誰も気づかない

 涼しげな笑顔も、清潔感のある格好も。ぶよぶよとした紫色の肉に覆われて見る影もない。

 大嶽という男の中に潜む淀みが、つまりはこういった姿なのだろう。豚とも猪ともつかない頭部は元々の悪食がそういった姿を取っていたからに過ぎないのだが、どう好意的に表現しようにも醜い以外の表現が出てこない。


「それにしても、随分とぶよついているな」

『表面は消化出来ていない業だ。太っているように見えるが、実体はほぼない』


 悪食使いが悪食を全身に覆わせる技術を『纏鎧てんがい』と呼ぶ。悪食との同調率の高さや主導権によって形を変えるという。人が主導権を持っていれば全身にボディアーマーのように展開されるし、逆であれば目の前の大嶽のように生物的な姿となる。

 それにしても大嶽の姿だ。悪食で覆っているだけにしては、あまりに生々しい。まるで悪食そのものになってしまっているような。


『灯耶。早めに済ませろよ。イチフジだけじゃ心配だ』

「分かってる」


 悪食は、人の存在を食らう。食らうのは肉、骨、血といった物質的なものだけではない。その人間に関する記録、記憶、そして業。それ以外のものはどこかへと消え去っていくが、食らった人間の業だけは悪食の内部に蓄積される。

 悪食の燃料とは人間の業だ。貯め込んだ業を少しずつ消化することで悪食は生きている。宿主がいる場合は、普段は宿主の体にある業を食う。宿主が社会から忘れられやすくなる理由がこれだ。

 悪食は宿主さえいれば、厳密には人食いを必要としない。だからだろうか、宿主が悪食を使うたび、宿主自身にも業が貯まるのだという。人はただ生きている間にも知らず業を貯め込むものだが、臭いも色もないそれを人が知覚することはない。

 自分自身のために悪食を使うほどに、業は深く、分厚く淀む。

 纏鎧の法は、悪食と悪食使いが天敵を打倒するために生み出された法理だという。悪食が体内に貯め込んだ業や悪食使いの身に宿る業を燃料として消費することで、常ならぬ力を発揮出来る。

 灯耶自身が身に宿す業の総量は決して多くない。毎日のように悪食を使っているわけではないからだ。纏鎧の法を使わないのも、それが大きな理由だ。


「業の総量と筋量はあちらさんの方が圧倒的だな。代わりにこちらは制御と同調率、知識で優っている、と」

『まあ、負ける要素はないな』

「あちらさんもそう思っているわけだけどな」


 先程の突進で大嶽の力はおおむね把握した。灯耶は黒陽を右腕に纏わせると、まるで獣の爪のような形になる。

 大嶽もまた、自分で言っていたように灯耶に勝てるとは思っていないのがよく分かる。時間稼ぎに徹するつもりのようで、攻撃自体も雑なもので牽制以上の意図はなさそうだ。むしろ時間制限があるのは灯耶の方だ。弌藤がしっかり香澄を護ることができるのか、不安でならない。

