第7話 新天地

「随分と遠くにあるのですね」

「まあ、兄上の屋敷は皇都の外れだからな」

「本家は皇都の中にあるのですか」

「まあ、着けば分かるさ」

碧映はそう言って目を閉じると、また静かに眠り始める。

 紫苑たちが馬車に乗り込んでから、体感的には既に一刻以上になる。せめて物見窓を開け外を見られたら良いのだが、何故か碧映に開けないよう頼まれた。仕方なく、彼女は手の中で白く柔らかな光を放つ石を眺める。馬車の中できついだろうから、と碧映から渡された夜光石は満月を彷彿とさせた。

 しばらくして、馬の足が緩まったと思ったら、ようやく馬車が停まる。

「宗主様」

馬車の外からくぐもった声が掛けられ、閉じ合わされた碧英の長い睫毛がぱちりと開く。

 碧映に促されて下車すると、眼前に聳え立つ巨大な城壁に圧倒される。月明かりがないせいか、それは一層こちらを威圧してくるように見える。

「皇城を見るのは初めてかな」

思わず立ち尽くした紫苑を見て、碧映が面白そうな目で微笑む。

「これが、皇城ーー」

「で、こっちが我が家だ」

碧映が指し示す方を見ると、通りを挟んですぐ目の前に門構えらしき影が見える。石畳の路を渡るとすぐ目の前に大きな門が現れる。周りに他の建造物はない。にも関わらず、不思議と目立っては見えない。朔夜だからだろうか、と紫苑が考えていると、碧映が肩に手を乗せ囁く。

「両側に大きな石があるだろう?あれの作用で傍目には目立たなく見えるんだよ」

確かに、普通なら守衛が立っている場所に、巨石が対になって置かれている。三人が門の中央に立つと、ぎい、と重苦しい音を立てて門が開いた。

「宗主様、おかえりなさいませ」

敷地内に足を踏み入れた瞬間、一斉に声が響く。紫苑が驚いて見回すと、門から伸びる石畳に沿って、一様に頭を低く垂れた人がずらりと並んでいる。

「出迎えご苦労」

碧映が鷹揚に手を挙げると、彼らは応えるように再度揃って頭を下げる。

「これは――」

「儀式みたいなものさ。さて、入ろうか」

馬車の中でのやや疲れた様子は微塵も見せず、美貌の女主人は紫苑の手を取って、泰然と石畳の真ん中を進んでいく。松明などは見当たらないのに辺りはほんのりと明るい。不思議に思っていると、あちこちに配された台に夜光石が置かれているからだと分かった。

 石畳の終わりは広い空間があり、周りは回廊で囲まれている。池や小さな橋なども配されており、庭園のような、はたまた広場のような、不思議な場所だ。橋の横にはまた何人か並んでいて、壁映の姿を見るなり一斉に深々と頭を下げた。ご苦労、と碧映が声をかけると、前列の中央に並んだ一人がしゃらんと歩揺を鳴らしながら近寄ってくる。

「お姉さまったら、こんな夜遅くに総出迎えをお命じになるのですから、驚いてしまいましたわよ」

緩く編んで結われた髪に豪華な髪飾りを鈴なりにつけた女性は、ほのかな明かりの中でもひと際妖艶である。

「秋絢、口を慎め。新しく一族に迎える者なのだ、疎かにできるはずなかろう」

「それはそうでしょうが――」

碧映に冷ややかな目ででぴしゃりとたしなめられ、不服そうな顔をしていた彼女ではあったが、おとなしく列中に引き下がる。それを見届けると、碧映は秋絢の隣で控える人物に、視線を向ける。

「藍照、こちらへ」

弱光の中でも分かる優美な面差しの美青年が碧映の前に進み出る。碧映が紫苑の方を振り返る。

「紫苑、これが藍照だ。我が家の小宗主、とでも言っておこうかな」

白皙の美青年がつと紫苑に視線を向ける。そして物々しい雰囲気に少しく緊張していた紫苑に微笑んだ。紫苑が思わず俯くのを見て、碧映がくすりと笑う。

「藍照は幼い頃からずっと此方を手伝ってきたから、「力」のことも含めて諸事に通じている。明日から色々と教わるといい。ーー藍照、頼んだよ」

「はい、宗主様」

「宜しい。では、皆ご苦労だった。下がりなさい」

碧映の声に、居並ぶ面々は深々と一礼した後散会する。その中から侍女と思しき二人が紫苑たちの方に近づいてくると、碧映の前で矢庭に跪いた。

「宗主様」

「今日からは、紫苑がお前たちの主人だ。以後よく仕えるように」

「はい、宗主様」

溌剌とした声に、碧映は満足げに頷き、紫苑を振り返る。

「今日は疲れただろうから、ゆっくり休むといい。明日以降、日中は藍照と共に行動して

ゆるりと学ぶが良い」

「はいーー宗主様」

紫苑がそう答えると、碧映は目元を和ませ回廊の奥へと消えた。


 紗越しの柔らかい陽光を瞼の裏で感じながら、紫苑はゆっくりと目を開ける。天蓋に彫られた蓮の花。手に触れる絹の感触。雰囲気には慣れつつあるはずなのに、得体の知れない違和感は日を追うごとに強く全身に纏わりついている。重い半身を起こすと、寝台の紗がさっと開き、同じ年頃の少女が顔を覗かせた。芙児、蓉児という双子の彼女たちは、部屋の重苦しい雰囲気を払拭するかのように、きびきびとよく働く。一人が寝具を片付けている間に、もう一人が朝餉の用意を済ませる。ここに来てから三週間ほどだが、彼女たちはすぐに紫苑の嗜好や行動の癖を覚え、抜かりなく仕えてくれている。飲み込みの良さには阿僑も舌を巻くほどだ。阿僑とこの二人がいなければ、きっと早々に挫けてしまっていただろう。

「紫苑様、朝餉が整いました」

鏡台に向かう彼女にはきはきと心地よい声がかけられる。振り向くと、薄いそばかすを浮かべた可憐な蓉児の姿があった。紫苑が応えると、彼女はえくぼを作って笑う。姿形も声も酷似した二人だが、最近ようやく、笑うとえくぼができるのが蓉児だと判別できるようになった。

 組紐で髪を一つに結えていると、阿僑が簪の収められた小箱を紫苑に差し出す。ここに来た夜には既に部屋に設えてあったものだ。中には、蕾が開いたばかりの百合を思わせる意匠の水晶の簪が入っている。紫苑はそれを手に取ると、髪の根元にきゅっと挿した。透明な輝きが漆黒の髪に馴染む。

 具だくさんの粥をやっとのことで食べ終える頃、居間に剣を佩いた屈強な男がやってきて、卓の前に膝をついた。

「紫苑様。藍照様がお呼びです」

藍照の傍仕えだという深潔は、姿勢こそ恭しくはあるものの、こうして毎日有無を言わさぬ調子でやってくる。促すように彼が再度呼びかけると、阿僑が険しい顔で睨む。

「食後のお茶もまだなのですよ。少ししてから伺うと、お伝えを」

「阿僑殿。そちらと違って、藍照様はお忙しい身なのだ。宗主様があちこち飛び回られて不在の間、仕事の一部を肩代わりなさっておられるのだから。本来ならお休みになって当然のところを、そちらのためにわざわざ時間を割いてくださっているのだよ」

深潔の半分あげた顔には嘲るような色が浮かんでいる。言い募ろうとする阿僑を紫苑は手で制し、真っすぐ深潔の目を見た。

「分かりました。すぐお伺いしますわ」

「では外で控えておりますので」

深潔は皮肉げに上がった口元を隠すこともなく、形だけは丁寧に一礼して辞去した。風を切るようにして出ていくいかつい背中に、阿僑はふん、と鼻息を投げつけ、紫苑がたしなめる。

「彼は「小宗主」の傍仕えなのだから、無暗に逆らってはいけないわ」

「ですが、我々と同じく仕える身ですよ」

「仕える主人が尊ければ、下のものたちもその威を借るのは必然だわ」

「――はい」

「じゃあ、あちらの機嫌が損なわないうちに行きましょう。芙児、蓉児、後は頼むわね」

紫苑は小さくため息をつき、立ち上がった。

 深潔に続いて、広い中庭を左手に見ながら回廊を奥へと進むと、むせそうなほど濃密な香りが辺りに漂う。藍照の母、秋絢が愛用する梔子の香だ。初日に会ったときにはそれほど感じなかったが、碧映が留守にするやいなやすぐに焚き染め出した。程なく、透かし彫りが施された扉が現れる。深潔が声をかけると、中から青年の爽やかな声が返ってくる。扉が開き、甘い香りが濃さを増す。書斎に一歩踏み入れると、文机を背に佇む細身の青年がこちらを振りかえった。

「ああ、来たんだね」

涼しい目元を細め藍照がにっこりと微笑むと、文机からほど近くの円卓で優雅に茶杯を傾ける妖艶な美女の薄茶色の瞳が紫苑に向けられる。彼女は茶杯を置くと、口の端を歪め、嫣然と微笑んだ。

