誰も覚えていない

 大嶽が辻崎を引き連れて消えた。弐貴は激昂する程度には頭に来ていたが、だからといって自分のやることを見失うところまではいかない。


「残念ね、弌藤くん」

「残念?」

「ここに来る前にね、悪食の名前を教えてもらったのよ。削り殺す、だったかな。痛くないように終わらせてあげる」

「つくづく嘘だらけの職場だったわけだ。……馬鹿にしやがって」


 社が大嶽についたことについてはあまり驚きはなかった。

 誰だって自分の命が惜しいのだ。鴻田がいなくなった時点で、大嶽が社を切り捨てる可能性はずいぶんと下がっていた。そういう状況で積極的に協力すれば、殺されることはないと踏んだわけだ。

 社のワインレッドのスーツが、妖しくうごめく。


「ふたりとも、僕の後ろに」


 弐貴が佐脇と香澄を背後にかばう。大嶽と辻崎が戦ったとして、辻崎が負けるとは思えなかった。自分に宿る影月があれほど警戒する人物だ、大嶽を瞬殺したとしても驚きはない。

 つまり、今の自分は社にさえ気をつけていれば良い。向こうからやってくるのは、大嶽ではなく辻崎だ。香澄が佐脇とどのように決着をつけようと思っているとしても勝手に行動には移すまい。

 影月にはここに来る前からしゃべるなと言ってある。今の最優先事項は、悪食を宿していない二人を護ることだ。自分のこだわりに固執することではない。二人を護れるのであれば、どんな卑怯も躊躇うまいと心に決めてある。


「先に削り殺されるのがご希望?」

「出来るかどうか、試してみればいい」


 ある距離まで無防備に近づいてきた社が、怪訝な顔で足を止めた。

 何かを疑っているような目で、まじまじと弐貴を見てくる。


「……へえ」

「何か?」

「私を怖がってないわね。私は悪食の名前を知ったと言ったわよね。君、あの辻崎って男から自分の悪食の名前でも聞いたわけ?」

「そんなわけないでしょう。いくら辻崎さんが凄腕の悪食使いと言っても、他人の悪食の名前を知っているわけがない」


 確かに弐貴は自分の悪食の名前を知っている。しかし、それは辻崎から聞いたものではない。悪食自身の言葉で聞いたのだ。

 社は質問を間違えた。もっと直接的に、悪食の名前を知っているかと聞けば良かったのだ。嘘を嫌う弐貴は、社に気付かれてしまうような返答をしていたはずだ。

 弐貴が嘘をついていないことを察したのか、社はじりじりと歩を進めながら自分を納得させようとし始めた。

 よく言えば機を見るに敏、悪く言えば生き汚い社にとって、命を張って二人を護ろうとする弐貴の行動が理解できず、信じられないに違いない。


「じゃあ、私が課長から本当は悪食の名前を聞いていないと思っているのかしら?」

「さあ。あの課長が、社さんにそういう切り札を渡して対等になることを選ぶなんて危険を背負うとは思ってない……というのはありますがね」

「それは同感。私もこんな異常事態じゃなきゃ、信じてないもの」


 自分の常識とのすり合わせが出来たのか、間合いに入った社が弐貴の両腕を掴んできた。どうやら弐貴が社の前に立ちはだかっているのは、見通しが甘かったからだとでも勝手に納得したのだろう。

 勝ち誇った笑顔で、弐貴を見つめてくる社。まるで死刑宣告のように厳かに、言うべき言葉を口にする。


「絶望しなさい。削り殺せ、悪食!」


 しかし、何も起きなかった。


「……どういうこと?」


 弐貴の両手を掴んだまま、社が固まる。弐貴は一切表情を変えていない。ただ平然と、迫りくる死に絶望することもなく社を見ている。社が必死に考えている様子なのを見て、笑いを噛み殺してはいたが。

