第1話 奇秋
――なんてことかしら。
天高く清々しい秋晴れの日。皇都郊外の街の市場で、少女は目の前の値札を見つめる。
「なあお嬢ちゃん、買うのかい、買わないのかい」
凝視したまま微動だにしない少女は明らかに商売の邪魔になってしまっていて、痺れを切らした八百屋がついに声をかける。
「おじさん、先週までは葉物は一玉七十五銭だったじゃないの。どうして今日は九十八銭にまで値上げされてるのかしら」
深い色のつぶらな瞳に真っ白な肌、そこにぽっと花が咲いたような小さな唇。纏う衣も精緻な刺繍が施された上物だ。どこからどう見ても育ちの良さそうなお嬢様な少女が振り向いて店主に食ってかかる。きっと見上げたその瞳の強さに、店主はたじろぐ。
「お、俺だって知らねぇよ。何でもお上からのお達しだってことでここいらの組長から言われてんだからさぁ」
少女はもう一度、店主をしっかと見据える。これは嘘ではなさそうだ。
「そう、分かったわ」
ため息混じりに一言返すと、彼女はその場を後にする。後ろに一つに纏めた漆黒の髪の横で、赤瑪瑙のすだれ簪がしゃらん、と揺れた。
すたすたと歩みを進めつつ、彼女はちらちらと各商店の軒先を見る。あの八百屋の言っていることは正しい。米も麦も、塩も砂糖も醤油も、どれも一斉に値上がりしている。特に米、塩、砂糖の値上げは痛い。どの料理にも用いるのだから、買わないわけにはいかないのだ。
紫苑が難しい顔をしていると、肩にそっと手が置かれる。彼女が振り返ると、栗色の髪を高く一つに纏めた背の高い女性が立っていた。
「お嬢様ったらもう、どこに行ってらっしゃったんですか!心配しましたよ」
「阿僑」
ぱっちりとした二重瞼の彼女は少し背を屈め、膨れ面をした紫苑に困ったような優しい眼差しを落とす。
「私、もう十五なんだから、そんな子供じゃなくってよ」
「勿論そうでしょうが、皇都といえども良家の子女が独りで歩き回れるほど治安の良い場所ではありませんよ」
「大丈夫よ、何も起こら――」
何も起こらないわ、と言いかけて、紫苑は口をつぐむ。先程の皇都の様子からして、何かが違う気がする。明確に何が、とは言えないが、何か、灰色のもやでもかかっているような気がするのだ。
「――お嬢様?どうかなさいましたか」
「え?あ、ううん、何でもないわ」
怪訝な顔で覗き込む阿僑に、紫苑ははっと我に帰るが、一瞬の間を彼女が見逃してくれるはずもない。阿僑は一層背を屈めて紫苑の瞳を覗き込む。栗色の髪が一房、肩からこぼれる瀬戸際で止まっている。
「本当に?変な輩にでも絡まれたんじゃあないですよね」
「大丈夫だから!もう、阿僑ってば本当に心配性なんだから」
「そうですか?ならいいですけど」
しばらく覗きこんだ後、柔らかい黒の瞳にようやく得心の色が浮かぶのを認め、紫苑は軽く嘆息する。阿僑は昔からずっと側に仕えてくれている侍女だ。明るく機敏で何かと気も利くのだが、どうにも心配性すぎるきらいがある。特にこうして外出している時には片時も離れようとせず、やや鬱陶しく感じてしまう。今日とて、彼女が茶葉選びに迷っている隙にやっと逃げ出したのだ。と言っても、こうして半刻もしないうちに見つかってしまったのだが。
「というか、この広い市場でよくすぐ見つけられるわね」
「ふふ、舐めてもらっては困りますよ。この阿僑の鼻は誰よりも利くんです」
「小さな子じゃないんだからもう誘拐なんてされやしないわよ。いい加減、街くらい独りで歩かせてほしいものだわね」
「それは無理な相談でございます。旦那様のお言付けですから」