「あらあ、まだ覚醒しないのねえ。藍照の時間を奪っておきながら惰眠を貪るなんて、いい度胸だこと」

「お母様、そんなに言っては可哀そうだよ。焦らなくていいのだからね。さあ、かけて」

藍照は優しい微笑みを崩さず席を勧める。紫苑が席につくと、使用人が茶を運んできた。白磁の茶杯に淡い黄緑色がよく映える。最高級の銀毫の茶葉が使われた、藍照気に入りという茶だ。口に含むと、芯のある苦味が喉奥に広がる。紫苑が思わず眉間に力を入れると、秋絢がせせら笑った。

「さて、今日は何を話そうかな」

文机に肘をつき交差させた指先を遊ばせながら、藍照は艶麗に微笑む。それを見て、秋絢の薄茶色の目が紫苑をじろりと舐めた。

「もう話しつくしてしまったのではなくて?貴方がいくら教えても、「力」がなければ理解すらできないはずだわよ」

「お母様。彼女を悪し様に言っては駄目だよ。何せ、宗主様が総員で出迎えさせた子なんだから」

「それは、先代の娘だからだわ。確かに先代は偉大な方だったわ。でもいくらそうでも力がなければ全く無意味じゃないの」

秋絢の高い声が勝ち誇ったように響き、紫苑は恥じ入るように俯く。藍照はその様子をただ微笑んで見ている。

「まあいいわ。この家の恥にならないようにせいぜいお頑張りなさいな」

ひとしきり嫌味を吐き出し、秋絢は優越感に浸って満足した表情で立ち上がる。歩揺を鳴らしながら彼女が書斎を出ていくと、藍照は苦笑を浮かべながら紫苑の方を見る。

「母がすまなかったね。悪い人ではないんだ」

「いえ、大丈夫です」

「嫌味ばかり聞かされて疲れただろう。今日はもう下がって休みなさい」

「いえ、私は大丈夫です。それよりーー」

「悪いけれど僕も色々と忙しくてね。宗主様は国事関連で留守にされていることが多いから、代わりに処理しなければならないことが多いんだよ」

「そう、ですか」

「悪いね。勿論、「力」が使えれば君にも手伝ってもらいたい。だから早く目覚めてくれることを祈っているよ」

「ーーはい。わかりました」

紫苑は俯き加減のまま立ち上がる。辞去の言葉を述べたとき、藍照の澄んだ藍色の瞳が一瞬、愉悦に歪むのが見えた。

 部屋に戻ると、紫苑は椅子に身体を沈める。足は鉛をつけたように重く、喉の奥には梅の種のようなものが詰まっている気がする。

「大丈夫ですか?ひとまずこれをお飲みください」

阿僑が碗を運んできて、紫苑に渡す。軽くとろみのついた人肌の甘さが、じんわりと内腑に沁みる。しばらくすると、蓉児が行火を、芙児が掛布を持ってきて膝に掛けた。

「全く。こんなことならここに来るべきではなかった。もっとお止めすべきでした」

少し頬の痩せた紫苑を見て、阿僑が憮然として言う。

「今なら分かりますよ、旦那様がどうしてお嬢様をこの家から遠ざけたかったのか」

「よしなさい、阿僑」

「だってそうではありませんか!あの親子は嫌味ばかりでお嬢様に教える気などさらさらないようですし。碧映様はと言えばずっと留守にしてばかりでほったらかしなんですよ。お嬢様がこんなに辛酸をなめることになると分かってさえいたら、何が何でもお止めしていました!」

阿僑は眉を吊り上げ憤慨するが、対して紫苑は静かに呟く。

「――だとしても、私はここに来たと思うわ」

「こんなに理不尽な仕打ちを受けているんですよ。日に日に沈んだご様子のことが増えているのに」

紫苑の生白い頬を見て、阿僑の鳶色の瞳が怒りで見開かれる。彼女は更に言い募ろうとしたが、紫苑の芯の強い瞳に制されて言葉を飲みこんだ。飲み終えた葛湯の碗をことりと卓子に置くと、彼女は改めて阿僑の目をじっと見つめて言った。

「心配してくれているのはよく分かっているわ。でも、私はどうしても、本当の自分というものを知りたいの。お父様は教えて下さらなかった。真実を知りたければ、ここに来るしかないもの」

「お嬢様ーー」

疲労の色は見えるものの、漆黒の目には強い光が宿っている。深窓の姫君然とした紫苑だが、一度決めたら頑として譲らないことを阿僑はよく知っている。彼女はそれ以上何かいうのを諦めると、空になった碗にそっと葛湯を注ぎ足した。

 紫苑は二杯目を啜る。温かさと甘さが張り詰めた心情を緩めてくれる。胸の奥のつかえが取れると同時に、彼女はここに来てからのあれこれを思い出す。

 屋敷に来た当初から、秋絢からは剥き出しの敵意を向けられていた。芙児と蓉児によると、離れた場所の光景を見られる「千里眼」を有することを除いて、彼女の「力」自体はそれほど強くない。その代わりずば抜けた美貌を持つ彼女は、若い頃から幾度となく浮名を流してきたそうだ。彼女に求婚する高官は後を絶たなかったが、ある時、彼女は突然彼らとの関係を清算し、皇族の遠縁であること以外に取り柄のない男を婿に迎えた。その後、程なくして生まれたのが藍照だった。生まれながらにして「力」にもそして母譲りの美貌にも恵まれた彼の存在により、一族における秋絢の地位は高まったらしい。そして藍照はというと、碧映からの期待を一身に受け育った。長じて後は、多忙の碧映に代わって些事を処理することも多く、今や一族の誰もが彼を後継者と見なしている。誰に対しても物腰柔らかく、失態にも声を荒げたりしない。麗しい微笑みを浮かべて応対する彼のことを、悪く言う人間など誰もいない。紫苑も例外ではない。秋絢に嫌味を言われた後に気遣われると、一層彼を優しい人だと、味方だと思った。だから藍照の書斎に行って秋絢の嫌味が終わると、話もそこそこに下がるよう言われるのも彼の配慮だと、最初のころは思っていた。だが日が経っても一向に何も教えようとしない様子に、今は次第に違和感を抱き始めている。けなされるだけなら行きたくないと思っても、深潔のような屈強な男が威圧するように迎えにきては、行かないわけにもいかない。結局こうして日参しても有用な話はほとんど聞けず、鄭一族のことどころか、自らの内に眠っているはずの「力」を目覚めさせる術も分からずじまいとなっているのである。

 碗を手にしたまま、紫苑の口から小さくため息が漏れる。先ほどは阿僑に対しさも覚悟を決めたようなことを言ったが、あれは自分に対しての言葉でもあった。このまま何も知らないまま無為に日を過ごすことになったら、何のためにここに来たのか分からなくなってしまう。ただでさえ、毎日のように秋絢から嫌味を浴びせられていたら、自分に「力」が備わっていると言うのは夢幻なのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまいそうなのだ。自己をしっかりと保っておかなければ心ごと折れてしまう。

 底に残った葛湯を飲み干すと、紫苑はすっくと立ちあがった。

「気分転換したいの。庭に出てくるわ」

阿僑がすぐに外衣を取ってきて、紫苑の肩にかける。お供します、とかしずいた芙児と蓉児を制し、手を取ろうとした阿僑を押しとどめると、紫苑は単身庭に下りた。

 庭の木々は、もうすぐ本格的に春を迎えようとしていた。大きな池に架かる橋の両脇には雪柳がしなだれ、散りかけの桃の近くで紅白の木瓜が間もなく盛りになろうとしている。四季折々の草木が植えられた庭は実に華やかで、手入れも行き届いている。紫苑はふと、父・東克のことを思い出す。父もまた色とりどりの草木を植え、手も良く入れさせていたが、あれはこの庭が念頭にあったからなのだろうか。半ば強引に押し切る形で出てきてしまったが、大丈夫だろうか――。

 無意識のうちに東克の顔と屋敷を思い起こしていたことに気づき、紫苑は急いで首を振る。真実をひた隠し欺いてきたのは父なのだ。父が端から自らの出自を打ち明け、紫苑の「力」を封じようなどと考えなければ、自分が今苦しむこともなかったはずなのだ――そうやってある種の憎悪を火種にしなければ、不安や逃避の感情にのまれそうだった。温もりの残像を振り払うように、紫苑は門へと続く石畳を足早に歩く。両脇に並ぶ夜光石は曇りなく磨かれ、陽光を跳ね返す。

 門が見えてきた時、道の脇の敷地に植えられた大木が目に入る。比較的中低木が多い屋敷の庭でひと際異彩を放つ樹木の周りに遮るものは何もない。枝は悠々と四方八方に伸び、ごつごつとした樹皮は野趣がある。枝の先からは、何か白い綿毛のようなものがあちこち顔を覗けている。久々に好奇心が疼いた紫苑がつま先立ちで見上げていると、低い声が玲瓏と響く。

