第9話 覚醒

 数日後。

 その日は朝から花曇りの天気だった。朝恒例の藍照からの呼び出しがないことを紫苑が不思議に思っていると、碧映がふらりと部屋にやってきた。いつも旅装姿が多い彼女だったが、この日は簡素な男物の平服を着ていた。

「紫苑、出かけるぞ」

「今からですか?どちらへ?」

「着けば分かる――ああ、供は要らないよ」

碧映は相変わらず唐突に紫苑と、傍に控える阿僑に向けてそう告げる。

「お戻りはいつのご予定でございますか」

「大方ひと月後といったところかな。秋絢の焚きしめている香が薄くなってきたら、帰宅する頃だと思ってくれ」

戸惑いながらも阿僑が承知の意を述べると、碧映は紫苑の手を引き、外へと連れだした。

 中庭に出ると、灰色の風が満開の雪柳と連翹を揺らし、紫苑の貝紫色の裾をふわりと撫でた。常のように紫苑が屋敷の正門へと足を向けかけると、碧映はそれとは逆の方向へ彼女を誘う。回廊伝いに奥へと延びる細い路地を進む。離れの書斎を通り過ぎ、更に奥まったところには杉板塀があり、行き止まりになっている。一見何もなさそうな部分を碧映が押すと、はめ込まれた板が回転した。促されるまま紫苑がそこを通り抜けると、外には簡素な板張りの馬車が止められていた。上には御者が一人乗っている。碧映が近寄り声をかけると、覆面姿の御者がこちらを向いた。

「見張りの後で済まない。ご苦労だが、よろしく頼む」

御者は一言も発さずただ頷くと、再び前を向く。碧映と紫苑が順に乗り込むと、程なく馬車が動き出した。

 屋敷に連れてこられてきた時と同様、窓を開けることが禁じられているため、車輪の音だけが頼りである。ただ板の隙間から外界の光が漏れ込んでくるので、夜光石がなくともそれほど不安には感じない。馬車はしばらくは軽快な音を立てていたが、未舗装の道に入ったらしく、次第にがたがたと揺れ出した。傾斜もついているように感じる。折しも車内に漏れ込む光が弱まり、紫苑はやや不安な気持ちを覚え始める。察した碧映が紫苑の汗ばんだ手を優しく握る。ひんやりした体温が心地よい。

 そうしてまたしばらく経った時、碧映がすっと手を離す。

「窓を開けてご覧」

言われた通りに、紫苑は板戸に手を掛けた。しっとりと冷たく澄んだ空気が首筋をさらう。外を覗くと、そこは一面木立の山の中だった。鬱蒼と緑を蓄えた松や杉といった常緑樹の合間に、広葉樹の新芽が覗く。風の奥、どこかから聞こえてくる水音に、紫苑は耳を澄ます。

「――そろそろかな」

碧映が呟く。水音はだんだんと近づいてくるようだった。渓流、というよりも滝だろうか。そんなことを考えていると、馬車が止まった。

「さ、おいで」

碧映に続いて紫苑は馬車を降りる。木々の葉擦れと積もった落ち葉の匂い。立ち込める靄に包まれるように、こじんまりとした村里があった。紫苑は先導する碧映の背を追う。里の入り口らしき柴垣を抜けると、どこかから石を砕くような音が聞こえてくる。とそこへ、小柄な人影が現れる。紫苑より若干年少に見えるその子は、真っ白な髪の毛と真紅の瞳をしていた。格好自体は男物だが、その愛らしく微笑んだ顔立ちは少女のようにも見える。

「鄭家宗主殿、並びに鄭紫苑殿。お待ちしておりました。長さまの所へご案内いたします」

少年にも少女にも聞こえる声で慇懃に挨拶すると、紫苑よりも頭半分は小柄なその子は二人の先に立つ。

 何とも不思議な里であった。行き交う人々は男女を問わず、ほとんどが案内役の子と同じく白髪で紅の目、雪さながらの白い肌をしていた。そしてすれ違う度、例外なく皆澄んだ瞳で優しい笑顔を向けてきた。彼らからは、少なくとも紫苑が知るどんな人間とも違う、混じり気のない純粋さと明るさを感じる。道の途中のいくつかの平屋からは、何かを砕いたり研磨したりするような音が聞こえてきた。好奇心から紫苑が目を凝らすと、こちらも中から例外なく屈託のない笑みがかえってきた。誰かに強制されているようには見えない。何より、人なら大なり小なり持っているはずの穢れや邪念と言ったものが一切感じられなかった。

 やがて一行は村の小高い場所に建っている平屋造りの館に着いた。案内役の子に続いて奥に進むと、竹林の水墨画が施された襖が見えた。

「長さま、お連れいたしました」

「お入り頂きなさい」

襖越しに穏やかな声が響く。案内役の子が襖を開けると、こじんまりとした広間が現れる。広間の奥には、先ほど見かけた村人たちと同じく真っ白な頭髪の小柄な人物が品良く座していた。髪は肩口辺りで切り揃えられ、女物の白装束に身を包んでいる。深い皺が刻まれた首筋からは大ぶりの勾玉飾が胸元の袷にかけて提げられている。俯き加減だった老婦人がふっと視線を上げた。燃え盛る炎のような緋色の瞳が碧映と、そして紫苑を捉えた。目力の強さに気おされかけたのも束の間、彼女はまるで離れて暮らす孫娘と久々に会えた時のような、親愛と慈愛に満ちた笑みを見せた。

「まあ、あの時の赤ん坊がこんなに大きくなっただなんて――こちらへいらっしゃいな」

老婦人が紫苑に対して優しく手招きをする。急な展開に戸惑いつつ碧映を窺うと、促すように小さく頷いている。躊躇しながらも紫苑は老婦人の側へと寄った。生きてきた歳月を物語るように顔や手には多くの皺が刻まれているが、瞳は生き生きと輝き、齢を感じさせない。彼女はしばしの間じっと紫苑の瞳を見つめた。奥底まで見透されているようだとは思ったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

「ほんに、良い子に育ったこと。あと一押しってところかしらね」

老婦人は碧映に視線を移すと、穏やかな声ながらも嬉しそうに言う。紫苑は目を丸くして碧映の方を見る。

「宗主様、この方は一体――」

「彼女が白家当主で、長どのと呼ばれているお方だ。そなたも生まれた時に一度お会いしている」

見当もつかない話紫に苑が解せぬ顔をしていると、老婦人の口の端から上品な笑い声が漏れる。

「まだ目覚めていない子にそんないきなり説明しても混乱しちゃうわよ。ほんと、せっかちさんなのは相変わらずのようねえ、宗主殿」

老婦人がくすくすと小さく笑いながらからかい混じりに言うと、碧映は苦笑して恥じらうようなそぶりを見せた。常に泰然自若として何事にも動じず凛と気高い彼女が、老婦人の前では僅かにではあるが可憐で愛嬌があるように見える。彼女は纏めた後ろ髪を手で梳くと、改めて老婦人に向き直る。

「全く、長どのの前ではうまく行きませぬな。それと、私のことは名前で構いませんよ」

「ふふっ。そういう素直なところは少しも変わっていないわね。またお義母様と呼んでくれてもいいのよ」

「存在しないご子息の、お義母様でしたけどね」

「貴女は白家の里と婚姻するためにここに来たわけでしょう?私はこの里の母ですもの、当然貴女の義母だわ。戻りたければいつでも戻ってきていいのよ、歓迎するわ」

「――やはり遠慮しておきます。今はもう、里を出た身ですから」

「あら残念」

碧映との軽口を愉しむと、老婦人は未だ解せぬ顔でやり取りを見ていた紫苑に向き直った。力がありながらも、どこか暖かみと懐かしさを感じさせる瞳だ。彼女は改めて紫苑に優しく微笑みかけて言った。

「ようこそ「白の里」へ。長として貴女を歓迎するわ」

 

 雨音が軒を打つ。吹き込む風が雨と微かに土の匂いを運んでくる。霞みがかった遠くの山並みも、今は雲と雨にかき消されてすっかり見えなくなっている。多くの人がそうであるように、紫苑とて特段雨が好きというわけではない。だがこの縁側から臨む山間の雨模様は不思議と落ち着くし、心が満たされる気がする。円座の上で組んだ足を解き、紫苑は大きく伸びをする。しっとりと春雨の匂いが鼻腔に満ちた。