きっぱり言い切られ紫苑はむくれる。記憶にはないが、幼い頃、皇都見学をしていた折に一度ごろつきに拐かされかけたと聞いている。以来父は極力紫苑を自邸の外に出さないようにし、彼女はずっと使用人と、僅かに出入りしている商人、父の蔵書、そして娘を溺愛してやまない父が折々に買い与えた装身具の数々を相手に育ってきた。だが成長するにつれ外の世界への憧れが強まるのは自然なことで、とうとう十二歳を迎えた頃、誕生日の贈り物として、使用人が買い物をする際に同行させてもらうことを父から許してもらったのである。
『いいかい、絶対に阿僑から離れちゃだめだからね』
父の言の通り、どの使用人が買い物に行くときにも阿僑は付き従ってきた。確かに紫苑の身の回りの世話を行うのが仕事なのだから、常に同行するのは当然といえば当然であり、実際紫苑の気持ちを汲んで先回りして動いてくれるのは何かと有難い。でもやはり両隣から囲まれていると息苦しさを感じてしまう時もある。だから、もう一人の使用人に急遽用が入って阿僑と二人での外出となった今日は、独り歩きができる絶好の機会だったのだ。
紫苑はまたため息をつく。鼻腔に羊肉の串焼きらしき匂いが風に乗ってやってきた。ふと彼女の脳裏を、先程市場で見た野菜の値札がよぎった。
「あと少しだけ見逃してくれたら、何か分かったかもしれなかったのに」
ぽつりと呟くと、阿僑がそれを耳ざとく拾う。口を開こうとした彼女の機先を制する形で、それはそうと、と切り出す。
「お茶っ葉は買えたの?」
「あ、はい。まあ、買うには買えたんですけど」
珍しく言い淀む阿僑の様子を見て、紫苑は内心、やっぱりね、と呟く。
「もしかして、値段が上がってたんでしょ」
「え、ええ」
「お店の人は何か言ってた?」
「何でも三、四日前に、価格を上げるよう上から通達があったそうです。どうしてかは分からないそうですが」
「そう」
やはり、一斉に物価高になっていることは間違いないようだ。父の蔵書で読んだ記述が正しいとすると、五、六日前には財政を管轄する戸部に指示がおり、少なくとも一週間前には大臣たちの朝議にかけられていたはずだ。物価高は過去にもあったらしいが、史書で読んだ限りはいずれも凶作による市場への供給不足が原因だった。だが、市場でのやり取りや屋敷に出入りしている商人たちの話を聞いた限りでは、今年そうなる可能性のある天候不順は生じていない。仮に凶作となったとしても、一昨年、昨年は近年稀に見る大豊作だったのだから、国の非常備蓄庫は潤沢なはずだ。放出すれば、少なくとも穀類や塩の高騰は防げるはずだ。となると、あとは――。
「お嬢様、どうかなさいましたか」
「え、あ、ううん。何でもないわ。さあ帰りましょう!」
阿僑の怪訝な視線から逃れるように、紫苑は努めて明るく言うと、大通りを反対に進んで行く。何か引っかかりそうな気がしたが、これ以上思考の淵に沈むと阿僑からさらに追及されそうだから、一旦手放すことにする。
紫苑の屋敷は、市場から歩いて半刻もしない閑静な地区にある。地主や豪商の広大な屋敷が連なる中で、規模こそやや控えめだが、門構えや柱の装飾の立派さ、精緻さでは引けを取らない。門に立っている白髪頭の守衛が二人の姿を見つけるや否や、すぐに正門の横の通用門を開けて脇に控えた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ご苦労様。あら深貫、この前風邪ひいてたわよね。もう大丈夫なの?」
「お気遣い畏れ入ります。お陰様でほれこの通り、ぴんぴんしておりますよ」
深貫と呼ばれた老守衛は鼓舞するように刺股を掲げて見せた。
「なら良かったわ。というか、中の仕事に換えるよう申し上げたのに、お父様ったら聞いてくださらなかったのかしら」
ぷりぷりと怒り始める紫苑の様子に、老守衛は慌てて宥めに入る。
「ち、違うんです!これは、わしの方から言い出したんです。旦那様からは屋敷の使用人頭をしないかと仰っていただいたんですが、わしはどうにも動かないでいるとどうにも調子が出んのです」
