紫紺の目覚め

Xunxun

プロローグ

 鬱蒼とした木々の合間を、口笛が巧みに駆けていく。行先は分かっている。音の後を辿ると、果たして滝の水が滔々と注ぐ泉のほとりに、彼女はいた。一族の誰とも違う、夜の闇を思わせる漆黒の髪が、背にしっとりと掛かっている。

「燕燕」

呼びかけると髪と対照的な雪肌がこちらを振り返った。好奇心旺盛そうにきらめくその瞳もまた、髪と同じ漆黒である。

「遅いわよ、景景」

「ごめんごめん。お母様の体調が悪くてさ」

そう返すと、燕燕は眉根をきゅっと寄せ、曇った顔になった。

「――県令の、あの馬鹿息子でしょ。あんなの治しちゃったら世の害悪にしかならないわ。景景もそう思うでしょ?」

「うん。帯飾りに触ったら、民を虐げるろくでもないやつだってすぐ分かったよ」

深山に白髪赤眼の民あり、能く怪を祓い鬼病を治す。この噂の起源はかつて一族の一人が山中に置き去りにされた狂人を不憫に思い治療してやったことだったらしい。その後噂が噂を呼び、看板を掲げているわけでもないのに、今やこうして高位の役人までもがやってくるようになっている。生来の能力を以て石と感応し、相手の心に入り込むことで癒すこと。それがこの一族に生まれたものとして、本来持っているはずの力である。だがなぜか、その力を持たぬ者が二人だけいる。それが景景と燕燕だった。力を持たぬだけならまだしも、二人は見た目すら他の一族とは異なる。母も父も、その他の兄弟姉妹たちも、皆揃って白髪に燃えるような緋色の目をしている。だが自分たちの見た目は、先程村を訪った県令一行やこれまでやってきた患者たちと同じく、真っ黒な髪をしている。だが瞳の色だけは彼らとも違う。

「お優しすぎるのよ、長さまは」

「そうだね。でもそれは、母さまだけじゃない。父さまも姉さまもみんな、僕がどんなに言っても憐れだからと言ってあくまで助けようとする。君のところだってそうだろ?」

返答の代わりに燕燕はしゃがみこみ、砂利石を拾っては泉に投げる。投げた石の波紋は、滝音と水飛沫にあっという間にかき消される。

 しばらくそうしてから、燕燕は立ち上がり、こちらを振り向くと重々しく口を開く。陽光を映したかのような黄金色の瞳が一層輝きを増す。

「ねえ、景景」

「どうかしたの」

「私たち、外に出てみない?」

景景は燕燕をまじまじと見つめる。可憐な容姿に似合わず、黒曜石のような瞳には決然とした強い光が宿っている。

「本気、なんだよね」

景景の問いかけに、燕燕は目を逸らさず、無言で手を差し出す。彼女の瞳に自分の紫色の瞳が映り込むのを確かめて、景景は燕燕の白く細い指にそっと手を掛ける。忽ち彼の頭の中に、朱や金色がかった情念の塊が流れ込んでくる。朔夜の篝火のような燕燕の情念。それは、一族たる力も外見も持たず暗闇にいた自分に、暖と光をくれたものだった。治癒の力を持たない代わりに、他者の心情を読み取れる力があるということも、互いに心を読み合ってわかったことだった。

『折角人の心が読めるのよ。もっといろんな人を見てみたいじゃない』

『気持ちは分かるけど、母さまたちのことはどうするの?あの人たちは純粋すぎる。県令みたいに邪な奴らにいいようにされてしまうかもしれない』

『だからこそ、私たちが外に行くのよ。街に降りて、治療の斡旋をするの。私たちが大丈夫だと判断した人だけ村に行かせるようにすればいいわ。そうすれば、今回みたいに長さまが寝込むことにはならないでしょ』

『うまく行くかな?』

『きっと大丈夫よ。――いずれにせよ、特異な存在の私たちはここでは厄介者だわ』

『母さまたちはそんなこと、ちっとも思ってないよ』

『分かってるわ。みんな純粋無垢だもの。でも、私たちはそれでいいの?引け目を感じたまま一生ここで生きていきたいとでも?』

景景の手の平に伝わる焔が熱を増す。――彼女の言うことは正しい。力に関係しているからか、この村の人々は穢れというものを知らない。頼まれれば断ることもできない。だから請われるま間に治癒を行う。結果、患者の心に巣食う邪心や瘴気に当てられて自身の心身が傷つくことになっても、文句一つ言わない。というより不平不満自体、そもそも思いつかないのだ。

 景景は襟元に手をやる。まだよちよち歩きの幼児だった頃、高熱に冒された彼を母が必死に看病してくれた。一時は危うい状態だった彼だが、激しい嘔吐に襲われ石の塊を吐き出して後、奇跡的に快方に向かったそうだ。爾後母は、彼を助けてくれた石、としてその時に彼が吐きだした石を研磨し、お守りとして首飾りにしてくれたのだった。以来、元来身体の弱かった彼は病気一つせずここまで成長した。この石のおかげだ、と母は常々言う。だが彼自身としては、それは他ならぬ母のおかげだと思っている。母の懸命な看病が実を結ばなければ、自分がこうして生きながらえることもなかったわけだから。だから自分もいつか恩を返したいと思っていた。ならば――。

 景景は燕燕の手を握り返す。漆黒の艶やかな瞳が濃紫の目を覗き込むように見つめる。

『出よう、僕たち。母さまのために、里のみんなのために、山を下りよう』

胸の中でそう語りかけると、漆黒の瞳は強い黄金の輝きを放った。握り合う手のひらの熱が増すのを感じながら、二人は同時に駆け出した。森に消えていく背中を、滔々と流れる滝が見送っていた。



 

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