 背後で軽い足音がして、程なく襖が開いた。この里に着いた時に案内役を務めた少女、葵が小さな籠を手に立っていた。彼女は軽やかに紫苑の側に来ると、花びらが舞うようにひらりと座る。籠から蓋付の小鉢を一つ取り出し、紫苑に手渡す。

「これ、作ってみたんだけど、どうかな?」

紫苑は蓋を取る。紺色の小鉢の真ん中に、淡い黄金色の丸い餡のようなものが鎮座していた。黒文字で切った欠片を口に入れる。抑えた甘さにさつまいもの風味が良く出ている。

「美味しい!何て言うお菓子なの?」

「芋きんとん、っていうらしいよ。昨日麓に帰っていった人、前は菓子職人だったらしくて。作り方を教えてくれたんだ」

「ああ、あの浮浪者になっちゃったって人ね」

「うん。気持ちが軽くなって、またお菓子を作りたくなったんだって。良かったよね」

葵はのんびりと言い、縁側に両脚を投げ出した。二口目の舌触りとまったりとした甘さを愉しみながら、紫苑は一週間程この里に逗留していた初老の男性を思い出す。

 白家の一人が連れて帰ってきた当初、彼は浮浪者特有の饐えた臭いを振りまき、憑りつかれたように独り言を呟き続けていた。だが葵の母が石を用いて気を整えてやった結果、不可解な言動は徐々に減り、四、五日経った頃には、見学に来ていただけの紫苑とも雑談がかわせる程にまで回復していた。彼曰く、長年連れ添ってきた妻が数年前に他界して以来、悲しみを打ち消すよう日々慌ただしく動き回っていると、突然、家や財産を捨てるようにとの天の声が降ってきたという。気付けば何もかもを売り払い、財産を行きずりの行商人に渡して野宿をしていたそうだ。そしてその行商人というのが、山で採れた薬材を売り歩いていたこの里の一員だったのだという。今になってみればなぜこんなことになったのか訳が分からない、と彼は血色を取り戻した頬に笑みを浮かべて言った。だが葵の母曰く、大切なものを喪った悲しみや怒り、後悔により体内の気脈が乱れ、通常では考えられない観念に陥ってしまうことは、ままあることだそうだ。

「そういえば、紫苑って鄭家の人なんだよね」

葵が両足をぷらぷら遊ばせながら聞いてくる。

「うん、まあね。どうかしたの?」

「いつか「力」を使うようになったら、私に守り石を作らせてくれる?」

「守り石って?」

「そっか、まだ知らないよね――ううん、何でもない。気にしないで」

そう言うと、葵は可憐な笑みを一つ残し、空の籠を手にひらりと立ち去った。紫苑は小鉢に残った黄金色の欠片を口にする。作り手の性質が移ったかのような優しい甘みが喉奥へと融ける。小鉢に蓋をして置くと、彼女は霞んだ木立を眺めつつ、穏やかで規則正しい雨音に耳を傾ける。

 ここに来てはやひと月近くになるが、碧映の屋敷と同様、ここでもまた特に何もすることなく、ただのんびりと日々を過ごしている。世話係兼話し相手の葵とおしゃべりをしたり、彼女の案内で里の中を見て回る以外は、こうして縁側で山間が晩春そして初夏へと季節が移っていくのを眺めるだけだ。碧映は別の館に逗留しているものの、白家の長共々どこかに出かけているらしく、顔を合わせることもない。結局、自分が何のためにここに連れてこられたのかもさっぱり分からないまま、ただ無為に過ごしている状況は変わらない。救いは年の近い葵の存在と、深山の美しい景色を堪能できることくらいだろうか。苛立ちを覚えたとしても、こうして澄んだ空気に触れていると、それだけで息の詰まる感じはしなくなるのだから不思議だ。

 それに、葵の案内で里を歩いていて、色々と収穫もあった。例えば、以前に碧映に尋ねたものの教えてもらえなかった白家のことだ。普通は血筋によって家の当主を選ぶところだが、ここはそうではなく、前当主が臨終の際に直接指名するという体制になっている。選考に関しては明確な要件などはないとのことで、これまで男女を問わず選出されてきた。ただ葵が言うには、これまでは皆「姿見」ができる者が選ばれることが通例となってきたそうだ。鄭家に人心透視能力があるように、白家にも固有の能力がある。それが「姿見」と石を用いた浄化や治癒だ。特に重要なのが前者の「姿見」だ。鄭家の血統はほぼ例外なく透視能力を有するが、その力量や「力」の具体的な態様は生まれた時から決まっている。そこで鄭家では子供の生誕とともに白家から「姿見」を呼び、その力量を見定めてもらう。出生直後に行う理由は、「力」の性質によっては人の気や穢れを受けやすくなる可能性があり、早期に石の治療が必要になることも考えられるから、ということらしい。そして二つ目の、石を用いた治癒については文字通り、水晶などの石を用いて対象となる人の気脈を整えることである。先日の元菓子職人のような一般人に施すこともあるにはあるが稀なことで、大抵は鄭家の人間に対してしか行わないそうだ。このように欠かせない存在の白家に対して、鄭家からは逆に金銭面での援助や庇護を提供しているそうだ。

 いつの間にか雨音は止み、巣へと帰る鳥の鳴き声が聞こえる。紫苑は徐に立ち上がる。踏み石の奥から靴を出して履くと、彼女は庭に下りた。霧の立ち込める山の斜面の所々に、つつじの花が彩りを添えている。一陣の風が木の葉の露を払い、竹節が籠もった音を鳴らす。雑踏から離れた別世界。自然の風物だけに囲まれていると、まるで伝奇の中の仙人にでもなった気分だ。自然に融け込み、一体化し、清らかな空気を身体中に循環させる――なんと心地良いことだろう。

 ひとしきり堪能したところで紫苑は部屋の中に戻る。薄暗い室内に燭台を灯すと彼女は静かに正座し、自然の中で満たされた感覚を確かめる。だがやはり形容し難い焦燥感が現れるのは禁じ得ない。独りでいると尚更そう思える。

 遠くで鳥の声がする。次いで耳奥に微かな水音が届いた。川?否、これは滝だ。しぶきを上げながら泉に滔々と落ちる、雄々しい滝の音。彼女はそっと目を開ける。今しがたまで確かに胸を満たしてくれていた充足感は費え、喉元に何か綿の塊でも詰まったかのような息苦しさを覚えた。その時、彼女の眼前に鮮烈な色が現れる。途端に彼女は何かに突き動かされるように立ち上がった。見開かれたままの切れ長の双眸には、漆黒の中に力強い濃紫色が見え隠れしていた。

 

 彼女はひたすらに耳奥の滝音を求め木々を分け入る。雨上がりの森は一層濃い靄が視界を塞ぐ。時折木々がざわめき、冷たい露が豊かな漆黒の髪を濡らした。だが彼女の足取りに躊躇いはない。雨で重たげな杉や鮮やかな若葉を茂らせた楓の間を抜け、彼女は滝音の響く方へとただただ歩いていく。

 どのくらい歩いただろう。濃紫の瞳がついに求めていた音の源を捉える。新緑の木々が影を差す一角に現れた泉。荘厳な滝がその水底を揺らしている。吸い寄せられるように、紫苑は泉へと近づく。しばし畔に佇むと、彼女はしゃがんで泉に手を浸けようとした。

 その時。黒い物体が飛来して、水面に触れかけた手を払った。突然の出来事に彼女ははっと立ち上がって我に返る。薄い足衣しか着けていない足はずぶ濡れで、服の裾は泥や落ち葉でぐちゃぐちゃになっている。濡れそぼった衣が肌に纏わりつき、彼女は思わず身震いをした。そして何よりも――。

「一体、ここはどこなの」

彼女はゆっくりと周囲を見渡す。晩春から初夏へと移ろう、美しい深山の景色。滔々と流れ落ちる滝と清水を湛える泉。眼前に広がる一幅の絵画のような光景に、彼女は漆黒の瞳を瞬かせる。自分は確かに先ほどまで部屋の中で座っていたはずだった。なのにこれは一体どうしたと言うのか。

「ここは、「白の滝」。その名の通り白家のものだが、鄭一族の故郷でもある」

不意に背後から低い掠れ気味の声が響く。紫苑がはっと振り向くと、木立の間から見覚えのある長身の人影が現れる。濡れた落ち葉を踏みしめ、細身の男は一歩一歩歩み寄ってくる。虚空から羽音が舞い降りる。彼が右腕を掲げると、大柄な漆黒の鳥は胴を震わせてその腕に留まった。隼の青い目がじっと紫苑を見つめる。

