集束

 灯耶と香澄は、灯耶の隠れ家で一息ついていた。

 どうやら家を出たのはそれなりに危険なタイミングだったらしく、香澄の元には彼女の家族や友人からのメッセージが多数届いていた。

 確認したのは途中のコンビニで食料品を買い込んでいた時。慌てて返信している香澄に、終わったら状況が落ち着くまで電源を切るよう伝える。状況が分かるまでは、足がつくのは避けたい。

 灯耶はソファに横たわる。しばらくは弌藤からの連絡待ちだ。

 香澄はコンビニの袋をごそごそと探っていた。取り出したのはパスタだ。


「灯耶さん、何か食べる?」

「いや、少し寝るよ。先に食べてて」

「分かった」


 徹夜の後だ、さすがに少し眠い。

 勝手知ったる我が家で、灯耶の意識はすぐに眠りに沈んでいくのだった。


***


 そっと頬を撫でられたような気がした。

 先輩? という言葉が口から漏れる。目を開いたが、そこには誰の姿もない。

 体を起こすと、テーブルに突っ伏して寝息を立てている香澄が見えた。自分の悪食がその手の悪戯をするはずもなく。


『アカネの夢でも見ていたのか?』

「いや、夢じゃない……と思う。何だったんだろうな」


 頭を掻きながら、相棒の問いに答える。狗藤朱音という悪食使いは、自分の悪食に自分自身を食わせて死んだ。彼女の存在は世の中の記憶からも記録からも消え、灯耶と相棒の記憶に留まっているのみだ。

 狗藤朱音。三つ年上でサークルの先輩だった彼女は、就職活動に疲れていた灯耶と再会した時には悪食をその身に宿していた。

 悪食の資質を持ち、身寄りもなく、それほど意志が強くない。

 朱音に悪食を託した警察のお偉方は、つまり彼女のそんな性質を悪食使いの才能だと考えた。

 結果として心をすり減らした朱音は、再会した灯耶に縋った。縋ってもなお自分を許す事が出来なかった。


「ここに戻ってきたのも久々だからね、出迎えてくれたんじゃないか」

『非科学的だな』

「お前が言うかよ」


 時折、灯耶はすぐ近くに朱音の存在を感じることがある。それはきっと未練や幻想の類なのだろうと思いながらも、それを否定することも出来ない。

 悪食に食い尽くされても、魂のようなものまでは食らえないのだろうか。それを確認するのが恐ろしくて、灯耶はいつだって誤魔化すように笑う。


「俺はきっと恨まれているからなあ。結局、先輩の願いを無視している」

『そんなことはないさ。アカネはお前だけはきっと恨まない』

「お前にも悪いと思っているよ、黒陽」


 自分のことは忘れて欲しいという、朱音が遺した最期の願い。朱音のいない世界に意味はないから自分を焼き捨てて欲しいという、悪食の願い。

 どちらも叶えず、自分の勝手にしているのだから。


「ま、香澄ちゃんの心にあまり傷を残すなってことなんじゃないかな」


 寝ている香澄の近くにそっと歩み寄り、顔にかかっている髪をそっと除ける。

 起きることなく軽く呻く香澄を優しく見下ろして、灯耶は冷蔵庫へと足を向ける。


『……悪食を持たない者を悪食使いから守るのは容易ではないぞ』

「そうだな」

『やはり、悪食を宿させるのは反対か』

「まあね」


 悪食は怪異だ。人とは根本的に考え方が異なることも、人生に明確に悪影響を与えるものであることも、灯耶は誰よりもよく知っている。

 だが、それだけではない。灯耶が香澄に悪食と関わらせたくないのは、他にも理由がある。


「お前みたいな物好きな悪食、他にいないだろ?」

『も、物好き?』

「お前以外の悪食ってのはこう……反吐が出るようなやつばかりだ」

『そうなのか?』


 コウダという男が宿していた悪食を含めて、灯耶はこれまでに三体の悪食を焼き捨てている。そのどれもが、どうにも度し難い性格だった。狗藤は不幸な生涯だったと今でも思うが、こと悪食を引く運だけは良かったのだなと今は思っている。