「そうなの?ーーでも、深貫ももうそれなりに歳なんだから、無理になる前に言うのよ」
「お気遣い痛みいります。お嬢様も旦那様もほんにお優しい方じゃ」
目を潤ませた深貫に見送られ、紫苑は門をくぐる。台所に向かった阿僑と別れ、彼女は屋敷の敷地の大半を占める庭に足を踏み入れる。庭師の使用人が弛まず手を入れる庭も本格的に秋を迎え、既に先端が紅や黄色に色づき始めた楓や紅葉が、一面の杉苔と清々しい青空に鮮やかな対比を加えている。
石畳を奥へと進むと、つくばいの横に苔むした小さな祠が立っている。この屋敷を建てる前からあった土地神だとのことで、父からは、外から帰ってきたときは必ず拝んで守護してもらったことへの感謝をしなければならない、と言い付けられている。
『今日も無事でした。ありがとうございます』
心の中でそう呟き、紫苑は祠に向かって深々と一礼した。自室に戻ろうと離れに向かいかけたとき、掠れ気味の低音が彼女を呼び止めた。振り向くと、母家と離れを繋ぐ渡り廊下の柱に背を持たせかけて立つ長身痩躯の男が目に入る。
「お父様!」
紫苑が小走りに駆け寄ると、父・東克の慈愛に満ちた眼差しが愛娘を迎えた。彼女より頭3つ分超も背の高い東克は、高い上背を屈めて紫苑に相対した。
「お帰り。何もなかったかい」
「ただいま。客人がお見えになるって出がけに聞いていたものだからご挨拶を控えていたの。もう宜しくて?」
「ああ、私の方の用は今しがた終わったところだよ」
そう言うと、東克は節のある長い指で紫苑の後頭部の簪を少しつまんだ。その仕草に紫苑はむず痒そうな顔になった。
「お父様、私もう子供じゃあなくってよ」
「はは。私にとっては、お前はいくつになっても可愛い娘だよ。ところで、飾りにヒビが入っているようだけど、どうしたんだい」
「え、嘘でしょ」
紫苑は慌てて頭の後ろに頭の後ろに手をやり、弄ると途端に渋い表情になった。確かに、朝纏めた時にはなかった、割れたようなざらざらした感触があったからだ。
「これ、この前頂いたばかりで気に入っていたのに、どうして――」
「そうだね。阿僑と鬼ごっこでもしなければ、こんなことにはならないだろうね」
紫苑はぎくりとして東克を見上げる。柔和な笑みを絶やさず、一応肩書きは商人であるにも関わらず、その商売から、果ては屋敷や財産の管理まで一切を昔からの子飼いの商人に任せ、己は数寄者を貫く父だが、時折こんな風に鋭い指摘を発するのである。
「い、いえ、そんなことは」
「紫苑、私は心配なんだよ。お前が悪しきことに巻き込まれやしないかと。だから阿僑の傍を離れないようにと言っているのに、お前は父の頼みを聞いてくれないのかい」
東克の優しげな顔に悲しみの色が浮かぶ。こうなると、紫苑にはなす術がない。反駁しようと思っていても、父のこういう表情を見ると、途端に申し訳ない気持ちになって戦意が削がれるのである。
「ごめんなさい、分かったから、そんな顔をしないで」
紫苑がしおらしく謝ると、東克の瞳はまた元の柔和な色に戻った。
「それなら良いよ。お前が無事でありさえすれば、私は安心だよ」
「ええ。ーー簪、気に入ってたから、また今度、夏おじさんがいらした時に修理してもらえないかしら」
「それには及びませんよ」
張りのある大きな声が響いたかと思うと、母家の客間の一室がばたんと開いた。立っていたのは、声に違わず豪胆そうな男だった。
「飾りが割れてしまったのですね。でしたら手前にお任せ下さいまし」
「夏おじさん、いらっしゃい。ってことは客人というのはおじさんのことだったのね」