「お父様?なぜこちらに」

「「予見」で視えたからね。お前が今日この場所を訪れることは、私にとっては必然だった」

あと数歩まで近づいたところで、東克は立ち止まる。感情の読めない端正な顔。薄い唇がわずかに弧を描き、切れ長の双眸が瞬時に黄金色に変貌する。しばらく紫苑を眺め、彼は小さく息を吐く。

「やはりここでは回復が段違いだな」

そう呟くと彼は諦めにも似た微笑を口の端に刻む。そして徐に後方を振り返った。

「さて、これで役者は揃っただろう?」

掠れ気味だが張りのある低音が木々をこだまする。葉擦れの音に続き、霧の中から大小二つの白い人影が横並びに現れた。目深に被った頭巾を下ろすと、碧映と白家当主の老婦人は至って平然とこちらに近寄ってくる。

「全く兄上ときたら。何もこんな天気の日に呼び出さずとも良いだろうに」

「あら、そうお言いでないよ、碧映。雨後の空気は穢れがなく、石の力を最も引き出しやすい。だからこの日になさったのだと思うわよ。違うかしら、前宗主・透刻殿?」

「流石は長どの、良く分かっていらっしゃる。――長年お傍にいて分からないわけではないだろう、碧映。過去の因縁に拘泥して感情的になるとは、お前らしくもない」

「まさか。愛する妻子のためなら簡単に理性を手放す兄上ほどではない」

「はいはい、兄妹喧嘩なら他所でやって頂戴ね」

少しへそを曲げた碧映の隣で、矍鑠とした足取りの老婦人が優雅に微笑む。二人は東克の面前で立ち止まる。老婦人は一歩踏み出すと、小さな手で東克の腕にぽんと触れる。そして変わらぬ笑みを紫苑に向けた。

「ごめんなさいね、急に呼び出しちゃったりして」

「呼び出した?いえ、私はつい先ほどまで自室にいたはずなんですけれど――気づいたらここにいたんです」

「部屋にいた時に、何か聞こえなかったかしら。例えば、水音とか」

「水音――そう言えばなぜだか急に耳奥で滝みたいな音がして」

ちょうどこの滝みたいな、と答えようとして、紫苑ははっと思い出す。そう確か、どこかで鳥の羽音がして、その後にあの滝音が流れ込んできたのだった。

「鳥の鳴き声もしただろう?あれは、このアオがお前に滝音を伝えたんだよ」

東克は紫苑に向き直ると、腕に留まった黒い隼の頭を優しく撫でる。隼は青い目をつむると、嘴を東克の手に擦りつける。まるで言葉を理解しているような様子に、紫苑は驚いた顔をする。東克は長い指で光沢のある嘴をなぞりながら答えた。

「使役鳥というんだ。鄭家では私しか使えない。私の思念を伝達するのが主な役割でね」

「なぜお父様しか使えないのですか」

「アオは元々私の一部だったからだよ。「予見」の力が目覚める時に、私の中から分離する形で生まれたんだ。分身みたいなものかな。だから他の者の思念を載せることはできない――まあ、詳しいことはいずれ分かるさ」

何が何だか分からないといった様の紫苑に、東克は淡く微笑んで見せる。ここに来て彼がようやく見せた父の顔だった。ぱん、と突如手を鳴らす音が響く。見ると口をへの字に曲げた碧映が腕組みして近づいてきた。

「さて、じきに日暮れだ。引き延ばしたとて結果は変わらぬ。さっさと覚悟を決めたらどうだ、兄上」

碧映が挑発的に東克を見る。対する東克は眉が一瞬跳ねたものの、すぐにまた無表情に戻った。それを確かめた後、碧映は紫苑に向き直る。

「紫苑、例の翡翠の腕輪は持っているな?」

「ええ、はい」

「貸してみなさい」

紫苑は袷の奥に手を入れる。やや湿った錦の袋を出すと、中から常盤色の翡翠の腕輪を取り出した。山の清々しい空気を浴びてより透明感が増して見える。紫苑はそれを碧映に手渡す。腕輪はしばらく碧色の鋭い視線にさらされて後、傍で静かに成り行きを見守っていた老婦人の手へと渡った。小さな手のひらに鎮座する常盤色と、それを食い入るように見つめる緋色の瞳との対比が実に鮮やかである。少しして、老婦人がふっと愉悦の笑みを漏らした。彼女は紫苑に手を伸ばすと、優しい声で言った。

「右手を出してご覧」

紫苑は言われた通りに右手を差し出した。老婦人は掌中の腕輪を紫苑の手首に嵌める。手のぬくもりが華奢な手首を包み込む。彼女はそのまま左手で紫苑の手首を握ったまましゃがむと、泉の中にその手を浸けた。水の清冷さが肌を通じて全身に伝わる。身体全体に馴染んだ感覚を覚えた時、ふと老婦人が穏やかな声で問いかける。

「この滝に、見覚えはない?」

滝に、見覚え――胸の内でそう反復したとき、突如、紫苑の脳裏にある映像が蘇る。新緑の深山の朝。霞みがかったけものみちを歩く。風に鳴る梢や鳥の声に背を押され、前へと進む。どこからか水音が耳に届く。音の方へ足を向けると一本の滝が覗く。砂利の一粒一粒が見える程に透き通った泉。風に合わせて緑陰が形を、濃さを変えていく。――そう、これは夢の中の景色。見ている間はずっと、不思議な心地よさの中に浸っていた。醒めてなお、戻ることを望んだ情景。

「あの夢――どうして忘れてしまっていたのかしら」

記憶の淵に浸ったまま、どこか虚ろな目をして紫苑が呟きを漏らす。優しく右手を握る手指の感触が増した。老婦人が間近に顔を寄せる。紫苑はぼんやりと視線を上げた。緋色の虹彩の中に、漆黒と濃紫が混ざる。

「大丈夫よ。夢は今、現実にあるわ。もう記憶の中に戻る必要はないの。こっちに出ていらっしゃいな」

さあ、と老婦人の右手が紫苑の眼前に伸ばされる。夢から醒める直前に似た混濁した世界に意識を置いている紫苑には、老婦人の言動に何の意味があるのかは分からない。だが伸ばされた手を掴むのが正解なのだろうと本能的に感じた。幼子が母の腕に縋るように、紫苑は無意識に自分の左手を伸ばし、目の前で待っている手に絡める。一陣の風が衣服の袖を捲り、老婦人の右袖奥からやや不揃いな紅梅の花弁が覗く。

 次の瞬間、何か強い力に身体ごと引きずり出される感覚がして、紫苑は矢庭に立ち上がる。先程まであった、手首を握られるような感覚はない。どさ、と何かが倒れる音がする。見ると、老婦人の小さな身体が足元に崩れかかっていた。

「!」

紫苑が息を吞むと同時に碧映が一足飛びに近寄り、老婦人の小さな身体を扶け起こす。ばさばさという鳥の羽ばたく音に目を向けると、少し離れた場所で東克が腕に乗せていた隼を空へと放っていた。黄金色の瞳がこちらを振り返る。

「里には知らせをやった。少しすれば助けが来るはずだ」

そう言って瞳を漆黒へと戻すと、踏みしめるように一歩一歩、近づいてくる。ふと足を止め、彼は碧映に抱えられて近くの岩に腰掛けた老婦人の顔に目を移す。血管が透けそうな程白い頬と色を失った唇に、それまで沈着冷静に見えた東克の表情に初めて慚愧の色が浮かんだ。

「長どのは大事ないのですか?」

紫苑は傍で介抱する碧映に問いかける。と同時に、彼女の頭の中に映像が飛び込んでくる。映っていたのは里の一室での様子。正座した老婦人の指が、何か葉っぱのようなものをつまんでいる。葉先からはゆらゆらと白い煙が立ち昇っている。彼女はその葉を小さな陶器の皿に入れると、懐から橙色の大ぶりな石飾りを取り出す。そしてそのいぶされた葉から立ち昇る煙にしばらくその石飾りをくぐらせ、再び懐にしまい込んだ――。

「どうかしたのか?」

固まった紫苑に、碧映が心配そうな顔を向けた。彼女の白い腕に抱えられ、老婦人はぐったりとしたまま岩に身体を預けている。今自分の中に浮かんだ映像が何を意味するのかは分からない。だが血色を喪った顔面を見て、一か八か試してみることに決めた。彼女は老婦人の懐に手を入れる。指に何か固いものが触れた。出してみると、それは脳裏の映像に出てきた通りの橙色の石飾りだった。どうすればいいのかはわからなかったが、恐らく先日の初老の元菓子職人に対して施していた治療と何かしら関連がある気がする。

