驚きと期待の入り混じった目で見つめる。
「お父様、これ――」
「うん。お前も大きくなったことだし、そろそろあげてもいい時だろう。簪も壊れてしまったことだしね」
「それなら前に下さったものがたくさんあるわ」
「全部古いものだろう?大きくなったら、それなりの品を身につけるべきだと思ってね。昔、お前がこれを欲しがったこと、覚えているかい?」
紫苑は顔を上げて、改めて父の顔を見つめる。先程まで纏っていたある種得体の知れない雰囲気は、今は綺麗に一掃され、いつもの優しい父に戻っている。
「お父様、私が簪を壊して怒ってらした訳ではないの?」
「おやおや、私が簪ごときで怒るとでも思っていたのかい」
「先程は何だか腹を立ててらっしゃるように見えたわ」
「それはお前が危ない目に遭ったんじゃないかと思うと怖かったからだよ」
普段通りの温和な声音に、紫苑は胸を撫で下ろす。小箱を開けると、緋色の布の上、幾重の紗に包まれて、昔憧れた美しい腕輪が収められている。新緑から幾分深まった頃の木々を思わせる美しい緑と、その上に施された精緻な模様は、記憶の中よりも一層見事で、紫苑の目はたちまち輝いた。
「本当に私が頂いても良いの?」
「勿論。当時、滅多に採れない良い翡翠が手に入ってね。この先採れるかどうか分からないほど貴重なものだったから、お前が大きくなったらつけさせようと思ってつくらせたんだ」
「そうでしたのね」
紫苑は箱から腕輪を注意深くつまみあげ、手のひらに載せた。見れば見るほど惹き込まれ、まるで森の奥深くで呼吸しているような心持ちになる。その様子を見て、東克も笑みを濃くした。
「心底、気に入ったようだね」
「ええ、とても!本当に私がつけても良いのね?」
「ああそうだよ。ただし、大事にね」
「分かっていてよ」
東克は腕輪を包んでいた紗の一枚を出し、紫苑の左手首に被せると、腕輪をはめる。白く華奢な手首に緑がよく映える。実際にはめると更に嬉しくなり、紫苑は何度も左手首を見る。主人の喜びが伝わったのか、腕輪までじんわりと温かくなってくる気がした。
「お父様ありがとう!」
「さあ、もう部屋に戻りなさい」
温和な声に見送られ、紫苑は螺鈿細工の小箱と左手の腕輪と共に、父の書斎を後にする。
一人書斎に残った東克は、まだ娘の温もりの残る椅子の背に手を掛けた。残像を慈しむかのようにしばし撫でた後、彼は決然と前を向く。表情の掻き消えた整った顔を刹那よぎった黄金色の光は、深い水底のような瞳の奥へと吸い込まれていった。
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