「槐だ。楷の木とも言う」

驚いた紫苑が振り向くと、声の主が門の方から近づいてくる。水色の衣を纏った長身の男は、彫りの深い整った顔立ちをしている。腰帯には紫竹の笛を差している。優雅な数寄者といった風情だが浮ついた様子はなく、芯の通った清々しい感じを受ける。

「楷の木?」

「古の聖人の墓廟に植えられた木だ。葉付きが左右対称で整然としているのが特徴だ。その昔、朝廷で大臣が持つ笏の材料として使われていた。学問上達、科挙合格を祈って塾などに植えられることはあるが、私邸にあるのは珍しいな」

頭三つ分以上も高い背が紫苑の上に庇を作る。やや節のある色白の大きな手が頭上に伸び、枝の一端をつまんだ。

「折らないで!」

紫苑が声を上げると、男は少し眉を上げ、形の良い口元にほのかな笑みを刷く。そして、枝をそのまま彼女の前まで下ろした。

「あとひと月もすれば、ここが房のようになって花が咲くんだ」

しばらくそうして紫苑の好奇心が満たされたところで、彼はそっと枝先から手を離した。撓んだ枝が元に戻るのを見届けると、彼女は改めて目の前の男を見上げる。同じ色白で整った容貌でも、どこか女性的な藍照とは違い、男の顔は抜き身の刃のような剛を感じさせる。研がれた黒曜石のような鋭い眼光もそれを引きたてる。紫苑はふと首元に目をやった。襟元に下がる銀鎖を目にした時、彼女の記憶の何処かでかちりと音がした。そう、この男とは、どこかで会ったことがある――。

 紫苑が記憶を辿り始めた時、背後から甘い香りが漂ってくるのを感じた。

「部屋にいないと思ったら、こんなところで男と逢引きとはねぇ。全く、恐れ入りますわね」

はっと振り返ると、母屋の方から歩揺を鳴らしながら秋絢がこちらにやってきていた。紫苑のすぐそばまで寄ると、彼女の茶色の瞳が男を眺め回した。

「あらあ、随分と立派な殿方じゃないの」

唇に蜜でも塗ったのかと思うような甘い声音で、秋絢は男に秋波を送る。濃さを増した梔子の香りに、紫苑は軽く眩暈を覚えた。だが男は妖艶さ極まる様に相対しても全く動揺する様子がない。

「私は彼女に用があるんだが」

「そうねぇ。でも、宗主不在の今、この屋敷を取り仕切るのはこの私よ。私が知らないところでこそこそ逢引きなんてされると困っちゃうわよ。せめて、どこのどなたかくらいは知っておかないと、ねぇ」

上目遣いで濃密な色気を振りまきながら、秋絢は男の服の袖に手を伸ばす。その瞬間、男の眼光が秋絢を射るように見据えた。秋絢のしなやかな細指が袖に触れる寸前でぴくりと震えて止まり、金糸の縫い取りが施された衣の中に恐る恐る引っ込んだ。

「女性を睨むなんて、感心できることじゃなくってよ」

秋絢が負け惜しみのように言うと、男の白皙の面に冷笑が浮かぶ。

「そちらこそ、いきなり邪魔をしてくるのは感心できることではないな」

「――」

「さて、私は彼女に用があるんだが」

男の目が再び鋭く光るのを見て、秋絢は言いかけた言葉を飲み込み、口惜しそうに踵を返して去っていった。

「――「千里眼」か。あれはあれでなかなかに便利なんだろうな」

殊更に歩揺を揺らして去っていく秋絢の背中に目をやったまま、男が呟く。紫苑は少し目を見開いた。

「ご存じなんですか?」

「噂を耳にしたことがある程度だ。詳しくは知らない」

「そうですか」

「この屋敷の者なら、君の方が良く知っているだろう?」

問いかけの答えを待つことなく、男は再び楷の木に目を転じた。上向きの長い睫毛ときりりとした目尻。紫苑の視線に気づき、男が目を向ける。二重瞼の下で光を湛える漆黒の瞳とぶつかった時、頭の中を記憶がよぎった。広場、炊き出し、藍色の光。口論になった衛兵の虹彩、銀鎖。そして深緑の翡翠――。

「どうかしたのか」

「あ、いえ。ただ、先ほどはどうして助けて下さったのかと思いまして」

紫苑が慌てて話を戻すと、男の眼光がふっと緩む。風が吹き、枝の影が揺れる。

「嫌いなんだ。梔子は」

揺れる枝影を横目で追いながら、男は感情を落とした声で呟いた。どうやら男の方は紫苑に気付いていないようだ。紫苑は胸を撫で下ろすと共に、不思議そうな顔になる。梔子の香りを好む女性は多い。秋絢の焚き染め方は濃すぎるが、ほのかに香る程度なら紫苑も好きだ。もしかすると、何か女性関係のいざこざにでも巻き込まれたのかもしれない。この外見ならそれも頷ける。

「そう言えば、どうして屋敷に?どなたかに御用でも」

「ああ、そうだった。宗主殿を訪ねてきたのだが――留守とのことだったな。いつ頃戻ってこられるか、知っているか?」

「いえ、私も知らないのです」

「そうか」

「ご伝言などあれば承りますわ」

通常の来客の応対通りに紫苑が何気なく言うと、今度は男の方が不思議そうな表情になった。彼は改めて紫苑を上から下まで眺め、問いかける。

「君はこの一族の者だろう?」

「え?ええ、そうですが――」

「宗主殿から聞いてはいないのか」

「何をです?」

男は面白そうな目になると、顔をぐいっと紫苑に近づける。紫苑は驚いて、切れ長の瞳を見開く。男の瞳の中に自分の表情が映り込んだ。既視感のある状況に、耳奥で拍動が聞こえる。とその時、急に肩を強い力で掴まれた。たたらを踏んだ紫苑を屈強な腕が支えると、ぐいと背後に押しやる。するといつの間に来たのか、藍照が深潔の横に並び立った。

「宗主は今不在にしております。玉佩なら、宗主代理の僕がお預かりしますよ」

「そうか?可能なら、直接渡したかったのだが」

男は元の鋭い目に戻ると、頭一つ分超低い藍照をじろりと見た。秋絢に向けたのと同じく冷ややかな瞳。だが藍照も負けじと相対する。

「僕が勝手に中身を読むとお疑いなのですか?いみじくも宗主代理を任されている身です。もう身勝手なことは致しませんよ」

「知る術はないのに、どうして断言できるんだ」

長身と差し貫きそうな程鋭い眼光で威圧する男に対して、藍照も引かない。二人の間で見えない火花が散る。下手に口をはさむわけにもいかず、紫苑は息を詰めて成り行きを見守る。

 綿雲が動き、風が吹き抜ける。しばらく対峙して、ようやく藍照が視線を外す。

「降参です。僕を信じて頂けなくて残念ではありますが。また日を改めていらして下さい」

苦笑いを浮かべながら藍照が言うと、男は小さく鼻を鳴らし、不意に紫苑に目を転じた。そして険しい眼光を緩めて言った。

「その必要はない。玉佩は彼女に預けることにする」

男は言い終わると、深潔のすぐ後ろで控える紫苑に歩み寄る。そして袖奥からほの白い玉佩を取り出し、紫苑に手渡した。男の唐突な行動に紫苑は反射的に玉佩を受けとってしまったが、直後、隣から殺気にも似た空気が立ち上るのを感じ、自分の行動を後悔した。すぐさま男に返そうとするが、男は素知らぬ顔でそのまま立ち去ろうとしていた。紫苑は慌てて呼び止める。

「あの!」

男の足が止まる。その隙に、彼女は深潔の影から抜け出し、男の広い背に近寄った。

「どうして私に?」

男は顔だけ少し後ろにむけ、一呼吸の間の後、静かに口を開いた。

「何も知らないから」

それだけ言うと、男は今度こそ門へと歩き去っていった。紫苑がその真意を測りかねていると、背後からひんやりとした空気が這い上ってきた。後ろへ向き直ると、藍照がじとりと紫苑をねめつけている。紫苑は少しくたじろいだ。彼が自分に対して良い印象を持っていないことは薄々感じてはいたが、これほどまでにぎらついた目で感情がむき出しになるのは初めてのことだった。紫苑は何か言おうと試みたが、人を寄せ付けない雰囲気に躊躇する。藍照は無言で彼女をひと睨みすると、深潔を伴って回廊へと去って行く。

 呆気にとられた紫苑はしばしその場に茫然と立ち尽くす。彼に裏の顔があることは薄々勘づいてはいたものの、ここまでの豹変ぶりとは思わなかった。先程のやり取りからすれば、藍照とあの男との間には過去にひと悶着あったらしい。

 紫苑は手の中の玉佩を見る。乳白色の玉を使用した、一目で上質だと分かる逸品。表面に彫られた龍は双頭で、これまた目にしたことのない柄である。これを巡って何かあったのは確からしい。こういう時に碧映のような「力」があれば、玉に触れるだけで明白なのだが。

「お嬢様!」

玉佩を見つめながらため息をつく紫苑の耳に、ぱたぱたと駆けてくる足音が届いた。顔を上げると、額に薄っすら汗を浮かべた阿僑の姿があった。紫苑の傍に駆け寄ると、彼女はぱっちりとした鳶色の瞳で紫苑の顔を窺った。