 碧映が見守る中、紫苑は元菓子職人の治療で見たのと同じように、その石飾りを老婦人の両手にしっかりと握らせる。そして先ほど彼女が紫苑に対してしてくれたように、紫苑もまた自身の両手で老婦人の皺の刻まれた手を包む込むように握った。氷のようだった手に、次第に温もりが戻り始める。薄っすらと瞼が開き、固く閉ざされていた唇が動いた。

「――どうやら、深層透視はうまく行ったようねえ」

「長どの!」

紫苑と碧映が同時に声を上げる。緋色の目が碧映を、次いで紫苑を捉えた。

「大丈夫なのですか」

「ええ。紫苑、貴女の「力」のおかげで助かったわ」

「「力」など、私には――」

「たった今、使ってくれたじゃない」

老婦人は徐に握った手を開き、掌中の石飾りを見せる。

「紅玉髄、というの。こうなるであろうことは、貴女のお父様から伺っていたわ。だから、こうして事前に用意していたのよ」

垂れた目尻をつと細めて言うと、彼女は紫苑の手にそっと触れ、再び目を閉じた。紫苑は一瞬慌てたが、規則正しい息を確かめて胸を撫で下ろす。ふと肩に遠慮がちな感触を覚える。顔を上げると、東克がすまなそうな顔で見下ろしていた。紫苑は先程の老婦人の言葉について尋ねてみる。

「お父様は、こうなることを見越していらっしゃったのね」

「お前の「力」は強い。生まれてからこの方、体内にずっと閉じ込め続けてきたものを解き放つのだから、当然相当の負荷がかかる。だが、これは長どの以外にはなし得ぬことだった」

「なぜです」

「その腕輪を作ったのが、他ならぬ彼女だからだ」

紫苑は思わず膝下の老婦人と、次いで右手首に収まった腕輪を見比べる。以前碧映から聞いたところでは、腕輪を着けることで「力」を体内に押しとどめることができるという。つまり彼女は「力」を封じ込めようとする東克の意図に協力していたということになる。だとすればなぜ、彼女はそれとは逆に「力」の解放に力を貸したのか。紫苑の頭の中で次々と疑念が連鎖する。どうして、といつものように問いかけようとした時、肩に置かれた重みが増した。

「聞かなくても、今のお前なら分かるはずだ。お前はもう「力」を使えるようになったのだから」

東克はそう言うと、紫苑のなで肩をしっかと握る。少し痛く感じる程に圧がかかる。紫苑は怪訝な表情で東克を見る。感情の読めない漆黒の瞳。だが引き結ばれた薄い唇は微かに震えているようにも見受けられた。何かを必死でかみ殺しているかのような、そんな表情の父を見るのは初めてだった。なぜ、なぜ――疑問はとめどなく湧き出てくる。

 紫苑は手元に視線を落とした。右手首の常盤色が鮮やかに目に映る。「力」を使えるようになった、と父は言った。老婦人もそう言った。けれど、どう使えばいいのかなど、自分は知らない。先ほどの石飾りとて、無我夢中で問いかけていたら、勝手に映像が頭の中に流れ込んできただけだ。一体、どうせよと言うのか。

『先ほどの感覚を思い出してみなさい』

不意に凛とした声が頭の中に混じる。見ると、いつの間にか碧映の細い指が紫苑の手の甲に触れていた。「力」が覚醒したから思念を通じることができるようになったのかと紫苑が内心納得すると、その通り、と再び頭の中で声が鳴った。

『そなたなら出来るはずだ』

声に背中を押され、紫苑は一つ深呼吸をする。老婦人の胸が微かに上下しているのを確かめ、彼女は改めて老婦人の顔を凝視しょうとした。とその時、向こうの方から木の枝や茂みをかき分けるような音が耳に届き、気が逸れる。紫苑たち三人が揃って音の方を見やると、鳥の羽音に続いて、真っ白な髪と赤い目をした数人の里人が現れた。岩に腰かけたまま上体をぐったりと碧映に預けたままの老婦人を目にするなり、彼らは足元が泥まみれになるのも構わず我先に駆け寄ってきた。先頭に立っていたのは葵の母だった。娘と同じ真紅の目で老婦人の様子を一瞥すると、彼女は懐から大ぶりな水晶の石飾りを取り出し、幾本も皺の刻まれた額に押し当てた。元菓子職人だった初老の男を治療した時と同じ行為だった。しばし後、真っ青に近かった唇がほんのり色を取り戻す。里人たちも一様に安堵の表情を浮かべた。

「篠かい――大分、楽になったよ」

老婦人はゆっくりと薄目を開けると、篠、と呼ばれた葵の母に柔らかく微笑みかける。篠は心底ほっとしたように白い頬を綻ばせた。しばらくして老婦人の額から水晶を離すと、篠は紫苑たち三人に対し丁重に礼を取る。後ろで控えていた他の里人たちも続いて礼をする。そして老婦人をそっとだき抱えると、元来た道を戻って行った。

 周囲の木立からは再び人の気配が失せ、滝音がより滔々と響き渡る。いつの間にか日暮れを迎えようとしていたようで、辺りには茫洋と濃い灰色の霧が広がっている。

「さてと、此方たちも里に戻ろうかな」

空気の停滞を破るように、碧映は紫苑の手を掴んだまま勢いよく立ち上がる。碧映に連れられるままに場を去りかけた紫苑だったが、去り際に東克の寂しげな顔が目の端に見えた。

「宗主様、あの――」

紫苑は碧映の袖を引き、後方を振り返る。碧映も東克の方をちらりと見る。色白の端整な面差しに苦笑が浮かんだ。

「兄上も里に来るといい。長どのも元よりそのつもりだったようだしね」

そう言うと、碧映は構うことなく紫苑の手を引いて木立の間を縫って行った。

 東克はしばし立ち尽くし、大小の背が森の奥に消えるのを見送る。滝から上がるしぶきが黄昏に融ける。ひゅっと風を切る音がした。東克が音の方を見やると、灰色の霧の奥から黒装束の人影が現れる。

「来たのか」

東克の苦笑混じりの顔を見て、深貫は目を細めた。

「じき日が落ちます。旦那様も早く里へお行きになった方が宜しいかと」

腹心はそれ以上何も言わず、東克の傍に立った。東克の腕で大人しくしていたアオが、深貫の言葉を聞いて肩に移動し、同意するかのように頭を東克の頬に擦りつけた。東克は長い指でアオの艶やかな羽を撫でると、すっかり夕闇に包まれた滝を見据えた。

「――やはり、あの長どのには敵わぬな」

ぽつりと呟きを落とすと、彼はアオの頭をもう一度撫でる。そしてようやく里の方へと歩き出して行った。

 

 白家当主の館の一室で、老婦人は掛布を背当てにして座椅子に座っている。傍には変わらず篠が控え、煮出した煎じ薬を碗に注いでいる。肉桂のような香りも漂ってくる。見ると葵が杯を二つ盆に載せて運んできたところだった。彼女は碧映と紫苑の前にそれぞれ杯を置くと、透明な笑みを残して退室した。紫苑は湯気の立ち昇る杯を取り上げ、一口啜った。甘くとろみのある液体が、芯から身体をじんわり温める。

「少しは落ち着いたかしらね」

しばらくして、薬湯を飲み終えた老婦人が紫苑に向かって微笑みかける。頬にも唇にも血色が戻り、緋色の瞳も元の輝きを取り戻している。

「はい、ありがとうございます。その――先ほどは私の所為で、すみませんでした」

紫苑が謝ると、老婦人は慌てて手を振る。横から碧映も苦笑いしながら否定した。

「違う違う。全ては兄上の所為なのだから、気にしなくていい」

碧映の言葉に、老婦人は少し躊躇う様子を見せて、緋色の目を閉じる。すると程なく碧映が息を吞むのが分かった。何事かと紫苑が見ると、碧映は戸惑いにも似た、複雑な表情をしていた。訳を尋ねようとすると、またもや手に細い指が触れる。

『先ほどは中断してしまったが、今度こそやってご覧。泉のほとりでの感覚を思い出せばできるはずだよ』

低めの通る声が頭の中で響いた。老婦人に目を移すと、彼女はつと穏やかな笑みを浮かべ、承知したというようにゆっくりと瞳を閉じる。

『さあ』

なお躊躇っている紫苑に、碧映が思念で背中を押す。濃紫に変わった双眸に、ようやく決然とした光がともる。老婦人の身体の中央、丹田付近に意識を集めるようにして目を凝らす。ぼんやりと白光の円が見える。紫苑はその中に意識を滑り込ませる。