夏おじさんこと夏良起が、父の子飼いの商人であり、商売含め全てを一手に担う、まさに紫苑の家の生命線とでも呼ぶべき人物である。物心ついた頃からの古馴染みであり、屋敷に出入りしている他の商人たちも皆彼の部下だと聞いている。紫苑の身につける装身具の類も全て彼経由で持ち込まれているものである。
「ごめんなさい、私、うっかり壊してしまったみたいで」
「あははっ、大丈夫ですよ、形あるものはいつか壊れるって、よく言われるじゃあありませんか」
「良起、ちょっと中で見てもらえるかい」
「承知いたしやした、東克様」
夏良起は浅黒い顔に白い歯をにっかと出して笑う。背丈こそ東克には及ばないが、骨太で筋肉質な体型と商人らしからぬいかつい風貌は、遥かに存在感がある。商売から屋敷の維持管理までこなせるくらいだから、優れた才覚の持ち主のはずだ。そんな彼がどうして風流人でしかない東克に仕え続けているのか、紫苑は甚だ疑問だった。
『ねえ、おじさんはなぜずっとお父様の下で働いているの?』
以前彼女がぶつけた問いに、大きな目が一瞬さらに丸くなったが、すぐに何かを懐かしむような顔になって彼は答えた。
『東克様はね、俺の母の命を助けてくれた、恩人なんです』
そうして、東克の父の代の頃、高熱にも関わらず使用人頭からの折檻に遭って真冬に門の外に放り出されていた彼の母親を、帰宅した東克が見つけ、医者に診させ介抱させたことで一命を取り留めたのだ、と話した。東克を語る彼の瞳には確かに敬慕の色が宿っていた。
「簪を拝見しますね」
後頭部に手をやり簪を外すと、簾のような玉飾りがしゃらんと鳴り、同時に艶やかな黒髪が小さな背に流れた。夏良起は簪を受け取ると、無骨な太い指で飾りを一つ一つつまんでは、ためつすがめつ細部まで観察する。
「どう?直るかしら。私が走ったせいで、石同士がぶつかっちゃったのね。何だか色も褪せて見えるし」
「もう少し、お待ちを」
紫苑の問いかけにも顔をあげないまま、彼は真剣に見続ける。しばらくしたのち、彼は顔を上げ、紫苑に向かって破顔した。
「大丈夫ですよ、うちには腕利きの職人がいやすから、これなら直せます」
「ほんと!それなら良かった、是非ともお願いしたいわーー良いわよね、お父様?」
紫苑が見上げて問うと、東克は優しい笑みを浮かべて頷く。
「じゃあ、お願いするわ」
「承りやした。ああそうだ、その間こちらをどうぞ」
そう言って良起は卓の下から大きな行李を出すと、中から小箱を一つ取り出し、蓋を開けて紫苑の前に差し出した。紫苑が覗き込むと、臙脂の布地の上に、大ぶりな玉のついた簪が一本横たわっている。赤瑪瑙の簪のように凝った意匠のものではないが、先端の石は淡く光を放っているようにも見えた。石の下部に連なる飾りは一連だけだが、一眼で上質だと分かる水晶が付けられている。
「――綺麗」
「お、流石はお嬢様、見る目がありますね。別名『月の石』と呼ばれる貴石です」
思わず感嘆を漏らす紫苑に、良起が満足げな様子で返す。
「下は、水晶かしら。澄みきって本当に綺麗だわ」
「でしょう?辺境の山奥でたまにしか採れない、珍しいものでしてね。向こうに行っていた部下からもらった上物を加工させたんです」
どうぞお手にと促され、紫苑はそっと簪をつまみ上げる。柔らかな光と清冽な輝きーーそれぞれに個性的な二つの貴石は、手に触れるとしっとりと融け合い肌に馴染んでいくようだった。
「はは、どうやら娘も気に入ったようだ。幾らだい?買わせてもらうよ」
東克が楽しげに訊くのを聞き、紫苑ははっとして、急いで掌中の簪を小箱に戻す。
「お父様、確かに美しい簪でしたけれど、簪なら他にも持っておりますわ。腕輪も首飾りもたくさんありますし、何も新しいのを買わずとも」
「何故だい?お前も気に入っていたじゃないか。お前の喜ぶ顔が見られるのが私にとって一番の楽しみなのだから、簪の一つや二つ、惜しむことはないよ」