 一方で悪食である黒陽は、灯耶が焼き捨てた他の悪食の性格についてはあまり印象がないようだ。この辺り、種族の違いと言うしかないと思う。

 冷蔵庫から牛乳を取り出し、開いてそのまま一気にあおる。飲み干した牛乳パックを軽く洗ったところで、リビングから大音量の着信音が聞こえてきた。


「うわっ!? 寝てた!」


 向こう側で、香澄がびくりと反応している。

 灯耶は水を止めると、香澄が慌てて持ってきた電話を受け取った。ディスプレイに映る番号が知らない番号であることを確認してから通話ボタンを押す。


「もしもし?」


***


 アポイントがなかったからか、随分と待たされた。

 弐貴の目の前には、縮こまって震えている佐脇英介がいる。

 何に対する恐れかは分からない。だが、彼は確かに自分を恐れていた。


「わ、私も殺されますか。路行所長のように」

「僕は今のところ、そうするつもりはありません」


 弐貴がきっぱりと言い切ると、佐脇は意外に思ったようだ。

 眼鏡の位置を直して、ぽかんと弐貴の顔を見てくる。


「足がつきそうになったから、私を切り捨てるつもりなのでは?」

「そう仰るということは、路行浩二さんの件に佐脇さんも関わっていると考えてよろしいのですか」

「ご存知ない、のですか」

「そうですね。僕はあなたと関係のある職員が誰かは存じません。僕がここにいるのは、逢坂……路行香澄さんの依頼だと思っていただいて結構です」

「香澄ちゃん、の」


 佐脇の顔が曇る。罪悪感を感じさせる口調と表情で、ぽつぽつと話し出す。


「私の不満が、路行所長を死なせてしまったのは確かです。……私は、評価されたかった。路行浩二の助手としてではなく、ひとりの佐脇英介として」

 

 居酒屋で出会った男と意気投合したこと、誰も覚えていない事件の話で盛り上がったこと。上司である路行への不満を述べたこと。

 その少し後に、路行が突然いなくなって自分が所長になったこと。

 男の言葉通りに、金を振り込んだこと。


「研究で得られた利益の一部を、定期的に振り込むようにと言われていました。そのために路行さんを排除した、と」

「そうですか……。その人物の名は、知らないんですね?」

「ええ」


 ほう、と溜息をひとつ。弐貴の基準では、佐脇は悪というには少し足りない。彼もまた被害者だ。飲み屋での愚痴程度で人が死ぬなど、さすがに飛躍が過ぎる。

 と、佐脇の胸元で端末の震える音。恐る恐る端末を取り出した佐脇が、顔を引きつらせた。

 こちらをちらりと見る。頷くと、弐貴に背を向けて通話に出る。

 何を話しているのかは聞き取れなかったが、びくびくと時折背中が震える。通話の途中でこちらを振り返った時、その目には先ほどよりも明らかな恐怖が見えた。差し出された端末を受け取って、耳に当てる。


「もしもし」

『弌藤くん。私は君を買い被っていたと言えば良いのかな、あるいは見くびっていたと言えば良いのか』

「どちらでもいいんじゃありませんか。課長……いえ、大嶽さん」

『どうでしょう? このままそこの佐脇を処分して、全部無かったことにするというのは』

「そそられませんね。それだと僕はともかく、辻崎さんは止まらないと思いますよ」

『そちらは社くんを処分することで終わりにすれば良い。違いますか?』

「で、辻崎さんは路行香澄を見捨てることで三方痛み分け、とでも?」

『そこまでは言いませんよ。当初の予定通り、路行香澄のことは忘れます。それでどうです?』

「それに関しては、辻崎さんと直接交渉するんですね。仲介くらいはしますよ」

『分かりました。そこの近くに所有者のいない廃ビルがあります。座標を送りますから案内してください』

「ええ」


 通話が切られる。彼は一度辻崎を騙している。辻崎が大嶽の甘言に乗るとは弐貴には思えなかったが、大嶽自身もそこに期待はしていないように聞こえた。

 ここを切り抜けた後、ほとぼりを冷まして、灯耶が安心して目を離したところで香澄を処分する。おおかたそんなところだろう。

 弐貴はそのまま端末を弄って、灯耶の番号を押す。自分のスマートフォンは職場なので灯耶が出るかは分からないが、出るまでかけ続ければいいだけだ。

 呼び出し音が鳴る間に、弐貴は佐脇に軽く声をかけた。


「路行香澄さんが来るけど、会います?」

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