 おおかた、弐貴が口にしたように大嶽が社に嘘を教えたのではないかと疑心暗鬼にでもなっているのだろう。

 弐貴は無言でそのまま、影月を動かそうとした。腕を掴まれている今なら、互いに接触している。今度は弐貴が社を削るように指示する番だ。

 が、ここで社は思いがけない行動に出た。

 大嶽の裏切りか、別の要因かは一時的に棚に上げて。片手を弐貴から離すと、奥にいる香澄と佐脇の方に向けた。反応が一瞬だが遅れる。


「噛み殺せ、悪食!」

「しまった!」


 振り返った弐貴の目には、命令に従って手の先から飛び出していく赤い悪食の姿が微かに見えた。

 一直線に飛翔する何かが、香澄に向かう。香澄は反射的に両手を交差し、そこに赤い塊が激突する。


「きゃっ!?」


 勢いよく飛び掛かられて、香澄が尻もちをついた。

 最悪の事態だ。弐貴は手遅れを自覚しながらも香澄の方に駆け寄ろうとして、しかしすぐに足を止めた。


「え、な、何これ!」

「キィッ!」


 香澄の右手が、赤い色をした獣を掴んでいる。それほど大きくない。見た感じではコウモリのようだ。

 薄暗いこんな場所でなければ、弐貴も気づいただろう。香澄の両手が黒く汚れていたことに。

 唖然としていたのは弐貴だけではない。社もそうだった。

 だが、先に我に返ったのは弐貴だ。社の後ろに回って、その頭部を両側から挟むように持つ。


「ちょっと、どういうこと!? なんであの女、悪食に食われないのよ!?」

「さあね。僕は知らないが、辻崎さんが何か切り札を使ったんだろうさ」

「切り札ですって!?」


 事実、弐貴は終わったと思った。香澄のどこかに食らいついた悪食が、香澄をずるりと飲み込むと。思わず飲み込まれる香澄が見えるような錯覚すら覚えた。

 それを防いだのだから、辻崎が何かしたとしか考えられない。そもそも直接悪食とコミュニケーションを取れる辻崎と違い、抹消課の悪食使いは悪食の性質や運用については無知と言って良いほど知識が足りていない。

 と、そこで社は自分が死に体になっていることに気づいたようだ。まず弐貴の両手を引き剥がそうとして叶わず、次には慌てて悪食を手元に戻そうとする。しかし香澄の右手にしっかりと捕まえられた悪食は、社の元に戻ろうとしても戻れずにいる。


「社さん。あなたももう少し考えるべきでしたね。僕が悪食の名前を知っているという可能性について」

「だ、だって辻崎って男からは聞いていないって……」

「最初に悪食の名前を知った誰かは、どうやってその名を知ったのでしょうね?」

『本当よねえ。ちょっと考えれば分かりそうなことなのに』


 聞こえてきた初めての言葉に、何かを察したらしい。

 必死に弐貴の両手に爪を立てて、どうにか外そうと半狂乱で暴れ出す。


「ひっ!? い、嫌あ! やめて、やめてよ弌藤くん! 私も騙されていたの! ね、一緒にあの課長を殺しましょう? そうすればもう誰も私たちの邪魔にはならないから! 私と君が組めばきっと、ね!?」