「お嬢様、一体どうされたんです?今しがた藍照様が急に部屋にいらして、お嬢様が厄介ごとに巻き込まれているから、すぐ行ってやってほしいって仰るものだから、びっくりしましたよ」

「厄介ごとって?」

「それは阿僑の台詞です!藍照様の表情も何だか妙に強張っていらっしゃいましたし――一体どうされたんですか」

阿僑は一息に言うと、ふと、紫苑が握っている玉佩に目をやった。その眉間にはみるみる皺が寄っていく。

「お嬢様、これは?」

「――長くなるから、とりあえず戻ってから話しましょ」

紫苑はひとまず阿僑を宥めると、回廊の方へと彼女を促した。

 自室に戻った紫苑は、阿僑に一通り話をした。彼女は百面相をしながら話に耳を傾ける。途中で、芙児が茶を運んできた。紫苑の好きな茉莉花茶。茉莉花茶が好きなことは当初から伝えてあったが、長年父の特注茶葉を飲みなれてきた彼女にとっては物足りなく感じた。それを言うわけにもいかず我慢していたところ、ひと月ほど経った頃、気を利かせた阿僑が新たに茶葉を仕入れてくれたのだった。かつて飲んでいた茶葉に比較的近い味は、すぐに彼女の気に入りになった。芳醇な香りが彼女の鼻腔をくすぐる。

「え、じゃあ、広場にいたあの男と藍照様の間には因縁があるってことですか」

紫苑が一通り話し終えたところで、阿僑が尋ねる。

「ええ。詳しくは分からないけれど」

「ちなみに、もらった玉佩とやらはお持ちなんですか?」

「あ、ええ。これよ」

紫苑は袂からのぞく赤い房飾りの端を引っ張り出し、阿僑に渡す。阿僑は乳白色の玉と刻まれた模様を丹念に眺める。

「これ、すごく上物の玉ですね」

「やっぱりそう思うでしょ?翡翠といい、この玉佩といい、絶対普通の身分じゃないと思うのよね」

「そうですよね――」

紫苑の言葉に阿僑は頷きつつ、玉佩の表面の双頭の龍を指でなぞる。と、その指の動きが徐々にゆっくりになる。彼女の眉間がきゅっと寄った。

「どうしたの?」

「いや、どこかで見たことがあるような気がしまして。どこだったか――」

阿僑はそう呟くと、こめかみに手を当て記憶を辿る。彼女は難しい顔をしていたが、しばらくしてあっ、と目を見開く。そして半ば興奮気味に、紫苑の目の前にずいっと玉佩を差し出した。

「これ、これですよ!」

「これって、龍の?」

「そう、これです。これと同じ模様を宮中で見たんですよ!」

「どこで?もしかして、お母様のところにあったの?」

「芳媛様の宮ではないのですが、でも、確か――」

阿僑が再び思索し始めた。思考を整理するように、彼女はぽつぽつとどこか宮の名前らしきものを呟き始める。延喜、鐘粋、長春、儲秀――。

「そう、麗景軒――麗景軒ですよ、お嬢様。あそこで見たんです」

「麗景軒?妃嬪たちが住む宮殿?」

皇城について大雑把な知識しかない紫苑は、その内部の造りなど一切知らない。だが、元宮女だった阿僑なら当然内部、特に母と暮らしていた後宮は熟知している。彼女によると、麗景軒は儲秀宮に併設された殿閣であり、皇城の中で西六宮と称される区画にある。紫苑の母、芳媛は儲秀宮の向かいの咸福宮に暮らしていた。当時儲秀宮の主だった先帝の皇貴妃は大変に気さくな人で、よく付近の宮の妃嬪たちを集めては、観劇や楽器の演奏会などを催していたという。

「確か、珍しい舶来の絵画とやらが下賜されたとやらで、芳媛様と共々儲秀宮に伺った後だったかと思います。散会して宮を出た直後、麗景軒に当時お住まいだった淑貴人が急な眩暈で倒れられたんです。で、そばに居合わせた芳媛様が麗景軒まで介抱に付き添われました。その時、寝台の枕元に守り袋のようなものが掛かっていたんですが――確か、その表面に刺繍されていたのが、この玉佩と同じ双頭の龍だったような気がするんです」

「そうだったの。ちなみに、貴人が倒れた原因は何だったの?」

「分かりません。芳媛様と私が先帝の計らいで密かに皇城を出たのはその三日後のことでしたし――その後どうなったかは存じませんね」

「そんなことがあったのね」

「でも如何せん二十年近く前のことなので、単なる勘違いかもしれませんけれど――でも珍しい図柄でしたからね、多分これだったと思うんですよ」

そう言って阿僑は玉佩を紫苑に返す。手中に戻った龍を見つめながら、紫苑の頭は矢庭に回転し始める。確かに絶対そうだとは言えないかもしれない。だがもし阿僑の述べた通りだとすれば、この玉佩の持ち主は皇城、特に後宮の妃嬪と何かしらの関係を持つ人物である可能性が高い。

 紫苑は玉佩を手にした右手を見つめる。碧映であれば、玉佩を手にするやいなや全てを読み取る事が出来るのに。そう思った瞬間、頭の中で何かが引っ掛かる音がした。

「もしかして――この玉佩は、書簡だったりして」

「お嬢様?」

阿僑が怪訝な顔で紫苑を見た。

「何か分かったのですか?」

「確信は持てないんだけど、この玉佩は、持ち主から宗主様へ意思や言葉を伝達するために使われているのではないかしら」

「だから書簡だと仰ったんですね。でも、じゃあなぜわざわざこんなやり方をしているんでしょう?」

阿僑の問いかけに、紫苑の漆黒の双眸が深みを増す。彼女は探し当てた言葉を、再確認するかのように声に乗せる。

「ここからは単なる推測だけど――きっと持ち主には、文字に残したくない事情があるんだわ」

「文字に残したくない事情?」

「ええ。仮に玉佩の持ち主、つまりは依頼主が皇城と関係する人物だとすると、もしかしたら政治に関することかもしれないわ。ほら、史書には鄭家が皇家を扶けたという記載があるし」

「なるほど」

「あるいは皇家に関すること、という可能性もあるわね」

紫苑はそう言うと、軽く腕組みをする。

 その時だった。部屋の入口の障子戸がさっと開き、続いて低めの凛とした声が響く。

「よく解ったな。流石は兄上の娘、勘が鋭い」

紫苑がはっと声の方を見ると、旅装のまま颯爽と入ってくる碧映の姿があった。頭頂で束ねた黒髪を背になびかせ、彼女は阿僑と紫苑の間に置かれた椅子に腰かける。すかさず蓉児が近づいて碧映の外被を預かる。芙児が新しい茶杯を持ってきて、碧映に茶を淹れた。白い指がしなやかに茶杯をつまみ、香りを確かめるように一二度ゆっくりと回す。ゆっくりと口元に寄せると、白い喉が微かに嚥下した。装飾の排された簡素な恰好であるにも関わらず、その悠然とした挙措はこの上なく高雅だ。

「茉莉花か。いささか変わっておるようだが――よい味だ」

碧映の口元が緩み、ほんのり笑みが刷かれる。

「以前飲んでいたのと似たものを、阿僑が探してきてくれたのです」

「ああ、あの鉱脈一帯の土地で栽培させたという茶か。全く、兄上と来たら」

くつくつと苦笑を交えて言うと、碧映は部屋の隅に控えた双子の侍女に目をやる。

「二人はよく仕えておるようだな」

「ええ。とても気の利く子たちで、助かっております」

「なら良かった」

ふと、碧映の双眸が紫苑の容貌を捉える。青白い頬が前より痩せてしまっているのを認め、程なく碧眼に翳が差した。

「――藍照親子が、苦労を掛けたようだ」

「そうですよ、本当に。特に秋絢様、ですか?あの方に毎日嫌味を浴びせられたせいで、お嬢様はお窶れになってしまったのですよ!」

すまなそうに言った碧映に対し、それまで静かに黙っていた阿僑が矢庭に息巻いた。その剣幕に碧映は一層顔を曇らせ、紫苑は慌てて阿僑を制する。そして大丈夫だと言うように碧映に向かって微笑みかけたが、碧映は憂い顔のままかえって項垂れた。

「阿僑の言が真実だということは、此方も分かっている。本当に、済まないと思っている」

「いえ、そんな」

「母親はともかく、藍照は――あれでも「力」はあるものだから」

碧映の口から「力」という言葉が出ると、今度は紫苑の顔に少し翳が差す。阿僑がはっと碧映を見たが、碧映は大丈夫だと言う風にそのぱっちりした目を見つめ返す。そして紫苑に視線を戻すと、唐突に立ち上がった。

「紫苑、此方についてくるが良い」

「どちらへ?」

「来れば分かる」

そう言うと碧映は蓉児から外被を受け取り、入口の障子戸へと向かう。紫苑も続けて席を立つ。付き添おうと立ち上がりかけた阿僑をやんわりと制すと、紫苑は先行する碧映の背を追った。


