帰宅
「ただいま」
自分の手で開けたドアは何だか重く感じられた。
香澄の足が家から遠くなったのは、言うまでもなく父親の死後からだ。見たこともない逢坂藤吾という男を指してお父さんでしょ、と言う母が信じられなかった。
事情を知った今は、母への悪感情はない。だが、逢坂を父として受け入れることも断じて出来ない。自分の父は路行浩二ひとりだけだ。
不思議なことだが、自宅は自分の場所ではなくなっている。灯耶の勧めで帰宅した香澄は、はっきりと居心地の悪さを感じていた。
「香澄、大丈夫?」
友達の家に泊まると言ってしばらく帰らなかった娘に対して、母からは特に小言もなかった。突然奇妙なことを言うようになった娘への心配があるだけだ。
「大丈夫、落ち着いたよ」
灯耶と出会う前、目の前にある家族が正しくて、自分の記憶にある家族は嘘なのかと混乱していた。自分の正しさを証明してくれる人は誰もおらず、頭がおかしくなったのかとさえ思った。
悪食という怪物を知って理解したのは、まともなのは自分であって、忘れているのは母の方だということ。
だが、それを本人に教えることは出来ない。厳密には、どう教えたところで意味がない。父は世界の記録からも記憶からも削り取られた。たとえどれ程近しくても、悪食の捕食によって忘れられてしまった父の記憶を、忘れてしまった母が思い出すことは決してない。灯耶はそう教えてくれた。
この家の家主であるという役割を押し付けられた藤吾も同じなのだ。灯耶いわくの『世の中を司る何か』が辻褄合わせに適当な人物として無機質に割り当てただけで、当人が悪いわけでもなんでもない。
だがそれでも。香澄は藤吾の顔を見ると吐き気に似たむかつきを覚えてしまう。もしも自分が悪食使いの適性を持たない普通の人間であったならば、路行浩二の記憶をすっぱりと忘れて、藤吾を父親だと信じていたのかと思うと。
「おはよう」
自分の過ごしていた部屋も、体を横たえていたベッドも、何故だか違うような気がしてならない。
一晩を過ごして、香澄はどうしても違和感を拭えないまま朝を迎えた。
藤吾と母は、リビングで既に朝食を始めていた。鼻をつく、嗅ぎ慣れたにおい。父が好きだった、母のコーヒーのにおい。
「瞳さん。僕はコーヒー苦手なんだってば」
「あら? あ、そうよね。どうしてかしら、朝はコーヒーじゃなくちゃいけない気がして」
「……ママ、あたしが飲むよ」
泣きそうな声になってしまってはいないだろうか。
胸を衝きあがる感情を抑えて、震えないように、震わせないように努めながら言うと、母はにこりと笑いながらコーヒーカップを香澄の前に置いてくれる。
香りを楽しみ、口をつけようとしたところでふと。藤吾と母が何やら思わせぶりに視線を交わしていることに気づく。
じっと見つめると、もじもじとエプロンを弄っていた母が決心したように口を開いた。
「じ、実はね?」
「どうしたのよ」
「ママね、妊娠したの。来年にはお姉ちゃんになるのよ、香澄。ちょっと年の離れたお姉ちゃんね」
「えっ」
耳を疑う。胸につかえていた感情の全てがどこかへ霧散した。
あやうく口から出そうになった「誰の子?」という言葉をどうにか飲み込んで、コーヒーを啜る。父が好きだった味だが、それどころではない。
「二ヶ月くらいかしら? やだ、なんか恥ずかしいわね」
「そんなこと、言わないでくれよ瞳さん。僕も恥ずかしくなってくる」
藤吾が頭を掻くのが恐ろしい。こんなことまで書き替えられてしまうのか。
そういえば、二ヶ月前。
父は研究に大きな進展があったとだいぶ浮かれていた。まとまった休暇を取って母への恩返しだと、小旅行にも行ったのだったか。たまには二人で過ごしなよと、気を使って留守番したのだ。
大学時代に学生結婚した両親はまだまだ若い。この年齢で姉になるとは思っていなかったが。