買う前提のにこにこ顔でのたまう父を見て、紫苑はため息をつく。と同時に、市場から帰りがけに引っかかりかけた考えを思い出した。物価上昇が起こる理由について。凶作以外で最も直近に起こったことーーその一つが、先先代皇帝の治世に行われた辺境討伐だった。元々皇族の一人を王として成立した王領であり、帝国内でも有数の金、鉄、銅鉱山を有する地域である。豊富な鉱物資源を我が物とし皇帝への更なる権力集中を図ろうとした当時の皇帝が妙な気を起こし、王領侵攻を画策した。しかしその年は稀に見る不作の年であり、皇帝が遠方討伐用の兵糧確保に躍起になると、市場に出回る食糧がさらに不足し、急速な物価高騰を生んだ。結果、皇都では暴動が生起する事態にまで発展したが、皇帝はそれでも侵攻実行に拘った。この事態を重く見た皇太子と議政大臣が共謀して宮廷内で皇位簒奪を実行、皇帝を拘禁する形で事態の収拾を図った。最終的には皇帝は譲位、皇太子が新たに即位したのち即刻討伐戦準備を解き、溜め込んだ食糧を放出することで民の混乱を収めた。その後、新帝が自分の娘を王太子妃として降嫁させたことにより、一連の大騒動は収束した。国庫や、内乱直後であるにも関わらず、軍が備蓄していた穀物までも限界ギリギリまで放出して凌いだのが先代皇帝だった。彼は他にも国による金鉱開拓や農法改良、先先代の色好みで膨れ上がった内廷費の削減に努めるなど国庫を補填した名君としてしかしその彼も子宝には恵まれず、やむなく彼の末の弟である毅親王の子を養子に迎え入れ後継としたのである。ところが現皇帝が即位した後、彼の実父である毅親王が皇太帝として朝廷に関与し始め、噂では現皇帝は皇太帝の傀儡だとも囁かれているくらいである。
「大丈夫、彼のおかげで商売は上々、財産管理も完璧だからね。物価がどうなろうが、暮らしむきのことは何一つ心配いらないよ」
「だからといってお父様、明らかに値の張るものを買わずとも」
「あのう、これは元より差し上げるつもりで持ってきやしたんですが」
父と娘のやり取りを見ていた夏良起がやや遠慮がちに口を挟んだ。
「そんな、こんな高価なもの頂けないわ」
「石を加工させた時からそのつもりでいやしたから。さ、お髪に」
夏良起はそう言って、頑として小箱を差し出す。いつになく真摯な視線に根負けした紫苑は、とうとう箱を受け取った。そして立ち上がると、慣れた手つきで髪をかきあげ後頭部にまとめる。取り出した簪を中心部に挿し、彼女はその場でくるりと一周回って見せた。東克はそんな愛娘を心から愛おしむように目を細めて見つめた。
「やっぱり。よくお似合いですよ、お嬢様」
「いいのかい、良起?もらってしまっても」
「元よりそのつもりで持参したものですから、もらって頂けなければ無用のものになってしまいやす」
「そうかい。なら、ありがたく頂戴するとするかな――良かったねえ、紫苑」
「こんな貴重なもの、申し訳ないわ。でもありがとう」
紫苑がにこっと微笑みかけると、良起は破顔し、東克は一層蕩けそうな顔になった。彼女は後頭部に手を回し、留まった玉飾りをそっと撫でる。肌馴染みの良い質感と玉特有のひんやりした触感が、雪のような白面に今度こそ心からの笑みをもたらした。
しばし玉の感触を愉しんだのち元の姿勢に戻ると、彼女の脳内には再び考えが巡り始める。不思議そうな顔になった東克に、彼女はやはり自分の考えを口にした。
「壊しておいて言うのもなんですけれど、当面生活に不必要なものは買わない方がよろしいんじゃないかしら」
「どういうことだい」
「お父様、私やはり、お米やお塩を今のうちに買って、蓄えておいた方が良いのではないかと思うの」
紫苑がそう言うと、大人二人は揃って顔を見合わせる。