 一方で灯耶も黒陽も、黒陽の中にある『狗藤朱莉の業』だけは消費したくないと思っている。短時間で、この姿のまま大嶽を葬り去る。それが最優先だ。


「じゃ、行くぞ」


 不思議な金属音を立てて、爪が伸びた。無造作に打ち込まれた右の拳をなぞるように、四本の爪を大嶽の腕に這わす、交錯。

 双方の腕が伸びきって、数瞬。


「いぎゃあああああああああああッ⁉」


 悲鳴を上げたのは大嶽だった。

 ざっくりと斬り裂かれた腕の傷から、紫色の体液がぼたぼたと。外のビルから射してくる光が、その体液が人の血液とは違う色であることをあからさまに示していた。

 と、黒陽が体液の色に反応する。


『あ、まずいな』

「黒陽?」

『急げ、灯耶。面倒になるぞ』


 説明はないが、その言葉を疑う理由もない。斬られた右腕を庇う大嶽の首を刎ねるべく、爪を横薙ぎに払う。


「ああっ!」


 だが、大嶽もその動きに反応した。体をのけ反らせて避けつつ、爪から顔を庇うように傷ついた右腕を前に突き出す。

 どちらも反射的な動きだったのだろう。結果として、右腕の半ばから先が爪によって断ち斬られた。地面に落下した右腕が、ぐずぐずと紫色の液体に変わる。


「痛ぇ! 痛いいっ!」


 悲鳴を上げながら後ずさる大嶽。切り離された腕が溶けたことにも気づいた様子はない。

 と、傷口から今度は粘性の高い体液が漏れ出し、そのまま腕の形に固定される。黒陽が急げというわけだ。明らかに人間の形から逸脱しつつある。


「あれは悪食になっているのか?」

『ああ。業を餌に悪食が宿主を取り込もうとしている。!』

「痛い、痛い! 何でだ、何で痛みが消えないぃぃ!」


 痛い痛いと叫ぶ大嶽の全身が、不自然に蠢く。何かを締め付けるような、中にいるものを引きちぎろうとしているような、そんな動き。

 奇妙な動きが起こるたび、大嶽が悲鳴を上げる。まるで全身を使って、覆っている人間を咀嚼しているような。


「あっ、ぎ、がががががが」


 みしり、と。大嶽の頭部が軋む音を立てた。頭部がひとりでに捻じれるような動きをはじめ、破滅の瞬間に向かって絞り上げていく。

 すでに首から下は動かないのだろう。その状態でなお生きているその現実が何よりおぞましい。

 灯耶が再び大嶽の首を刎ねようと駆け出した瞬間、乾いた音が聞こえた。


「あ」


 声は限界まで絞り上げられる動きの中に消えていく。ずるん、と体内に引っ込んだ頭部が、ぷるんと震えながら元の位置に戻った。まるで骨の類が元から存在しないかのような動きが、中にいる大嶽の完全な死を否応なしに理解させる。

 ぶうん、と紫色の肌が震える。よく知る気配だ。恐怖や歓喜ではない。大嶽の存在を削っているのだ。

 震えが止まった。ビー玉のような感情のない眼球が、灯耶に向けられる。


「な」


 がぱあ、と口が開かれた。


「なまみの、からだは、ひさしぶりだ」


 たどたどしい発音。手に入れた生身の体をどう使うのかに戸惑っているのか。


「こう、ある、ことが、めんどうで、やめたのに。ひとと、いうものは、わからないな、黒陽」

『分からないさ紺精。昔から俺も分からないよ』

「おまえも、もどる、か」

『そのつもりはない。今の宿主は居心地がよい』

「うらやま、しい」


 ぶるりぶるりと全身を震わせながら、紺精と呼ばれた悪食が喋る。

 猪の頭部、人の五体。しかし、その中に詰まっているのは淀んだ業だ。ゆらゆらと上がる紫色の湯気は、その身に貯まった業が現在進行形で消費されているのを表しているのだろうが。


『これから、どうするつもりだ』

「どうも、しない。てきとうに、悪を食って、てきとうに、いきる」

『その悪が何なのか分からなくなったのにか?』

「あいつらが、おしえて、くれた。悪をさがすの、ではなく。悪をつくって、食えばいい」


 紺精の言葉に総毛立つ。この怪異はここで仕留めなくてはならない。

 灯耶は間合いに入ると全力で爪を振るった。ざくりと胴体を裂いたが、すぐに元に戻る。


「ぴぎい! なにを、する!」

「要らん知識を仕入れやがって。今の時代に生身の悪食なんて出てこられても困るんだよ」

「よせ! たたかう、きはない! とめろ、黒陽!」


 なるほど、大嶽と違って灯耶を敵視してはいないのか。業を貯め込んだ宿主から生身を乗っ取ったとはいえ、その敵意は共有していないと。


「やかれるのは、いやだ!」


 大嶽に宿っていたのだから当たり前だが、灯耶がコウダの悪食を焼き捨てたことを把握している。あのまま大嶽が灯耶に殺されていれば、自分は無力な毛皮に変わる。

 となれば、大嶽を縊り殺したのは、紺精が生き延びるための方策のひとつだったのかもしれない。焼かない、と約束すれば大人しくするだろうかと考えて、すぐにその考えを捨てる。こんな危険なやつ、毛皮の形でも生かしておけるものか。