「最近、香澄がちょっと不安定になったでしょ? だから何か心配でもあるのかと思って、ちょっと調べてみたの。そしたら……」
「そっかぁ」
香澄は天井を見上げてそう答えた。
二人にとっては自分たちの間に出来た子だ。だが、香澄にとってはそうではない。生まれてくるのが路行浩二と瞳の子供だと、香澄だけが知っている。
家を出よう。
香澄は強く決意した。このまま彼らと『家族』ではいられない。自分はもう、逢坂家とは違う存在だという、そんな確信がある。
「おめでと、ママ」
内心のすべてを覆い隠した笑顔で、祝福を告げる。
はにかむような笑顔の母は、きっと自分がいなくても大丈夫だ。自分のことを忘れることになっても、生まれてくる子とその『父親』がいれば。
願わくば、父と子が本当の親子でないことが何かの拍子で調べられてしまうことがないように。そんな願いを表情の奥に隠しながら。
奇妙なことだが、この日。
香澄は本当の意味で、たった独りの『路行香澄』になった。
彼女が憧れる、辻崎灯耶のように。
***
「早かったね」
「うん」
晴れやかな顔で出てきた香澄に、灯耶は特に何も聞かなかった。
周囲を見回して悪食使いの気配がないことを確認すると、後ろに座るように促す。
「ねえ、灯耶さん」
「どうした?」
「私、決めたよ」
悩みのない声だった。
直感する。彼女は自分の中にある、色々な感情と決着をつけたらしい。
「パパの仇を討ちたい」
「そっか、決めちゃったか。了解」
憎しみとか、怒りではなく。たった独りの路行香澄として、誰でもなくなってしまった父の報いを受けさせなくてはならないと思ったのだろう。
自分の仇を討った灯耶は、それを止めることの出来る言葉を持たない。香澄の復讐を手伝う、あるいは代わってやるのが灯耶の役割だ。
「それじゃあ、狙いは三人だね」
「三人?」
「君の親父さんを消し去ろうと思った奴、親父さんの罪をでっち上げた奴、親父さんを実際に悪食に食わせた奴」
「佐脇さんも、なのかな」
「無関係ではないと思うよ。それに関しては弌藤くんの調査結果を待とうか」
考えようによっては、現状で最も危険なのは弌藤だ。今朝までは香澄が一番危険だったが、どうにか危険は脱したらしいと判断する。
灯耶は昨夜は逢坂家の近くで不審な人物がやってこないか警戒していたが、空振りだった。どうやら昨日の今日で香澄を襲うことは考えていなかったようだ。
路行浩二の時もそうだったが、コウダと違ってきっちりと型に嵌めるのが向こうのスタイルらしい。段取りを踏んで、内部を納得させることで統制を取っているのだろう。
コウダとカクラの敵討ちを、内部で正当化するための段取り。だが、今この状況で何よりも貴重なのは時間なのだ。何はともあれ、こちらが一手早かった。
バイクが走り出すと、香澄が強めにしがみついてきた。背中にヘルメットが押し当てられる感触。泣いているのかもしれない。
灯耶の時は、仇の中に親しい人間などいなかった。何の感情もなく、悪食に全員貪れと命じることが出来た。だが、香澄にとって佐脇という人物はそれなりに大きな相手なのだろう。
「俺も佐脇さんが無関係だってことを祈っておくよ」
聞こえることはないと思うが、灯耶はそう呟いた。
向かう先は、吾妻と関係のない灯耶の部屋。灯耶が大学時代を過ごし、再会してから悪食を背負う日まで狗藤朱音と暮らした部屋だ。
大家はきっともう、灯耶の顔を覚えてはいないだろう。引き落とされる家賃だけがか細い縁となって部屋と灯耶とを結びつけているだけ。
割り切れてはいても、吹っ切れてはいない。
香澄とは逆だなと思いながら、灯耶は口許を人知れず緩めるのだった。
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