 眼前に広がる暁闇。辺りには激しい雨後の匂いが充満し、むせかえりそうな程だ。屋敷の庭と思しき一角に、紫苑は立っていた。池に架かる小さな橋。丁寧に剪定された植え込み。しばらく佇むと夜目が利き始め、ようやく周囲が見え始める。池、橋、向こうに見える回廊と、建屋の形状――それは紫苑が生まれ育った屋敷だった。母屋に近づいていくと、闇の中にぼんやりと人の姿があった。その男は回廊の柱に上背をもたせかけて座っていた。男の腕には何か白い塊が抱かれている。紫苑がより近寄ろうとした時、濃紺の空からばさばさと鳥の羽音が聞こえた。程なくして、頭巾を目深に下ろした何者かが背後からやってきた。足早に紫苑を抜き去ると、紫苑と同じくらいの背丈の小柄な人物は回廊の男のもとへと一直線に向かっていった。紫苑も急いでその後を追う。その人物は放心したように座り込む男の前に立ち、頭巾を押し上げた。横に並んで紫苑は顔を覗き込む。闇に浮き上がる真っ白な肌と、まるで篝火のようの燃え上がる瞳――それは昔年の老婦人だとすぐに分かった。

 彼女は男にまた一歩歩み寄ると、その腕に抱かれたほの白い塊をじっと見つめた。塊がもぞもぞと動き、あえかな声を上げる。紫苑は初めてそれが赤子だと分かった。二人とも反応しないのを見て、紫苑は回廊の男の横に腰を下ろす。痩せた横顔に白皙の端正な面差しは、まぎれもなく父・東克だった。記憶にある父より肩は一回りも小さく、頬骨が浮き出る程に憔悴した顔の中で、瞳だけがらんらんと見開かれたまま、焦点の定まらないままどこか空を眺めている。

 しばらくして、昔日の老婦人は赤子から視線を外し、静かな口調で男に伝えた。

「アオから聞いたわ。貴方の見立て通り、やはりこの子も同じ運命を辿ることになりそうね」

虚ろな表情をしていた男の眉が微かに動く。彼は鋭い目で赤子を、次いで老婦人を見据える。

「「力」を持っているのか」

「ええ。しかもただの「力」ではないわ」

「何だと」

「深層透視――聞き覚えがあるでしょう?貴方と同じく、鄭家の祖が有していた、伝説の「力」だわ」

老婦人の返答に東克は黙り込んで俯く。闇と同じく漆黒だったその瞳には、時折黄金色の強い光が見え隠れする。身体の内から途端に爆発しそうな何かをこらえるように、真一文字に引き結ばれた唇はわなわなと震えている。老婦人は様子を見守っていたが、しばらくして東克の肩に自身の白い手を載せ、あやすように撫で始める。東克の肩が一瞬びくんと跳ねたが、されるがままにしていた。

「――こんなことなら、子供を助けるべきではなかった」

東克が不意に苦々しげに、吐き捨てるように呟いた。老婦人は一瞬手を止めたが、またさすり続ける。

「最愛の人との子供が可愛くないの?」

「――俺は本当は、芳媛を助けようとした。医者にもそのように言っていた。なのに、気付いた時には俺の腕の中で芳媛は息絶え、傍で子供が泣いていたんだ。深貫から聞いたよ、周りが止めるのも聞かず、俺は産室に踏み込んでいったのだと。その時の俺の目は黄金色だったのだと」

吐露する東克の傍らで、紫苑はいたたまれない気持ちになった。彼の言う子供、つまり腕に抱かれた赤子とは自分のことだ。つまり父は本当は母を助けたかったのであって、自分を助けたいとは思っていなかったということになる。しかし他方で、自分の存在が母の死を招いたことに変わりはないわけで、そのことに対する罪悪感も湧いてくる。

「仮に子供が幸せに暮らせると言うのなら、良かったと思えたかもしれない。だが蓋を開けてみたら、「力」を目覚めさせてあの家に行く未来が見えたんだ――生まれて良かったなどと言えるわけがないじゃないか」

意識体とは言えまさか成長した我が子が聞いているとは思わず、東克は本心を吐露し続ける。紫苑は内心複雑だった。今しがたの言葉を聞けば、東克が紫苑の「力」を封じ込めようとしたか、理由は分かる。詳しいことは知らないにせよ、彼が鄭家宗主として茨の道を歩んできたことは確かであり、娘のためを思って同じ轍を踏ませたくはないと考えたのだろう。だがそれは彼に言わせればあくまで副次的なものでしかなかった。そもそも母が亡くなることが無ければこれほどに彼が苦しむことも、そして「力」を封じるためにあれこれ試みることもなかったわけだ。そう思うと、彼女はますます居たたまれない気持ちになった。

 感情の嵐を押し殺すように、東克は唇を噛む。父のそんな様子を見ていられず、紫苑は目を逸らし顔を上げた。ふと、老婦人と目が合った。彼女から姿が見えているはずはないと分かってはいるが、その瞳はまるで紫苑の心中を慮っているかのように穏やかで慈愛に満ちたものだった。傷心の東克(と紫苑)に向かって、彼女は静かに告げた。

「これは、天命。天が定めた運命なのですよ。貴方もこの子も、勿論私や碧映も――皆抗うことのできない天の摂理に従って生きているのです。陽が西方に沈むように、全ては自然の流れなのよ」

老婦人の言葉に、東克の顔がきっと上がる。血走った黄金の瞳をかっと見開き、彼は臓腑を絞り出すような苦しげな声で叫んだ。

「――そんな運命など、俺は信じない。人間を不幸にするような天など、くそくらえだっ」

父は矢庭に立ち上がる。回廊に立つと赤子を抱いた腕を高く掲げる。視線の先には庭先の敷石がある。それを睨みつけたまま、彼は更に上腕を上げた。老婦人は微動だにせず、父の所業を見つめている。ふと、どこかで鳥の羽音が聞こえた。羽音が近づいてくる。暁闇の中で、青い目が二粒の宝石のように煌めく。音が間近に迫る。闇から抜け出てきた鳥は、高々と掲げられた東克の腕に着地した。

「アオ、お前――」

東克の夜叉のような形相が緩む。黄金の瞳が元の漆黒に戻った。掲げた腕をゆっくりと下ろすと、彼はその場にへたりこんだ。アオは彼の膝へと位置を変え、腕の中で微かな寝息を立てる赤子の額に自分の額をちょん、とつけた。

「やっぱり、貴方は昔から変わらないわね」

黙って成り行きを見守っていた老婦人が、垂れた目尻を緩め微笑んで言った。

「透碧だった昔も、伝説の「力」を目覚めさせ鄭家宗主を務めた透刻も、変わらず情に篤いままなのね」

東克は赤子を膝かかえにすると、膝頭で大人しく留まったままのアオに手を伸ばした。

「――我が子を落として亡き者にしようとした人畜に、何を言うんだ」

「それも情愛の深さ故、でしょう?生まれつき繊細で、人の何倍も気を受けやすい子だった。ともすればすぐに溢れ出そうになる感情を、お父様の期待に応えるために何とか抑え込んできた。そのせいで純粋に「力」の行使に力量を割けなくなってしまっていた。だからお父様に見捨てられ、洪水のような情念に飲み込まれそうになった時、その一部を分離させることで自分自身を守ったのだものね」

老婦人が悟りきったように穏やかな声音で淡々と語る。

「鄭家の「力」は情念の為せるもの。祖たる二人が白の里から出て家を興したのも、無垢な慈愛の心しか持たぬ白家の仲間を護りたいと思ったからでしょう?それは代々変わらなかったわ」

アオの頭を撫でながら黙って聞いていた東克は、老婦人に凪のような目を向けると、口元につと自嘲を刻んだ。

「――白家の能力を利用しているだけかもしれないがね」

「庇護を提供してもらうのだから、石の加工や治療、「姿見」を引き受けるのは当然だわ。私たち一族は無垢ゆえ、市井の穢れの中に身を置くことはできない。鄭家が市井で代わりにその穢れを受けてくれるから、私たちは安穏と暮らしてゆけるのです」