 無言で、手に力を込める。影月が両手を覆い、まるで獣の爪のような形を取った。

 足掻く社に構わず、弐貴は心静かに自身の悪食に語りかけた。


「嫌、嫌あ! 死にたくない、死にたくないのよ! 私はまだ楽しく生きたいの! 戻ってきて、戻れよ!」

「この女は悪だ。残さずおあがり、悪食」

「てめえ! 許さねえぞ、絶対に――」


 バツン、と。

 耳の奥で音が聞こえたような気がした。


***


 削り殺す、というのを初めて体験した弐貴は、その異様な感触に眉をひそめた。

 まるで自分の体の中で何かが高速回転しているような気配。実際には何も削ってはいないはずなのに、すぐ近くで何かを削っているような空気の動きというか。


「ああ、びっくりした」

『本当よねえ。あたいもやらかしたかと思ったわ』


 弐貴の呟きに、影月が応じる。確かに社が死んだ以上、もう黙らせておく必要もない。その辺り、状況がしっかりと見えている。

 それにしても、辻崎は一体何をしたのだろうか。香澄をここに連れてくる以上、無防備にはしなかったということだろうが、悪食を直接掴むなんて。


「えっ」


 尻もちをついたままの香澄が、ふいに声を上げた。

 掴んだままの赤い悪食が淡く光ったかと思うと、そのまま吸い込まれるように香澄の体内に吸い込まれるように入り込んだのである。


『あらら』


 影月の反応で、何となく察する。

 何もなくなった両手を見て、目を瞬かせる香澄。これは悪食使いになってしまったと見て良いだろうか。


「こ、これっていったい……」

「悪食使いになったってことだよ、路行さん」

「えぇっ!?」


 何だか不本意そうな声だった。灯耶さんが怒りそう、などと呟いているから香澄にとってもアクシデントだったようだ。

 ある程度の距離まで近づいた弐貴は、香澄の両手がススのようなもので黒く汚れていることに気づいた。それが悪食を弾いた原料だろうか。


「ええと、路行さん。その両手の黒いのは一体……」

「あ、これ? 灯耶さんがここに来る直前に塗ってくれたの。コウダってやつが使っていた悪食を焼いたときの灰なんだって。洗い流すか薄まるまでは、悪食の攻撃も寄せ付けないからって。他のところを噛まれないように、両手を顔の前で交差するっていうのも灯耶さんからのアドバイス」


 灯耶さんは凄いでしょ、と胸を張る香澄に弐貴は溜息を禁じ得ない。焼いた残骸は弐貴にと持ってきていたが、燃えた後の灰まで持ち歩いていたとは。辻崎の知識の深さはどれほどなのか。

 それにしても。辻崎が凄いのはもういい加減分かっているが、それならあらかじめ『対策しておいた』くらいは伝えておいて欲しいものだ。


「知ってたか?」

『知識としては知ってたけど、忘れてたわ。まさか悪食を焼き捨てる馬鹿がいるなんて思わないじゃない?』


 その言葉にはまったくもって同感だった。焼き捨てた灰にまで悪食の攻撃を防ぐ効果があるということよりも、悪食使いが悪食を平然と焼くというインパクトの方が強い。

 ともあれ二人は守られた。香澄が悪食使いになってしまったことは予想外だったが避けようがなかった。不可抗力だと言って良いはずだ。

 と、起き上がった香澄の前に、佐脇が跪いた。次から次へと話が進むが、弐貴には佐脇の気持ちが分かる。


「その化け物を、香澄ちゃんも手に入れたんだね。その力で私を……殺して欲しい」

「佐脇さん」

「僕は、取り返しのつかないことをした。路行さんみたいに殺されるのは怖いけど、香澄ちゃんの手にかかるのなら、その覚悟は出来てる」


 恐怖にうち震えながらも、目はまっすぐに香澄を見ている。

 佐脇の心無い言葉が、路行浩二の命を奪った。罪悪感を抱くのも分かる。責任の全てではないが、一端は確かに佐脇英介にあるのだから。


「そんなこと、しない」

「香澄ちゃん……?」

「だって、佐脇さんが死んだら。パパのことを覚えている人、私だけになっちゃうじゃない!」


 痛切な悲鳴だった。

 香澄も分かっているのだ。佐脇にも責任はある。だが、その重さは悪食で佐脇を食い殺すほどのものではないことを。悪いのは彼を利用した抹消課の者たちなのだと。

 そして、香澄にとっての佐脇は、父親の思い出を共有できる唯一の相手なのだ。ぽたぽたと涙を流しながら、佐脇に感情をぶつけていく。


「パパに悪いと思うなら、パパの代わりに! パパの研究を完成させてよ! 世の中のみんなを笑顔にしたいって言ってたんだから、パパは!」

「そう、だね。浩二さんはいつもそう言っていたね。……あの研究が浩二さんのものだって知っているのは、私たちだけなんだね」


 佐脇も泣いている。こういう空気はどうにも苦手だ。

 弐貴は二人から視線を逸らし、辻崎たちが居るだろう方向に目を向けた。

 社がいる時には気づかなかったが、何やら重機がぶつかり合うような音が向こうから響いてくる。

 派手にやってるわねえ、という影月の言葉を聞きながら、弐貴はこの件が終わったあとのことに思いを馳せるのだった。

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