 同じ頃、皇城にて。

 後宮のとある宮を長身の男が訪なう。水色の瀟洒な服に玉佩を提げ、腰帯に紫竹の笛を差した青年の手には小ぶりな巻物が握られている。彼は控えの女官に来訪を告げると、巻物を弄びつつ適当に辺りを歩き回る。左右に設けられた花壇には一見何も植わっていないように見えるが、近くに寄るとあちこちで芽吹きがあるのが分かる。女官が夏の開花に向けて念入りに手入れをしているお陰で、雑草一つない。本殿から伸びる回廊脇では木蓮が盛りを迎えている。反対の回廊脇にはコブシが植わっていて、もう少しすれば清楚な白い花を咲かせることだろう。

「殿下、どうぞ」

本殿から妃の側近の女官が出てくると、彼に声をかけた。巻物を袖の奥に収めると、彼は本殿の奥に進み、宮の女主人の前にさっと膝をついた。

「母上。晃謙がご挨拶に参りました」

「来てくれたのね。さあ、お立ちなさいな」

透かし彫りの施された飾り窓を背に優雅に腰掛ける彼の母・礼妃は嬉しそうに微笑むと、息子を立たせる。彼女の横に腰かけるとすぐ、うら若い女官が蓋碗と点心を運んできて脇卓に置いた。碗を取り上げ茶を飲み始める彼の姿を、女主人は微笑みを湛えたまま眩しそうに見つめる。しばらくして、彼は晴れやかな表情で顔を上げ、飲み終えた碗を置く。

「これ、明前茶ですか?とても良い味です」

「流石ね。陛下からの賜り物よ。そなたが好みそうだと思ったから、飲まずにとっておいたのよ」

「ありがとうございます」

「ほら、点心も食べてみなさい。牛乳を使って新しく作ってみたの。侍女たちには好評だったのよ」

淡い藤色を基調とした春の衣装に身を包んだ妃は黄金色の蒸菓子が盛られた器を息子の前に押しやる。彼は端面にこげ茶の焼き色のついたしっとりした触感の一片をつまむと、口に運んだ。餡がない分甘くなり過ぎず、とても美味な一品である。菓子作りが好きな母は、新しい製法を考案しては周囲の人間に配ることもしばしばだ。当人曰く、ただ好きだから作っているだけだそうだが、わざわざ御茶前房の料理人が教えを請いに来るほどの腕前なのだから見事なものだ。彼女が作る菓子は勿論皇帝も好んでいる。今や新しく考案した菓子は命名までされ、「皇帝お好みの菓子」として、皇都内で流行ることも珍しくない。

「どうかしら」

「本当に美味ですね。この前の豆沙包も良かったですが、こっちの方が口に合います」

「そうでしょう?やはり餡入りの甘い点心は女性向けのようね。そなたは気を遣って食べてくれていたけれど」

「――お気づきだったのですか」

「母ですもの、当然よ」

そう言うと彼女は華鬘草が刺繍された団扇を口元に当て、鈴のように笑った。間もなく四十に手が届こうかという年齢だが、その純真無垢な心根は昔から全く変わらない。後宮には数多の妃嬪がいるが、母ほど権勢に無関心で純粋な女人はいない。確かに彼女は他の妃嬪のように名家の出ではない。これといった後ろ盾があるわけではなく、権力争いとはそもそも無縁な存在だった。故に、自分という皇子を生んでも野心を燃やすことなく好きな菓子作りに勤しみ、気ままに暮らしてきた。だがその姿勢が皇帝からは却って評価されたようで、今や後宮内では貴妃に次ぐ序列第二位となっている。昇格しても変わらぬ気質に、皇帝からは変わらぬ寵愛を注がれている。

 晃謙は改めて、団扇を構えたまま笑みを湛えた母を見た。物心ついた頃から変わらぬ、清楚で可憐な容姿。皇帝から寵を受け続けるその純粋さにより、幸か不幸か、昔は取るに足らぬ存在であった自分の太子擁立の可能性が囁かれるようになっているとは、彼女はきっと知る由もないだろう。無論、自身の息子が他ならぬ皇帝の密命で、「皇家の懐刀」と言われる鄭家の宗主と繋がって動いていることも。

「どうかしたの?」

「いえ、何でも。――そうだ、長らく留守にしたお詫びに、これを持ってきたんです」

彼は袖奥に手をやり持参した巻物を取り出すと、母妃に手渡した。ほんのりと色付いた指先が丁寧に細紐を解く。黒目がちな澄んだ瞳が輝きを増して晃謙を見つめる。

「とても素晴らしい観音菩薩様だわ。この、憂いを帯びた慈愛のお顔といい、御髪のおくれ毛や衣の襞の柔らかな曲線といい――まるで生きていらっしゃるようだわ」

「気に入っていただけたなら良かったです」

「そなたが高名な絵師に弟子入りして、度々修行に外出しては居所を明けていると聞いた時はやはり心配だったわ。でも、これほどまでの腕前になれたなら、良かったのかもしれないわね」

「ご心配をおかけして申し訳ありません」

「良いのよ、そなたが己なりの生き方を見つけてくれさえすれば、それで満足だわ」

晃謙は改めて母を見た。邪念など欠片もない澄んだ瞳。柔らかな光を湛えた双眸に嘘偽りなどはないと分かっている。それでもやはり訊いてみずにはいられなかった。

「晃謙?どうかしたの」

「母上は、私の評判について、どうお思いになっているのですか。絵画狂だの、放蕩息子だの、後宮でも色々と噂が立っているでしょう?口さがない連中は母上のことまで悪く言っているでしょうし――」

言葉を続けようとした彼を、白く華奢な手が伸びてきて制する。手を引っ込めると、彼女は春の日差しのような柔和な笑みを晃謙に向けた。

もう少し、頂きます」

「良かったわ。気に入ったなら居所に届けさせるわね」

母が顔を綻ばせる。晃謙がもう一つ蒸菓子を口に運んだ時、本殿の表から侍女が一人小走りに入ってきて、「招かれざる客」の来訪を告げた。

「貴妃様がお越しです!」

「――分かったわ。お通しして頂戴」

彼女はそう言うと、困ったような笑みで晃謙を見た。彼はすぐさま立ち去ろうとしたが、思いとどまる。器の菓子を綺麗に並べ直すと侍女に渡し、改めて運んでくるよう指示すると、彼は奥の調度品の影に隠れた。

 程なくして口上に続き、着飾った女が髪飾りを揺らして本殿に入ってきた。既に四十過ぎにも関わらず入宮したての頃と変わらず色鮮やかな桃色の衣装に身を包んだ気の強そうな彼女は、第一皇子の母であり、父は議政大臣の筆頭大臣という、名門中の名門の出である。実家の権勢と皇帝の長子の母という立場を背景に、彼女は実質的に後宮を取り仕切っている。かつては母のことなど歯牙にもかけなかったのだが、昨年母が急遽妃に昇格した上、寵愛の証である封号までもらってからは何かと敵対視しているらしい。母が膝を折って礼をすると、貴妃は答礼もせずに上座に腰を下ろす。

「貴妃様、私に何か御用でしょうか」

「あらあ。寵愛を受ける礼妃にとっては迷惑な訪問だったかしら?全く、お暇な方は優雅で宜しいことねえ」

「はい。こうして恙なく暮らしていけるのも、貴妃様のご配慮あってのことと感謝しております」

「ふん、相変わらず口だけは達者なことだわね」

その時、母の古参の女官が蓋碗と、先ほど晃謙が盛り付け直した菓子器を捧げ持ってきた。

「貴妃様、これは礼妃様が是非とも貴妃様にご賞味いただきたいと、特別におつくりになったものでございます」

貴妃の前にそれらを置き、女官は恭しく言う。美しく盛られた黄金色の蒸菓子に目をやると、貴妃は再び鼻を鳴らし、侮蔑の目で母を見た。

「礼妃。私が日々後宮の差配に心を配り夜も眠れない程だというのに、お前は菓子作りとは、全く良い根性だわね」

貴妃の嫌味が続く中、晃謙は調度品の影から二人の様子を盗み見る。こうして二人の対峙を直接目の当たりにするのは初めてのことだ。貴妃が母を挑発しているのは明らかで、母の返答によっては貴妃を怒らせてしまうかもしれない。下手をすれば後宮の掟に則り、貴妃が母に罰を与える可能性もある。想像以上に陰湿な女たちの争いを目の前に、彼は知らず知らずのうちに手に汗を握りながら展開を追う。万が一何かあれば、自分が割って入る覚悟であった。

 だが息子の心配をよそに、当の母は涼しい顔で可憐な微笑みを浮かべたまま、貴妃に対応し続ける。

「貴妃様とは違って、私はせいぜい菓子作りくらいしか能がありません。貴妃様の御心が少しでも解れれば嬉しいですわ。牛乳が入っていて滋養にも良いので、疲労回復にはもってこいですのよ」