「市場に行って分かったのです。上の命令によって、穀類も葉物も、食べ物の値段がいきなり軒並み上がっていたのです」
「そうなのかい?」
「はい、お父様。でも店の主人たちが言うには、上から言われただけで、理由は何もわからないそうですの」
「まあ、そういうこともあるのかもしれないね」
「お父様ったら!何かおかしいとはお思いになりませんの?」
「さあねえ。私はそういったことには本当に疎くて困るね。――お前、何か聞いているかい」
眉間に皺が寄りそうなほど真剣な顔をした紫苑とは裏腹に、変わらず呑気な様子の東克が、紫苑の話にぴくりと眉を動かした良起に尋ねる。
「物価のことですか?いえ、手前は何も聞いておりやせんねえ」
「そうか。お前が知らないのなら、大したことではないんだろう。ま、きっと一時のことだろうよ」
のんびりした調子でそうのたまい、東克は使用人が運んできた茶のお代わりに手を伸ばして徐に啜り始める。父の様子に、紫苑は体側の握り拳がじんわりと汗ばむのを感じた。確かに今の状況がずっと続くことはないのかもしれない。だが、根拠はないが、当面はこのままの水準が維持されるのではないかという気がしてならない。どのくらい?明確な期間はわからないが、直感では少なくとも三か月は続くはずだ。
「三か月値上げが続いたら、流石に我が家にも影響があるのではなくて?」
紫苑が言い放つと、一瞬、東克のとぼけ顔が固まり、良起の眉が跳ね上がった。
「紫苑、それは誰かに聞いたのかい」
いきなり食い気味に問うてきた東克に、彼女はややたじろぐ。
「まあ、ただの勘よ。店主たちにも訊いてみたけれど、誰も知らなかったのだから」
「そうか――まあなんにせよ、良起がいれば我が家には要らぬ心配ということだ」
一瞬真剣になったように見えた東克だったが、またすぐのいつもの暢気な様子に戻って言う。向かいの良起も相槌を打ちながら何も言わない。危機感の欠片もない大人たちの態度に、紫苑は諦めの深い嘆息を放った。不満そうな娘の態度に、東克は眉をハの字にして苦笑する。
「全く、うちのお嬢様は本当に心配性だねえ。でも良起がいるから我が家は大丈夫だよ」
「はい旦那様、万事手前にお任せくださいまし。必ずやご信頼に応えてみせやす」
良起はそう言って、紫苑の目の前で筋骨たくましい腕を突き上げてみせた。
良起を送って客間を出る頃には、高かった日もすっかり傾いている。遠くの空がほんのり茜色を帯びて黄金色の輝きと混じり合うのを眺めながら、今度こそ離れに向かう。自室の戸を開けると、中では既に阿僑が寝台を整えているところだった。戸口に向き直った彼女は、主人の姿を認めると、手を止めて一礼した。
「何やら遅うございましたね。良起様はお帰りに?」
「うん、ついさっきね」
「お珍しいですね、これほど長く話し込まれるのは」
「あ、まあ、ちょっとね――」
昼間の市場でのこともあって紫苑がお茶を濁すと、阿僑は燭台の薄明りの中でも目ざとく変化に気付く。
「新しい簪、よくお似合いです」
「阿僑には何でもお見通しね。瑪瑙の玉飾りが壊れちゃって」
「え、昼間までは何ともなかったのに?」
阿僑の形の良い眉が上がり、紫苑はそわそわと後頭部の飾りを弄る。
「折角気に入りでいらしたのに」
「それが、夏おじさんが直せるって」
「それはようございましたね。でも次は阿僑の目を盗んで走って逃げたりなさらないで下さいね」
「――分かったわ」
観念して紫苑は素直に応じた。完全にばれている。
「全く、阿僑もお父様も鋭すぎるわね」
図らずも出てしまった呟きはまたもや地獄耳の阿僑に拾われ、紫苑は急いでお茶を濁した。
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