「買いかぶりすぎだ。いつか、裏切られるかもしれないぞ」

東克はわざとらしく鼻で嗤ってみせたが、老婦人の慈愛に満ちた表情は少しも揺らがない。それどころか、彼女はむしろ悠然と笑みを一層濃くした。

「鄭一族は皆、本質は優しくて情に篤いと知っているわ。そうでなければ人心透視などできるはずもない。自分の心の一部を相手の気脈に同調させるのだから。割いてもなお自らを保っていられるだけの器の大きさがなければ不可能なことだもの。だから表面ではどんなに強がったり、氷の仮面で冷淡な人物を装ったとしても、それは自分の繊細で豊かな心を護るためなのだと、祖を一にする私たちは皆分かっているわ」

闇夜を照らす篝火のように燦然と輝く緋色の瞳。東克はふいっと視線を外すと、気恥ずかしさを誤魔化すようにアオの羽をくしゃくしゃと撫でる。アオは心地よさそうに、つぶらな目を瞑る。

 気づけば東の空が白み始めている。東克はふと顔を上げると、遠くに連なる山々の稜線を見つめた。そして何かを思い出したように、突如老婦人の方に向き直る。

「そうだ、あの石だ。翡翠を使えば、この子の「力」を封じることもできるんじゃないのか」

翡翠、という単語に、老婦人の瞳が揺れる。

「皇帝に献上している翡翠には、我々の透視を阻む力がある。だったらそれをこの子にも着けさせるようにするんだ。そうすれば、この子の体内から「力」が外に出ないようにもできるんじゃないか?」

「――原理的には可能かもしれない。けれどね、貴方が思っているよりも、あの石の作用はずっと強力なの。皇帝とはいってもあくまで「力」を持たない人間だから、身に着けたところで何も影響がないだけだという可能性もあるわ。現に里でも、適性のあるごく限られた者しか、石には触れさせていない。これは先代から聞いた話だけれど、昔子供が誤って研磨途中の石で長時間遊んでしまってね。その子は石の作用に耐えられなくて、結局気が触れてしまったそうよ」

老婦人は不安そうに瞳を曇らせたまま言う。

「確かに鄭家の血筋なら、里の者よりも耐性があるでしょう。この子は力量自体も強いから、尚更そうだろうとは思うわ。でも長期間となると、どうなるか分からない」

彼女の言葉を受け、東克はしばし逡巡し、そして閃いたように声を上げた。

「鉱脈のある土地で採れる数少ない茶葉があったはずだ。先々代が偶然見つけて、奇病に効くといって持ちかえっていたものだが――あれを飲ませれば良いのでは?毒を以って毒を制す、というからな」

「その話は聞いたことがあるわ。万病治しの薬草も、その土地で採れるものだから。でも、茶にして常飲するには量が足りなさすぎると思うわよ」

「なら増産すればいいだけの話だ。どうせ翡翠掘りは当面しないんだ。夏良起に採掘用の人員を密かに回させて、付近の土地で茶葉を計画的に栽培させるとしよう」

そう言って、東克は口元に不敵な笑みを浮かべる。紫苑はそれを見ながら例の茉莉花茶についての阿僑の言葉を思い出した。僅少しか採れない貴重な茶葉を使い、かつ茉莉花の香りをしみこませることで効能を最大限に引き出した特注品。今しがたの東克の言から考えれば、彼は紫苑が生まれた時から茶葉生産を計画していたことになる。紫苑が実際に飲み始めたのは確か十歳になる前辺りだった。鉱脈近辺の土地では石が発する気によって作物が育ちにくい、というのは常識である。東克がさらりと口にした茶葉栽培がどれだけ難しいことかは容易に察せられる。それでも来たる日を見据えて、彼は十年間近くも粘り強く周到に計画を実行していたのだから、並々ならぬ執念と言えよう。紫苑はある種敬服の顔で東克を見る。

 老婦人は黙って東克の様子を眺めている。やがてその白い顔に諦めにも似た微笑みを浮かべると、彼女は静かに尋ねた。

「碧映には黙ってやるつもりなの?」

「あれは今、新帝即位に伴う朝廷のごたごたに巻き込まれないよう舵取りをするので精一杯のはずだ。こちらにかまける暇はないだろうよ。――で、翡翠の件は協力してくれるね?」

先程までの動揺や迷いといった感情の揺れ動きは綺麗に消え去り、東克の表情は平静を取り戻している。涼しい顔で問うた東克に対し、老婦人は返答に詰まる。それでも緋色の目をしばし泳がせた後、彼女は一つため息をつくと、小さくこくりと頷いた。

「酷い兄君だこと」

「――双子の兄妹だからね。何だかんだでいつかは分かってくれるだろう」

東克が最後にぽつりとそう呟くと、老婦人はくすりと含み笑いを漏らした。


 燭台の明かりが揺れる。目の前にいるのは、今しがた見ていたより一回り小さくなったように見える老婦人の姿だった。老婦人がゆっくりと瞬く。歳月を経ても、その緋色の輝きには昔と変わらず強さがあった。老婦人の手が紫苑に伸ばされる。小さな手がそっと、紫苑の右手首にはまった腕輪に触れる。指先が表面に刻まれた唐草模様をなぞる。

「この文様の意味は、多分碧映から聞いているのでしょうね」

「蔓を伸ばして絡み合ってゆく蔦のように、ということで、繁栄や長寿の意味が込められた文様だそうですね」

「ええ。これを加工していた問、私は一彫り一彫り願った。貴女がどうか石の力に吞まれることなく、いつかその「力」を目覚めさせ、強く生きていってくれることを」


「元々、鄭家の祖二人は、元々ここの里人だった。石を用いて奇病を治すという我らの能力が悪用されることがないよう、我々を護るために、彼らは家を興したの。確かに、先代宗主たる貴女のお父様や碧映のように、「力」故に翻弄され辛酸をなめた人も多いと思う。でもだからと言って、自分の「力」が人を不幸にするものだとは思わないでほしいのよ。綺麗事だ、と貴女のお父様は言うかもしれない。でも天与の「力」を否定することは、即ち自分自身をも否定することだわ――そんな哀しいことはしないで欲しい、と私は思うの」

緋色の光が揺れる。氷雨を融かし慈雨へと変えるような、温もりに満ちた瞳に見つめられて、紫苑は胸の中で絡み合う感情が徐々に解れていくように感じた。屋敷という箱庭の世界で自分の全てだった父。彼は紫苑が外に飛び立ちたいと思っていると知りながらも「力」という彼女の翼を封じ、小さな世界に閉じ込め縛りつけようと周到に計画していたのだと知って、確かに一度は彼を恨んだ。碧映の屋敷に行って、秋絢や藍照から意地の悪い仕打ちを受けたことでその思いは少しく強まった。だが一方で、彼が自分の人生を縛り続けてきた「力」を忌み、自分と同じ苦労をさせないよう、娘に善かれと「力」を封じようとしたのも事実である。紫苑の存在によって父の最愛の女性は難産となってしまったことも、そしてそのことが父の「力」を暴走させ、それによって父が更なる苦しみを味わうことになったということも。

 老婦人の指が腕輪から離れる。彼女は腕を紫苑の肩に回すと、そのまま抱き寄せる。肩にほんのり温もりが伝わってきて、紫苑は無性に懐かしい安心感を覚えた。温かいものが頬を伝い、襟元を濡らす。温かい手のひらで優しく背中をさすられ、胸につかえていた情念の塊がようやくほどけた。栓がなくなったことで、奥にずっと押し込めていたものが溢れ出す。紫苑の口から嗚咽が漏れた。

 どのくらいそうしていただろうか。紫苑は不意に息苦しさを覚え喉元を抑える。込み上げてくる吐き気に、彼女は咄嗟に傍にあった碗を掴み、口元にあてがった。

「どうした!?」

碧映が声を上げ、紫苑の背に手を当てる。碧色の双眸がはっと見開かれる。次の瞬間、空の碗がからん、と固い音を立てた。ぜえぜえと息を整えながら紫苑は口元から碗を外す。恐る恐る中を覗き込むと、小ぶりな黒っぽい塊が入っていた。

「何、これ」

思わぬ出来事に紫苑が半ば放心状態で呟く。老婦人の手が碗の縁にかかる。彼女は紫苑の体内から吐き出されたばかりのそれを慎重につまみ上げると、自身の手のひらに載せた。緋色の瞳が矯めつ眇めつそれを眺める。

「長どの、これはもしや――」

上下する紫苑の背に手を当てたまま、碧映が息をのんで呟いた。老婦人がゆっくりと顔を上げ、紫苑を見つめる。感動と興奮とが混じった、燃えるような目。

「これは、この石は」

老婦人が口を開いたその時、がらりと入口の襖が開く。三人が揃って薄闇に佇む黄金色の瞳を見上げた。

「血石。翡翠を核とし、文字通り人間の血肉が混じって出来上がると言われる、伝説の石だ。伝奇書の記述を目にしたことはあったが――まさか本当にお目にかかれる日が来るとはね」