嫌味攻撃も何のその、あくまで朗らかな笑顔で菓子を勧める母に、貴妃はとうとう根負けして器の蒸菓子を一つ口に運んだ。その様子を見守っていた晃謙は、気位の高そうな吊り眉がほんの一瞬緩んだのを見逃さなかった。

「如何でしょうか」

「――ふん、まあ、多少はましね」

「まあ嬉しい!食通の貴妃様のお眼鏡に適ったなら、私も作り甲斐がありますわ」

そう言って屈託のない笑みを見せた母に、さしもの貴妃も毒気を抜かれたようになった。嫌味や皮肉の言葉を探すのを諦め、貴妃は面白くなさそうに鼻を鳴らし矢庭に立ちあがると本殿を出て行った。母付の女官が慌てて見送りに出る。

 調度品の影に身を潜めたまま、晃謙は内心密かに関心した。心根が無垢で善良な母には陰険な貴妃の攻撃に耐えられないだろうと思っていたが、今しがたの応酬を見る限り、思ったより心配はいらなそうだ。周りの女官も機転が利く。これならば、今後自分が「色々と動いても」自衛できそうだ。

「晃謙、出てきて大丈夫よ」

彼が考えを巡らせていると、鈴の鳴るような声がかけられる。奥から出てくると、折しも差し込んできた陽光に身をゆだね、何事もなかったかのような平静さで優雅にくつろぐ母の姿があった。彼は隣に座ろうとしたが、座面に貴妃の体温が残っているのに躊躇い、母妃の前に中腰になった。彼女はその様子に苦笑する。

「貴妃様のこと、嫌いなの?」

「聞くまでもありませんよ。あの方も、その一族も、全く鼻もちなりません」

「そんなこと、この儲秀宮の外で言ってはだめよ」

「――心得ております」

たしなめられた晃謙がやや眉をしかめて承服すると、彼女はくすりと笑声を立て、言葉を継いだ。

「それにね、私、貴妃様はそれほど悪辣なお方ではないと思っているの」

「なぜです?あんなに嫌味全開の態度だったのに」

「何だかんだ、蒸菓子のことは褒めてくださったからよ」

「あれで称賛と言えましょうか」

「聞いた話だけれど、少しでも気に入らなかったら、すぐに床にたたきつけてしまうそうよ。以前、金歩揺の彫金が気に入らなかったとかで、職人を棒打ちにしたらしいわ」

「――十分悪辣だと思いますが」

戸惑いの顔を見せる晃謙とは対照的に、母妃は清々しい程朗らかに答えた。

「あの方は感情に素直な方だってことなの。表面では仲良くしていても裏では何を考えているか分からないような人よりよほどいいわ」

「――」 

「さて。母はもう少し蒸菓子を作って、そなたの居所に届けておくわね。あ、それと貴妃様のところにもかしらね」

そう言うと、母妃は晴れやかな笑みを残して、宮内に設けられた調理場に行くべく本殿を後にした。入れ替わるように、先ほど貴妃に茶と菓子を運んできた年嵩の女官が入ってくる。入宮した頃から付き従っている母の腹心の部下で、晃謙自身も幼少時からよく面倒を見てもらっていた。彼女は当惑気味の晃謙を見て、そっと背に手をやった。

「礼妃様なら大丈夫ですよ。純粋なお方ですが、決して弱いわけではありません」

「婆や」

「ああいう少し子供っぽく見えるようなお振舞いも、後宮においては一つの生存戦略なのです」

晃謙は回廊の向こうへと消える華奢な後ろ姿を目で追う。これまではそれでも良かったかもしれない。政治や権力への無関心を貫き、ただ己と息子の平凡な幸せだけを求める生き方。だが父である皇帝が二年前に大病を患ってから、自分たち母子を取り巻く状況は変わった。回復し政務に復帰した彼だが、朝廷では早期の立太子を求める声は依然として大きい。その先鋒が皇太帝と称し長きに渡って垂簾政治を行ってきた現帝の父と、先ほど乗り込んできた趙貴妃の父である筆頭大臣、そして彼女の実弟で錦衣衛長官代理を務める趙岳嘉である。錦衣衛は本来皇帝直属の禁軍なのだが、現状は皇太帝に隷属する私兵と化している。同長官は数年前に謎の事故死を遂げて以来空席のままとなっているため、兵権は実質この趙岳嘉が有している状態である。政軍両面の完全掌握を目指す趙家の描く青写真は、趙岳嘉の錦衣衛長官就任、岳嘉の年の離れた弟の議政大臣入り、並びに趙貴妃の息子・第一皇子の帝位継承である。それを阻む政敵は数年前から徐々に粛清され、残っているのは序列二位の議政大臣を務め亡き皇后の実家である楽正家、同五位で古くからの名門・薛家、そして現錦衣衛指揮使をはじめ名将を輩出する武門の名家・司馬家のみである。古より皇家を支えた存在として勲功が史書にも記載されるほどの名家である彼らの存在を、流石の趙家も蔑ろにするわけにはいかないらしく、政治工作自体は慎重に行っているようだが――。

「晃謙様?どうかなさいましたか」

「あ、ああ。何でもないよ。母上を頼んだよ、婆や」

彼はそう言って、母妃の宮殿を後にする。帰り際に花壇にせっせと肥料をやっている下級女官の姿が目に映った。次来る頃には、薄紅色の可憐な花が咲いていることだろう。

 儲秀宮を出た晃謙はよく晴れた空を眺めながら、連なる宮の前をゆったりと歩く。隅々まで手入れの行き届いた道ではあり得ないことだが、仮に道に雑草の一本でも生えていようものなら、多くの人の目に触れるまで存分に眺めたことだろう。後宮の宦官や女官たちには趙家の息がかかった者も多い。だから彼らの記憶に刻み込ませなければならないのだ。「無類の絵画狂の第四皇子は、本当に絵師になるつもりなのだ」と。

 背後から、通り過ぎて行った宮女たちの予想通りの囁き声が聞こえてくる。この分なら、皇太帝の耳に入る日も遠くはないだろう――晃謙が内心密かにほくそ笑んだ時だった。

「こんなところで空を見上げられても、何もありませんよ」

前方から鼻にかかったような声とともに甘ったるい匂いが漂ってきて、晃謙は眉をしかめそうになるのを寸前でこらえる。ぼうっと空を見上げているふりをしつつ横目で前方を窺うと、案の定、向こうから煌びやかな衣装に身を包んだ一団がやってきていた。その先頭でひと際見た目も香りも甘い人物こそ、趙岳嘉その人だ。流し目を一つ送るだけで落ちた女は数知れず、例え金に困ったとしても自身の似姿を描いて売りさばけばたちまち一財産築ける、というほどの傾城級の美貌の持ち主である。彼がただ贅沢好きの美男子だったならば楽だったのだが、剣の腕はともかくとして、実は恐ろしく頭が切れるというのだから質が悪い。これまで趙家がやってきた政敵排除についても、表向きは筆頭議政大臣が行ったことになってはいるが、その実筋書きを書いて裏で暗躍したのは他ならぬ趙岳嘉だとの噂もある。

 岳嘉との距離が縮まるにつれ、梔子の香りも濃くなる。晃謙は、岳嘉の存在にたった今気づいたかのように、突如驚愕の表情を浮かべてみせた。うす笑いを浮かべて岳嘉が近づいてくる。

「殿下、空に何か面白いものでもあったのですか」

「これは岳嘉殿!いやあ、私は青が好きだと師匠に言ったら、空模様を描いてくるようにとの課題が出されたんだ。今日の空と雲の様子は絶妙な塩梅だから、ついつい我を忘れてしまった」

「なるほど。だから殿下の御召し物はいつも青色なのですね」

「あはは、分かるかい?時に岳嘉殿、ちょっと頼みがあるんだが」

「何でしょう?」

艶麗な笑みを湛えたまま、岳嘉はあくまで慇懃に応じる。

「実は今度、大作を描こうと思っているんだ、大きな観音像をね。その御姿を描く参考にしたいから、今度、岳嘉殿の模写をさせてもらいに屋敷に伺わせてもらえないだろうか」

「――私の姿を手本に、ですか」

「そう。ほら、前に父上が大病をしただろう?私には他にできることが思いつかなくて、病気平癒に霊験があると言う寺の観音像を描いて差し上げたんだ。ご回復された後、法師に聞いてみたら、あの観音像は間違いなく効き目があったとのことだ。だが、やはり観音像は大きく、尚且つ今にも動き出しそうな生気が見えるものの方が抜群に効く、とのことだった」

「左様でございますか」

「だから今度の万寿節に差し上げようと、今、師匠のところで修行しつつ仏画を仕上げているんだ。皇都内の色々な寺に行って、模写も散々した。けれどもやはり生気を表現するまでには至らない――そこで、思い出したんだ。前にとある寺の法師が、岳嘉殿はまるで菩薩が転生したかのような方だと言っていたのを。だから、貴公の都合が良い時でいいから、屋敷へ模写に行かせてはもらえないだろうか」