『どうするんだ、灯耶』

「どうもこうもあるかよ。こんなやつを生かしておけるか」

『そうだな。悪を作るというのは良くない』

「そういうこった」


 悪食が悪を作って食らうなど、あまりに人間的ではないか。

 お互い別種の生物で、価値観が違っているから良いのだ。黒陽も相当に人間くさい感性の悪食だが、それでも一線は越えていない。

 紺精は、越えてはいけない線だけを越えてしまった。悪食の感性のまま人間じみたことをする存在は、人間にとっても悪食にとってもただの悪夢だ。


「なんで、なんで! じゃまを、するなよ!」


 ぐんぐんと、紺精の体がやせ細っていく。体内の業を材料にして、戦える状態を強引に作り出そうとしている。骨と、肉だ。

 駄々をこねるように繰り出された拳は、予想を超えて重く鋭い。


「ぐっ!?」


 どうにか受け止めたが、ずんと芯に響いている。大嶽が使っていた時とは比べ物にならない。

 受け止めたまま、爪を伸ばして腕を刻む。ぷぎいと悲鳴を上げながらも腕はすぐに再生した。中身が人間でなくなった以上、斬った程度では意味がないのは当たり前のことか。


『まずいな。急所がないぞ』

「そうだな」


 どうしたものかと考える。紺精は結局のところ、生身といっても淀んだ業で作られたものだ。肉と骨も含めて、業といったを材料にしているに過ぎない。

 淀んだ業は、つまり大嶽の残滓だ。このまま放置したらどんな存在に成り果てるか知れたものではないが、今なら灯耶の理解の及ぶ範囲である。


「ま、試してみるかね」

『灯耶?』


 駄目ならば別の方法を考えれば良いだけ。灯耶は獰猛な笑みを浮かべた。

 硬質化していない両腕を爪で斬り落とし、再生する前に足を払って転ばせる。悲鳴を上げながらも特にダメージを受けた様子はないが、灯耶の目的は元よりそこではない。

 右手で、紺精の頭部を地面に押し付ける。身動きできないよう爪を後頭部に食い込ませながら、背中に片膝を押し当てる。腕が再生する前に決めてしまいたい。

 今なお困惑の感情を伝えてくる黒陽に、指示を出す。


「貪れ、黒陽」


***


「ぴぎいいい!」


 灯耶の掌に伝わる独特の感触に眉をひそめながら、徐々に縮んでいく紺精を眺める。

 斬り離した腕は今も再生していない。不思議なことに、頭以外の末端から先に消失が始まったのだ。人のような見た目をしているが、結局のところ怪異であるのは間違いなかったわけだ。

 すでに下半身はなくなった。上半身はなくなるのではなく、その厚みが薄くなっている。段々と見たことのある姿に近づいている。


『残念だったな紺精、うちの宿主は頭が良いんだ』

「やめろ、やめろ黒陽! いやだ、やかれるのは、いやだ!」


 押さえつけている頭の抵抗が弱まってきている。これが大嶽だったらどんな言葉をこちらに向けてきただろうか。

 ふとよぎったそんな問いを、灯耶は右手に力を入れてくしゃりと握り潰した。

 問いの答えに、特に意味も興味も湧かなかったからだ。


「終わったかな」

『終わったな』


 纏鎧を解いて、地面に残った紫色の毛皮を拾い上げる。

 変なアクシデントはあったが、おおむね予定通りだ。そろそろ向こうでも弌藤が社を削り殺しているだろう。あとは毛皮を二枚とも焼き捨てれば、香澄の当面の安全は確保されたと考えていいだろう。


「灯耶さん!」


 そんなことを考えていると、ちょうど向こうから香澄が走ってきた。

 奥には弌藤と佐脇の姿もある。むしろこちらの方が時間をかけすぎたなと香澄に笑いかけようとしたところで、奇妙な違和感を覚える。


『おい、灯耶……』

「えっ」


 香澄の上着が、来た時とは違う色に染まっている。まさか。

 抱き着いてくる香澄の頭を空いた左手で撫でながら、視線を弌藤の方へ。

 渋い、どこまでも渋い顔で両手を合わせてくる彼に、灯耶は深い溜息をついた。


「説明してもらうぞ、弌藤くん……!」


 取り敢えず、焼き捨てる毛皮は一枚になりそうだ。

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