肩にアオを乗せて静かに入ってきた東克はそう言うと、碧映と老婦人の間に腰を下ろした。


「兄上ならば、血石が生まれることも分かっていたのではないか」

「翡翠の腕輪に阻まれていたのに、どうして分かると言うんだか。まあ、その腕輪を与えたのが他ならぬ俺だったというのはある意味皮肉だがな。――お前こそ、紫苑の服やら別の装飾品やらから透視できても良さそうなものだが?」

「そうだな、誰かさんが部下を丸め込んで、皇家への献上用の超極上翡翠を横取りしたりしなければ、此方が直々に再採掘を監督する必要もなく、こんなにも忙しくはならなかっただろうね。そしてその誰かさんがこんなことをしなければ、紫苑の「力」はもっと早くに目覚め、此方ももっと楽が出来たかもしれないわけだ」

「そこについては俺にも非はあるわけだが――その前にお前の命を守ったのは俺だということを忘れたわけではないだろう?この里に避難させたから、お前は先帝即位直後のごたごたで命を狙われずに済んだわけだからな」

「はいはい、兄妹喧嘩は帰ってからやって頂戴ね」

碧映と東克の掛け合いを見て、老婦人が微笑みながら言う。紫苑は黙ってそのやり取りを見守っている。挑発的な漆黒の目を睨む碧色の双眸。双方とも口では悪態をついているものの、本気で相手を憎む時のどろどろとした気配はない。

「そう言えば――」

紫苑は碧映に問いかける。むくれ顔だった碧映は一つ咳払いをすると、すぐさま平静な表情に戻る。東克と合わせ鏡のような端整な容貌は、中性的な清麗さを放っている。

「双子だったのですね、お父様と」

紫苑の言葉に彼女の目がつと細められる。澄んだ碧色の瞳が東克の方をちらりと見やると、東克は無言で揃った睫毛を伏せた。

「元々はね。だが、父上が双子は獣腹だからと嫌ってな、年子の妹ということにされたのだよ」

「そんなことが」

「父上は昔気質な人で、伝統や風習にはかなりうるさかったんだ。だから隠していたわけだが、幸か不幸か、此方の「力」の方が父上よりも強かったからね。自ずから知ることとなった」

碧色の双眸はどこか遠くを見つめている。複雑な内心を表すように、虹彩に湛えられた光が小刻みに揺れる。

「長どのの「姿見」が外れることはない。鄭家伝説の「予見」を持つと言われたことで、父上は生まれてすぐの兄上を後継に定めた。だが長ずるにつれ、強力な「力」を秘めているとされた兄上の透視能力は弱まっていった。逆に、たった数分後に生まれたにも関わらず忌まれて妹とされた私の能力は増していった。父上の力量を凌いだことで、期待外れの兄上に代わって私を後継にするという話も現実味を帯びるようになっていった。父上は私を厚遇し、兄上を冷遇するようになった。――屋敷の離れの書斎は、元々兄上の幽閉場所だったのだよ」

幽閉、と聞いて、紫苑は思わず東克の顔を見た。目を伏せ黙したままの、その表情は分からない。だがその周囲にはどこか人との接近を阻むような、灰色の障壁があるようにも思えた。

「あの時実質傍にいたのは深貫だけだったな。此方もちょくちょく遊びに行ったりしてはいたけれど、それは兄上を心配してというより、一種の優越感だったな。「力」が覚醒しきっていない兄上には、此方が双子の妹だと知ろうはずもない。加えて兄上を廃嫡して此方を次期宗主に据えようとする父上の気持ちや周囲の期待感が高まっていることも、此方には分かっていた。――一番は、自分の方が出来が良いのに父上がなぜ兄上を次期宗主の座から降ろそうとしないのか、そのことに対する不満が根底にあったんだろうな。白家当主の「姿見」と男性優位思想の顕著な父上に対する当てつけで、何も知らぬ兄上の様子を見に行っていた――あの時の此方は本当に傲慢で、性根が腐っていたと思うよ」

碧映は目線を下げ、ふっと自嘲気味に嗤う。紫苑は彼女に意識を向けてみる。忸怩たる想いと哀愁の念とが胸の奥から湧きだしているのが感じ取れた。先程の老婦人同様しっかりと一点に集中して視れば彼女の記憶を遡ることもできるだろう。けれどその必要はないように思った。濃紫の目が漆黒に戻る。気付かぬ間に密かにその様子を窺っていた黄金の瞳がふっと和む。そしてこちらもまた元の漆黒へと戻った。つと、碧映の目が老婦人の方を向いた。

「そんなこともあって、当時は長どののことも恨んでいたよ。貴女が「姿見」であんなことを言わなければ、父上が兄上の次期宗主の座に拘泥することもなかっただろうから、とね」

碧映の言葉を受け、東克もつと苦笑混じりの視線を老婦人に向ける。

「これについては俺も同感だった。長どのの思考が父上の思考を縛って、俺は否応なしに宗主を継がされることになり、碧映も巻き込まれたわけだからね。まあただ、偽りを言うこともできないというのも承知してはいるが」

鄭家の先代、当代宗主の双方から迫られる形となり、流石の老婦人も返答に詰まった。紫苑は傍で黙って聞いていた。だが鄭家の宗主二人の主張に違和感を感じ、彼女は徐に口を開く。

「それはむしろ、先々代宗主様ご自身の問題だったのではないでしょうか」

紫苑が呟くと、三人の視線が一斉に彼女に注がれる。紫苑はこくりと唾を飲み込むと、続けた。

「長どのの「姿見」が鄭家にとって大きな意味を持つことは分かります。でも結果がどうであれ、最終的に選ぶのは鄭家宗主自身な訳ですから――長どのばかり言われるのはやや筋違いな気もするのです」

膝がしらの握り拳が熱い。緊張しつつもきっぱりと言い切ると、三者三様の双眸が虚を突かれたように紫苑を見た。横からからからと朗らかな笑声が上がる。次の瞬間、碧映が紫苑を肩ごと抱き寄せる。

「全く、そなたは本当に大したものだ――なあ、兄上。この子は一体誰に似たんだろうな」

破顔して紫苑の背を何度も撫でると、碧映は東克の方を見た。されるがまま、紫苑も父の顔に目を移す。頭上で息をのむ音がする。背をさする手の動きを止め、碧映は驚いたように呟いた。

「兄上――泣いておられるのか」

温厚で、怜悧で、時には冷淡に思える程冷静な、まるで全てを見透かしているような深遠な瞳。そこから確かに二筋の涙が流れ落ちている。紫苑の記憶にある限り、父の涙を見たのは初めてのことだった。声も立てず、表情も変えず、ただ透明な涙を流す父。その姿はこれまで目にしたどの姿よりも、何故だがずっと父自身らしく思えた。


 碧映と紫苑が各々の逗留する館に戻った後、残された東克と老婦人は改めて向かい合って座り直す。どこからか入ってきた隙間風が燭台の炎を揺らす。

「二度目ね。貴方の涙を目にしたのは」

ぱちぱち、と蝋燭の芯が爆ぜるのを横目に見ながら、ふと老婦人が口にする。東克は一瞬固まったが、すぐに何事もなかったかのような顔になる。

「――初めて、の間違いでは?」

「いいえ、二度目よ。「予見」が覚醒したとお父上から知らせを受けて屋敷に伺った時のことよ。幽閉を解かれ、豪奢な部屋の上座に、貴方は座っていた。覚醒後間もなくで不安定だった貴方は、感情の抜け落ちた顔をしていた。そんな貴方の代わりに、あの時は隣でアオが泣いてくれていたわね。――でも良かった。やっと、自分で泣けるようになったのね」

老婦人がつとアオを見ると、アオは、分かっているよ、とでも言うように東克に頬ずりをする。

「人心を透視できるわけではないはずなのに、どうしてこうも見抜かれるんだか」

東克は苦笑いを浮かべて言うと、つとアオの嘴から指を離し、どこか遠い目をして長い睫毛を伏せる。

「芳媛が逝った時も、俺は泣けなかった。宗主の座を放り出して三年余り、鄭一族としての自分とはとっくに縁を切ったつもりでいた。だがそうはいかず、結果的に芳媛を死なせ、紫苑にも悪いことをしてしまった。だから泣く資格などないと思ったんだ」