晃謙は懇願するように、金銀糸の縫い取りが施された豪奢な服の袖を引いた。まるで客引きの男娼のような仕草に、岳嘉の背後の取り巻きたちは忍び笑いをする。だが当の岳嘉だけはそうした軽々な行動はしなかった。表情も先ほどから一切変わらない。やはり手ごわい相手だ、と晃謙は気を引き締めつつ、岳嘉の反応を待った。

「宜しいですよ。お引き受けしましょう」

甘い香りを振りまきながら、ほの紅い唇が開いた。

「本当かい!」

「ええ。殿下の、ひいては陛下のお手伝いができるのです。臣下としてこの上ない光栄です」

「私こそ感激しているよ。全く、人の性質は顔に現れるとはよく言ったものだね。法師が言った通り、貴公の仏性は本当に素晴らしいのだろう。良かった、これで万寿節に最適な贈り物ができる」

晃謙が喜色を満面に押し出すと、岳嘉の涼やかな目元がつと細められる。一見恋人を口説いているかのような甘やかな瞳の奥に、一体何が隠れているのか――晃謙の背を得体のしれない感覚がぞわりと這い上った。

「では私から殿下に一つお尋ねしても?」

「ああ、何だい」

「――近頃、陛下が殿下の立太子を急がれている、との噂が巷で流れているようだが――これについてはどうお考えですかな」

晃謙は目元の笑みを崩さないよう固め、岳嘉を見る。変わらず艶麗な微笑みを浮かべてはいるが、きっと、甘い瞳の奥では、鋭い匕首が敵を突き刺すその時を待ち構えているに違いない。やはり一筋縄ではいきそうにない、実に危険な男である。

 瞳の奥の刃を発動させないよう、彼はあくまで自然に見えるよう、その実慎重に他意のなさそうな表情を作る。

「そうなのかい?それならそうと、父上も早く言って下さったら良いのに」

「皇太子になりたいのですか」

「勿論ですとも!何せ、未来の皇帝という肩書さえあれば、天下の稀少な絵画を全て我が手に収めることができるのだから」

晃謙が殊更に哄笑してみせると、岳嘉の目の奥の刃は鳴りを潜めたように見えた。

「確かに、無類の絵画好きであらせられる殿下からすれば、そうかもしれませんね」

麗しい微笑みを湛えつつ、その口元にようやく微かな嘲笑が浮かんだ。晃謙は内心胸を撫で下ろす。

「では、日どりなどについては、また改めてお伝えさせていただきますね」

「できるだけ早く頼むよ。いやあ、楽しみだな」

岳嘉は魅惑的な笑みを残し、礼をすると去って行った。後ろの取り巻きたちがせせら笑うのが聞こえる。晃謙は関門を通り抜けたと安堵しつつ、今度こそ父帝のいる乾清宮へと向かった。

 宮に着いて、彼はすぐに変化に気付いた。まず宮殿の前で控えている侍衛が異様に多い。ざっと数えただけで普段の倍以上、十五名近くはいる。そして彼らの中で自分が見知っている者が誰一人としていない。皇帝の護衛兼側近という立場である彼らは、基本的に議政大臣などの名家の若い子弟から選抜される。その特性上、短期のうちに大規模な人員の入れ替えが行われることはほとんどない。だが先月訪ねてきた時とは顔ぶれがまるで違うことからすると、恐らく、それが実際に行われたのだ。

 晃謙がそっと深呼吸した後、わざと無遠慮に歩を進めると、控えていた侍衛の一人が近づいてきて声をかけてきた。

「殿下。ただいま陛下は午睡中でございます」

「そうなのかい?」

「はい。殿下におかれましては、大変申し訳ございませんが、また改めてお越し願いませんでしょうか」

侍衛はそう言って晃謙に頭を下げた。態度や口調こそ慇懃だが、あくまで通すのを阻むように前に立ち塞がる。

「へえ、それは困ったなあ。父上がまた珍しい書画を手に入れられたと聞いたものだから、いてもたってもいられなくて来たんだがね」

愚かに見えるよう表面では困った顔を見せつつ、その裏で彼の頭の中は冷静に計算を始める。好きな絵画を選ばせてやるという名目で父帝に呼び出され、伝言の玉佩を預かったのはつい先週のこと。「弟子入り」している絵師のところで籠もって絵の修行をする、という名目で外出し、同行した監視役の宦官の目を盗んで鄭家に玉佩を預けたのが三日前。帰還して居所で絵を描いていると、御前太監の徒弟を名乗る若い宦官からの伝言が届いたのが、つい今朝方のことだ。いつものように「珍しい絵」という言葉が入っていたので、晃謙自身も疑うことなく呼び出しに応じて乾清宮にやってきた。まさか罠だったのだろうか。

「取り敢えず、父上に取り次いでみてくれないかい?このまま居所に戻っても、絵のことが頭から離れなくて仕方ないからさ」

顔面に努めて無害な明るさを貼り付けたまま、晃謙は目の前に立ち塞がる侍衛の袖を引っ張った。侍衛の浅黒い顔が動揺するのを見て、彼は内心少しく安堵した。仮にも皇子の肩書に遠慮するようなら、どうやらまだ望みはありそうだ。

「頼むよ、ね、後生だからさ!」

晃謙は、跪拝も厭わないと言わんばかりに哀願を始める。予想通り、侍衛はすぐさま慌てて彼を扶け起こした。善良そうな顔が困り果てたように歪んでいる。もう一押しとばかりに晃謙が声を張り上げた時、宮殿の扉が開いた。中から御前太監の李亮が出てくる。彼はこちらに駆け寄ってくるなり、晃謙の前に膝をついた。

「殿下、お越しでいらっしゃいましたか」

「李亮!今朝方父上から、珍しい絵が手に入ったから来るようにとの言伝をもらったんだよ。お言いつけ通りの時間に来たんだが、御昼寝だとかで、なかなか入れてもらえなくてねえ。この彼からは出直すように言われたんだがね、このまま帰っても悶々とするばかりだから――どうにか今見せてもらえないだろうかと頼み込んでいたところなんだよ」

晃謙は懇願するように、父帝の腹心の老宦官の顔を覗き込んだ。即位前から長年仕え続けている李亮は、文字通り父帝の手足となって動く腹心の部下である。二年前の大病の折、これを好機と捉えて勢力拡大を狙った趙一族により御前太監から降ろされそうになったことがあったのだが、彼は絶妙に潮流を読み、皇太帝との繋がりを強化することで乗り切ったのだった。そんな百戦錬磨の彼なら、きっとうまくとりなしてくれるはずだ。

 老宦官は期待を裏切らなかった。彼は晃謙にだけ分かるよう目配せをして立ち上がると、侍衛に対してにっこりと笑みを見せた。

「陛下は政務にお疲れのご様子でしたので、休息を取っていただこうと思ったのです。それで誰か大臣が来たならば午睡中と伝えるよう申し上げていたのです」

「そうなのか」

「はい。根を詰めることは禁物ですのに――。ですから、皇子殿下に絵画談義をしていただけるなら、絶好の気分転換になります」

「そういうことならば――殿下、失礼いたしました。どうぞお入りください」

侍衛が辞儀をして引き下がる。李亮の先導に続き、晃謙はようやく乾清宮に入った。

 薄荷のような清涼感のある香りが漂う正殿の奥にあるのが、玉座である。この世界の中心を象徴するに相応しく、それは黄金に光り輝いている。座面、天蓋、そのすべてが金銀宝玉で作られ、背後には鳳凰、四方には四神を従えている。一着仕上げるのには腕利きの織子数十人掛かりでも一年はかかると言われる最高級の錦で仕立てられた常服の中央には、金糸で大きな龍が刺繍されている。「双頭の龍」――皇帝の力と権力を表すとされる厳めしいその頭を上に辿ると、対照的に細身の気の弱そうな男の顔がある。豪勢な衣装に収まりが悪そうに包まれているその顔は半ば土気色に見える。

「父上。晃謙が参りました」

「ああ――こたびの絵はそなたもきっと気に入るはずだ。来るが良い」

世界の中心であり至高の存在とされる男は、酷く疲れた様子で玉座を降りると、隣接した控殿へと弱弱しく手招きをする。晃謙が後に続く。李亮はそれを見送ると、正殿入口で控えた。

 控殿に入ると、正殿よりも光の差し込みやすい造りとなっている。それにより、父帝の体調が優れないことはより顕著であった。

「父上、もしやまたお具合が」

「いいからこれをご覧」

晃謙が心配そうに顔色を窺うと、父帝はその言葉を遮る。奥から掛け軸を一幅取ってくると、徐に卓子に広げた。痩せて骨の目立つ手の下から、菊や萩、すすきといった秋の野の風景が現れる。

「秋草図、でございますか?」

晃謙は不思議そうな顔になった。確かに格調高く、良くできた構図だ。草花の輪郭線からは技量の高さが感じられる。だが珍重かと問われれば、そこまでの程度ではない気もする。父帝からはこれまでも様々な絵を下賜されたが、晃謙が訝しむように顔を上げると、父帝は眼窩のややくぼんだ目で薄っすらと微笑んで問いかけた。

「晃謙、玉佩は?」

「はい、つい先日。ですが、直接には会えず仕舞いで」

「案ぜずとも良い。それより――」

父帝がせき込み始める。晃謙は急いで背をさする。その肩は以前よりも一回り薄くなっているように感じられた。程なくして咳がおさまる。晃謙が水差しから水を注いで渡す。父帝はそれを少しずつ口に含み喉を潤すと、再び話し始める。

「あれに直に会えずとも問題ない」

「何ゆえですか?」

「望みを叶えてやるからだ。そうすれば逆らうことはあるまいよ」

「それは一体――」

「じきに分かる」

そう言うと、父帝は目を閉じ、ゆっくりと杯の中の水を含んで喉を潤し始める。更問の許されない雰囲気に、晃謙は傍らで黙ったまま、改めてその姿を見つめる。良く言えば人の善さそうな、悪く言えば優柔不断で気の弱い父。彼は元来、帝位とは縁のない人だった。先帝の末弟を父に持ち、政治とは無縁の琴棋書画に親しむ日々を送っていた彼は、先帝の死期に際して、いきなり複雑な政治の渦中に放り込まれた。本来であれば「温厚」「善良」と評判だった先帝末弟たる彼の父に継承されるところだったのだが、老齢を理由に、その息子である彼が帝位に就くことになったのだった。穏和な性格である彼の父がよく補佐してくれることを期待して先帝は崩御したのだが、それを裏切る形で彼の父は皇太帝として実権を握り、筆頭議政大臣を始めとした趙一族が政治を私物化し始めたのだ。趙家は商人たちとの強い繋がりによる財力を背景に、皇太帝に莫大な私財を提供し続けている。彼らは皇城からほど近い場所にある広大な敷地に御殿「太帝府」を建て、皇太帝はそこで皇城に勝るとも劣らない贅を尽くした暮らしを送っている。重要な政治判断は勿論皇帝の執政の場である乾清宮で裁可されるが、それは建前に過ぎず、実際は事前に太帝府で大臣たちを集めての協議が行われているのである。

 所詮は飾り物の皇帝――そう言われて久しい父帝だったが、幸か不幸か、二年前に突然大病を患ってから、少しずつ姿勢が変わり始めた。その最たるものが、趙貴妃の子である第一皇子の立太子保留であった。立太子自体は以前から朝議の場で取り上げられており、一部の議政大臣を除き、長子である第一皇子の擁立に意を唱える者はいなかった。皇帝自身も特に意見することはなく、立太子は程なく決まるものと思われていた。しかし、大病から奇跡的な回復を見せた皇帝が急に難色を示し始めたことにより、事態は急展開を迎えた。まずは亡き皇后に立派な諡号を与えて追葬し、楽正家の機嫌を取った。そしてこれまで一貴人に過ぎなかった晃謙の母を礼妃とし、趙貴妃の次位に昇格させた。生母の身分は即ちその子女に影響する。寵姫の息子となった晃謙は一躍立太子争いの対抗馬となり、注目を浴びるようになったのだった。

 夕暮れ間近の西日が部屋に差し込み、父帝の力ない背を照らす。彼が自分を第一皇子の、ひいては趙家の牽制としたがっていることは分かっている。本当に帝位を継ぐかもしれないという噂すらあるが、そんなつもりは毛頭ない。昔の父同様に書画を好む自分としては、芸術に囲まれる生活も悪くないと思っている。だが、敬愛する母が巻き込まれるならば、話は別だ。何も後ろ盾がないということは、自身の舵取り如何で強点にも弱点にもなり得るわけで、所謂諸刃の剣である。政治の表舞台と後宮は相関している。表での自分の立場が即ち後宮内での母の立場にも影響してくることとなり、逆もまた然りである。母のこれまでの安寧な暮らしを守るためにも、自分はうまく立ち回らなければならない。だからこそ、父帝の求めに応じて「皇家の懐刀」と言われる鄭家との連絡役を担いつつ、あくまで趙家側の警戒心を煽らないように暗愚を装っている。父帝もそれを理解し、何か用があるときは隠語を使うようにしているのだが――。

「そういえば、今朝居所に来たのは、いつもは見ない顔でしたね」

晃謙がふと尋ねると、父帝はゆっくりと目を開ける。

「あれは、李亮が?」

「ああ。これまで使っていた者は趙家の犬だったようだ。言っていなかったが、今朝使いにやった太監をお前の側に仕えさせる。後で李亮から話があるだろう」

父帝は疲労の色濃い顔で深くため息をつく。そろそろ本当に休息が必要なようだ。そう思った晃謙が辞去の旨を述べると、父帝は卓子に広げたままの掛け軸を丸め、晃謙に渡した。

「次に鄭家に行くときでいい。これを宗主に渡しなさい」

「渡すだけで宜しいのですか」

「ああ」

怪訝な顔をしつつも晃謙が掛け軸を袖奥に収めたのを見届けると、父帝は徐に立ち上がり、控殿の奥にある寝台へと向かった。

 晃謙が正殿に戻ると、入口で控えていた李亮が心得たように近づいてきた。正殿の敷居を跨いだところで、李亮は周りに聞こえるように見送りの旨を伝える。こうして正殿から宮の外に出るまでの短い間に、李亮を通じて父帝からの伝言を聞くのが通例となっている。

「陛下からお聞きになったかもしれませんが、今朝伝達役を務めたあの者を、以後お側に仕えさせます」

居並ぶ侍衛たちに聞こえるよう架空の書画の話をする合間に、李亮がそっと肝心な言葉を挟んだ。

「趙家との繋がりは?」

「――実は、分家筋の庶子なのです。父は筆頭大臣の異母弟で、母は屋敷の下働きでした」

「そんな人間がなぜ?」

「近年趙家は内廷での勢力を増そうと、分家筋で身分の低い者を宦官にして送り込んできているのです。彼もその一員として送り込まれてきました」

「ならば、私を監視するためか」

「その可能性は排除できませんが――私が身辺調査をしたところでは、大丈夫かと」

「分かった。どのみち、しばらくは様子見だ」

「承知しました。私めもそのように考えておきます」

話している間に宮門に着く。李亮が頭を下げる中、晃謙は来た時同様に空を見上げながら居所へと通じる道を歩く。彼方の薄茜色が黄金色の光に融け、雲間は淡い藤色に染まっている。

 空を見上げたまま、晃謙は胸元に手をやった。手に固い塊が触れる。昨年の生日、鄭家への伝言用の玉佩とともに父帝から賜った石飾り。貴重な翡翠で作ってあるというこの飾りを、爾後肌身離さず着けておくようにと仰せつかったのだった。宝飾にはこれといって興味のない自分でも深山の息吹を思わせる深緑に惹かれる程なので、相当な品であることは間違いない。以前に錦衣衛が催した皇都広場での炊き出しを密かに見張っていた際、ぶつかってきたどこぞの良家の娘も珍重な品だと言っていた。母妃からは、強力な魔除けと幸運の石だと太鼓判を押された。しかし、あれから随分と経つが、特別何か幸運だと思える事象は起こっていない。鄭家との繋がりについても、父帝の役に立てるなら、ということで連絡役を務めるようになったが、こちらが一方的に何かを「渡す」ばかりで、一週間後の返却の際には何の言伝もない。一度痺れを切らして一週間経っていない状態で押し掛けたことがあったが、その時など、藍照に不意打ちで心の中を透視されかけた。加えて先日出てきた女が振りまいていた梔子の匂いは、あの趙岳嘉を彷彿とさせ、不快な思いをさせられた。父帝からは、繋がりは役に立つと言われたが、自分自身としては、今のところよく解らない。「皇家の懐刀」と形容されるだけあって、確かに、人心を読めるという異能力は強大な武器となり得る。だが少なくとも、あの母子の心象は良いとは言えない。そんな人間が次代を担うというのだから尚更だ。鄭家に行って唯一良かったことと言えば、庭園の楷の木が立派で、大変見事な紅葉を楽しめたということくらいだろうか。

 腕を動かすと、袂の奥深くにしまい込んだ巻物が触れる。これを届けるため、自分はまた近いうちにあの屋敷を訪ねることになる。彼はふと、先日赴いた時に会った少女を思い出した。藍照やその母親とは違い簡素な身なりをしてはいたが、挙措や立ち居振る舞いからして使用人ではない。だとすれば彼女もまた一族の人間ということになるが、一族固有と聞くその「力」についてはほとんど無知のようだった。だからだろうか、以前に藍照とあんなことがあったにも関わらず、特段抵抗感も抱くことなく彼女に対しては特段抵抗感も抱くことなく、すんなりと玉佩を手渡した。それどころか、不思議なことに、あの目にはどこか既視感すら覚えた。深い水底のような、澄んだ輝きを湛えた漆黒の瞳。

 晃謙は少し立ち止まって、改めて点々と浮かぶ雲を眺める。少女の美しい双眸からは、なぜか別の色も感じた。それはちょうど雲と雲とが重なった藤紫のような、深みのある色だった。何も考えず、ただただ愉しんでこの美しい空を描ける日は来るのだろうか――そんな考えが胸に去来し、彼は口元に諦めとも自嘲ともつかぬ笑みを浮かべた。

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