橙の炎が風に吹かれ、影が揺らめく。東克は小さくため息を落とす。穏やかな顔で静かに見守っていた老婦人は、つと彼の傍に寄る。腕をぽんぽんと撫でられた東克は、気恥ずかしそうに目を泳がせた。しばし沈黙を空けてのち、彼女は緋色の目を和ませて東克の横顔に語り掛けた。

「貴方が一族の長として、混乱の時代で生き残るため時に無慈悲な真似を強いられたであろうことは十分分かるわ。こうして山間に住んではいるけれど、下の様子はちょくちょく耳にしてはいたから。本来の貴方は生来の深すぎる情で苦しむ、繊細な人間。でも弱い姿を見せるわけにはいかない。だから、心の奥深くに幾重にも蓋をして隠してきたのね」

東克は視線を合わせるのを避けるようにそっぽを向いている。だが膝上で緩く組まれた手は居心地悪そうにもぞもぞと動いている。その様子に、老婦人はくすりと含み笑いをした。

「――本当に、長どのには敵わないな。鄭一族の中でも十分やっていけそうなくらいだ」

降参したように吐息を漏らして東克が言う。老婦人は上品な笑声で応じる。

「貴方のお父上、そしてそのまたお父上の代から白家の長をやっているのよ、伊達に長生きはしていないというだけのことよ。――それに何となくだけれど、こうやって色々な石に触れ使っていると、色々と感じることもあるわ。私たちにとって石はある種生き物でね。彼らは人間などよりずっと長く生きていて、それ自体に色々な情念が籠もっている。人を治療する時は尚更ね。石を伝って、彼らの情念の塊に触れることになるのだから」

老婦人は言葉を切ると、傍の空碗を、そして手の中で黒光りする血石をじっと見つめた。

「そう言えば、あの子――紫苑は大事ないかしら。随分と薄着で雨後の森を歩きまわった訳だから、風邪でもひかなければいいけれど」

東克は黄金色の目を中空に泳がせた。その様子に、老婦人はふふっと微笑んだ。

「気になるなら、生姜湯でも持って行ってみたら?」

「――こんな目に遭わせておいて、どの面下げて行けというんだ」

喧嘩で強がったものの仲直りの口実を探す子供のような表情をした東克に、老婦人は軽く吹き出した。彼女は入口の襖に向かって、ぱんぱん、と手を打つ。襖が開き、真っ白な髪を尼削ぎにした童女が辞儀をする。

「生姜湯を二つと、あとお盆も一つ持ってきて頂戴。熱めで頼むわね」

童女はちょこんと礼をして襖を閉じる。しばらくすると、襖が叩かれる音がする。老婦人が応じると、先ほどとは別の少女が盆を手に立っていた。立ち昇る湯気からは生姜と、微かに柚子が香る。

「温まりますから、柚子も加えてみました」

「流石は葵、気が利くわね。じゃあ、三の館までこの方を案内してくれるかしら」

「三の――紫苑の所ですね。喜んで!」

薄明りでも分かるほどに、葵はぱっと顔を綻ばせた。東克の黄金の瞳が輝く真紅の双眸を見やる。程なくして虹彩を元の漆黒に戻すと、彼は満足気に口の端を上げて老婦人を見た。

「どうやら、紫苑にも生涯の友ができたようだ」

「それは何よりね」

老婦人はにっこりと笑みを見せる。立ち上がりかけた東克に、右の袖口から布を出して差し出す。

「形代は返すわね。あの方もきっと安心されたはずよ」

東克は渡された薄桃色の手巾をじっと見つめる。そして丁寧に折り畳んで懐にしまうと、静かに老婦人の居所を後にした。


 燭台の明かりが煌々と照らす中、紫苑はじっと居所の一角に備えつけられた鏡台に向かっている。鏡の中の顔は、疲労でやややつれて見える以外は今朝までと何ら変わりないように見える。黒目がちな切れ長の瞳。だが鏡像に意識を集中させた状態で光の当たり方を変えてみると、そこにはこれまでになかった紫の色味が備わっているのが分かる。碧映にも藍照にも秋絢にも、そして東克にもある、異色の瞳。これが「力」の覚醒の証ということなのだろうか。鄭家に関する話を見聞きする度、欲しいと願った「力」。けれどいざ手に入れてしまうと、予期していた充足感や満足感はさほどでもなく、むしろ哀しみすら覚えるのはなぜだろう。

 紫苑が物思いに耽っていると、背後で館の扉が開く音がする。彼女は急いで自身の鏡像から顔を離す。廊下の床板が鳴る。程なく襖が開き、盆を手にした葵が立っていた。その華奢で小さな影の後ろに佇む長身に、紫苑は目を瞠る。

「お父様――」

「風邪でもひいていないかと心配でね。少しいいかい?」

「ええ」

葵が部屋の中央の円卓に湯気を立てた碗を並べる中、東克は気まずそうな顔で待っていた。ごゆっくり、と葵が無垢な笑みを一つ残して部屋を後にしても、しばらくは生姜湯の碗を手にしたまま逡巡していた。紫苑は紫苑で、老婦人を通して視た記憶のこともあって何も切り出せないでいた。父が自分を恨んではいないと分かってはいても、母の件でやはり何らしかのわだかまりは残っているだろうと思ったからだ。そして恐らく父は父で、あの記憶のことで自分に対して悪いと思っているから何も言い出せずにいるのだろう。紫苑は碗を傾け生姜湯を口に含む。ぴりりとした軽い刺激のあとに、ほのかに柚子が香った。じわりと胃の中から温もりが広がる。

 ふと顔を上げると、図らずも父と目が合った。彼はようやく心を決めたように、碗を卓に置くと、紫苑の顔を正面から見る。

「お前には随分と酷いことをしてしまった。お前は何も悪くないのに、芳媛を亡くしたことで八つ当たりをし、お前の意志を確かめもせず「力」を封じようとした。――お前に善かれと思ってやったことではあったが、結局は苦しめることになってしまった。本当に済まないことをした」

東克はそう言って俯いた。その様は今までに見たどの父の姿よりも、自信なさげで弱弱しいものだった。一瞬、紫苑の脳裏をある声がかすめる。滝のそばで、「力」を使って透視するよう促した、他ならぬ父自身の声。恐らく瞳が黄金色でないときは、「力」を使わぬ生身の状態なのだろう。ならば今紫苑が透視すれば、父の心の奥に隠したものまで全て見通せるかもしれない。紫苑がこれまでに知りえなかったこと、その全てが分かるのかもしれない。けれど――。

 紫苑は一度は集中しかけた意識をふっと解いた。その気配に、東克がはっと顔を上げ、狼狽の色を浮かべた。

「――なぜ、やらない?私は今「力」を使っていない。お前なら、私の過去も含め、その一切を透視できるはずだ」

父の言を受けても、紫苑の心は変わらなかった。決意、信念にも似た心情がどこから来るのかは分からない。「力」を得て悟った、というわけでもないように思う。ただなぜか、今自分が抱いている気持ちは間違っていない、という確信があった。紫苑は改めて、真っすぐに父の目を見て口を開いた。

「私、お父様の心を透視するつもりはありません」

「どうして?私はお前に酷いことをした人間だ。隠してきたこともたくさんある。知りたいとは思わないのか」

「お父様を信じているからです。確かに最初は腹が立ちましたし、恨みの気持ちが全くないとは言えません。でも、お父様なりに、私のことをお考えになってああなさったということは分かるのです。それに――」

紫苑は一呼吸置くと、どこか祈りを込めるような気持ちでつづけた。

「互いに慈しみ、信じ、支え合うのが家族というものだ、と書で読みました。それに元々、鄭家の祖は白家を護るために家を興したそうですが、だとすれば私たちの「力」は家族を護るために使われていたということになります。でも、今ここで透視をしてしまったら、それは身内の腹の探り合いにほかなりません。家族ではなくなってしまうような気がしたのです。それは――やはり寂しいと思うのです」

沈黙が落ちる。向き合う二対の漆黒の双眸。睫毛の落ちる音さえ聞こえそうな静寂の中、ふっと微かに笑みを刷く息が聞こえた。音の主は東克だった。彼は娘に返す言葉を探している様子だった。口を開きかけては閉じ、言いかけてはやめ、を何度か繰り返す。

「ありがとう」

長い逡巡の末、彼が選んだのはその一言だった。父の言葉に、紫苑は心の底から微笑みを返した。短くありふれた、でも万感の思いが入った言葉が聞けた。それで十分だった。






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